ヒオクダルスの二重螺旋

矢崎未紗

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第13話 里長の操言士と初めての恋情

5.相思(下)

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(まだ、全然)

 足りない。もっとだ。
 挟んで離して、またすぐに挟む。まっすぐ縦に、次は斜めに角度を変えて、上唇も下唇もあますことなく順番に口付ける。それでもまだ足りない。本当はもっとめちゃくちゃにからみ合いたい。やわらかくて温かいだろう彼女の口内を蹂躙してしまいたい。でもそれはさすがにはばかられるので、なんとか理性を保つ。

(紀更、紀更……っ)

 ユルゲンは舌を出すと、ぺろりと紀更の唇を舐めた。今はこれくらいまでなら許されるだろうか。

「っ……!」

 紀更が激しく動揺したのが、わずかに漏れる息遣いでわかる。行き場のなかった紀更の両手は、何かを主張するようにユルゲンの服を掴んで引っ張った。どうすればいいのかわからない、という戸惑いの空気を出している紀更のその反応がかわいくて嬉しくて、ユルゲンは余計にしつこく、彼女の唇を舌先で丹念に舐め回した。

「~っ、はぁっ、はぁっ」

 うまく呼吸できずにいたために苦しくなった紀更が、ユルゲンの身体を押しのけて思いっきり口で息を吸う。その様を見下ろしてユルゲンは苦笑した。

「キスの最中の呼吸はな、鼻でするんだよ」
「そ、そんな、のっ……初めてなんだからわかりません!」

 涙目の紀更がユルゲンを見上げて拗ねる。

「初めてか」
「そうですよっ」

 馬鹿にされたと思ったのか、紀更は悔しそうに眉根を寄せてぷいっと横を向いた。その頬にやさしく手のひらを添えて、ユルゲンは紀更を自分の方に向かせる。
 紀更は拗ねているというのに、その態度ひとつとってもかわいらしくて、ユルゲンはにまにまと締まりのない笑みを浮かべてしまう。

「悪いが、初めてじゃないぞ」
「え?」
「ラッツ半島の始海の塔に行ったあの嵐の浜辺で、すでにしている。まあ、あれは蘇生に必要な人口呼吸だったから、回数に数えなくてもいいかもしれんが」
「なっ」

 初めて聞かされる事実に、紀更は続ける言葉が見つからなかった。

――昨夜のことはどこから憶えてる?
――えっと、海に落ちて……その次は浜辺でユルゲンさんに起こされました。
――そう、か。

 ラッツ半島の始海の塔での会話が思い起こされる。あの時ユルゲンが妙に言いよどんだのは、人工呼吸のために口付けたことを言うべきかどうか迷っていたからなのだろう。

「も、もうっ」

 蘇生処置のためとはいえ、勝手に口付けられたことを怒るべきか。それとも、あの嵐の海から助けてくれたことについてあらためてお礼を言うべきか。それよりも、いまこの瞬間の恥ずかしさがどうにかならないか。ぐるぐると思考があちこちに飛ぶ紀更は、まだ冷めやらぬ頬で俯いた。

「紀更、こっちを見てくれ」

 自分に比べて一回りも二回りも小さい身体の紀更が俯いてしまうと、その表情が見えなくてつまらない。栗色の髪のつむじが見えるのはかわいいが、本当に見たいのはやはり彼女の瑞々しい緑色の瞳だ。
 ユルゲンは両手で紀更の頬を挟むとそっと上向きにさせた。真っ赤な紀更の頬は熱かったが、とてもすべすべしていてやわらかくて思わずなでさすってしまいそうになる。

「なんですか」

 恥ずかしさと照れくささで、紀更は少し棘のある声で言った。不満なことなど何もないが、この状況をどう過ごせばよいのかわからない。首をうしろにのけぞらせて見上げたユルゲンがそんな自分とは違って目を細めてにやにやと笑っているものだから、自分はどういう態度をすべきなのか余計にわからなかった。

「好きだよ」

 そう言ってユルゲンは紀更のひたいに口付けた。

「君が怒っても拗ねても、戸惑っても困っても」

 次はこめかみに、薄い瞼に、熱を帯びている真っ赤な頬に。

「泣いても笑っても」

 にやけていたユルゲンの笑みの中にこぼれそうなほどの優しさが滲む。

「紀更のすべてがいとしくてたまらないんだ。心から愛してる」

 ボッ、と点火した音がしそうなほどに紀更の耳も首も真っ赤になった。全身の血液が首から上に集まっているようだ。あまりにも熱すぎるので、血管が焼き切れてしまうのではないかとすら思う。

「あっ、あ、あの」

 ユルゲンの声、言葉、表情、行動。そのすべてが容赦なく与えてくる甘さ。その量と密度に紀更の頭は限界を超えた。

「ああっ……あ、の」
「ん? どうかしたか」
「なっ、な……」

 小恥ずかしい台詞を量産しておいてなぜそんなにも平然としていられるのだろう。年齢の差なのか人生経験の差なのか。それとも告白した直後の男女というのは、そんな風にいつもと変わらずに構えていられるのが一般的なのだろうか。

「紀更は? 紀更ももう一度言ってくれないか」
「えっ、あのっ……あ、そっ、そ……れは」

 故障してしまった紀更の脳と口はまともな言葉を発せられない。
 さすがにかわいそうに思ったので、ユルゲンは紀更の頬から両手を離した。その代わり、彼女の手を引いてバルコニーの西側に移動する。

「ほら、座れ」

 ユルゲンは紀更の手を引っ張りながら、赤褐色の木片でできた床に太陽を背にして腰を下ろした。大きく足を左右に開いて膝を立てると、自分の目の前の空いたスペースに座るようにと紀更をうながす。
 まだ頬や耳の赤みがとれない紀更は、しかし自分だけ突っ立ったままでいるわけにもいかず、ユルゲンに言われるがままぺたりと腰を下ろして横座りをした。少しだけユルゲンとの間に距離を作ったのだが、それを許さないユルゲンにもっと寄れ、と言われてしまう。紀更はユルゲンに背中を押される形でユルゲンの胸に頬を寄せた。

(あっ……)

 その時、ユルゲンの胸にふれた耳が彼の鼓動を拾った。彼は表面上、いたって平然としているように見えたが、その鼓動は紀更に負けないくらい強く速く高鳴っていた。

(そっか……ユルゲンさんも緊張してるのね)

 そう考えたら、徐々に落ち着きが戻ってきた。
 猫が甘えるように、紀更は少しだけ、ユルゲンの胸元に頬ずりをする。ユルゲンが西に傾いた太陽を背にしてくれているおかげで、眩しくはない。

「ずっと理由を探してたんだ」

 ユルゲンはゆっくりと東へ伸びていく二人の影を見つめ、紀更の背中に手のひらを添えたままぽつりと白状した。

「紀更と一緒にいる理由。紀更の隣に、傍に……いてもいい理由を」

 それはいつの頃からだったか。

「探し物が見つかる気がするから、なんてそんな不確かなものじゃなくて」

 旅をする紀更の、操言院で勉学に励む紀更の、すぐ傍にいてもいいもっと明確な形の理由を。彼女から離れるなんてできない。けれど理由もなしに傍にいるにはあまりにも体裁が悪すぎたから。

「だから引き受けたんだ。護衛なら堂々と君の傍にいられる。立派な理由だ」

 なんてあからさまな下心。カッコ悪い。情けない。自分でそう思う。
 惚れた女の傍にいるためにその女の護衛依頼の仕事を引き受けるなんて。故郷にいる同業者たちに知られたら、ある者には笑われ、ある者には叱咤されるだろう。そんな理由で仕事を選ぶんじゃねぇ、と。だが引き受けないという選択肢はなかった。

「私と同じ……」

 紀更は視線を上向けて彼の青い瞳を見やる。その紀更に目線を落としてユルゲンは頷いた。

「ああ、同じだな。俺も、紀更と一緒にいたい。離れたくないんだ」

 ゆるく三つ編みにしている紀更の髪紐を、ユルゲンはそっとほどいた。すると栗色の紀更の髪の毛が、そよそよと風に遊ばれる。
 二本の髪紐をズボンのポケットにねじ込み、ユルゲンは紀更の髪を耳にかけてやった。

「一緒にいられるから。それだけの都合で仕事を選ぶなんざ、公私混同も甚だしいな。情けない話だよ。これで満足か」

 ユルゲンが不貞腐れたように言うと、紀更はぶんぶんと首を横に振った。

「情けなくなんかない、です……。だって、あの、うまく言えないけど」

 問い詰めるように繰り返し理由を尋ねたのは自分だ。それなのにユルゲンの方が申し訳なさそうな表情をしているので心苦しい。

「私、嬉しかったですから。ユルゲンさんとまた一緒に旅に出たいって思ってて……だから、護衛の仕事を引き受けてくれたって聞いて安心して」

 そう言葉に出してから、紀更は自分の身勝手さに幻滅した。自分こそ公私混同というか、一方的な望みをつのらせていたんだと思い知る。彼に何度も何度も理由を訊いたのも、自分が安心感を得たいからだ。なんて利己的なんだろうか。

「ごめんなさい」
「何がだ」
「私、自分勝手で」

 紀更がそう謝罪すると、ユルゲンはちゅっ、と紀更のひたいにキスをした。不意打ちのキスに一瞬身体が強張った紀更は、いたたまれなさそうな表情で瞬きを繰り返している。

「まったくそうは思わない」
「でも」
「俺が紀更の傍にいたいと思っているように、もしかしたら紀更も同じことを思ってくれているかもしれない。そう期待して、でも違うと知るのが怖くて、自分の気持ちを見ないふりをしていた。曖昧なままにしていて、すまん」
「違う!」

 心の内を告白し、謝るユルゲンに、なぜか紀更は泣きそうな気持ちになった。
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