ヒオクダルスの二重螺旋

矢崎未紗

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第16話 師匠操言士と親の過去

1.雨上がり(上)

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「出たか」

 無言で浴室から出てきた紀更に、ユルゲンはそっと近付いた。

「身体は大丈夫か? 何かけがをしていないか」
「はい、平気です」
「そうか。ならいい」

 七分袖の袖口がフリルになっている、白い膝丈ネグリジェに身を包んで出てきた紀更の身体を気遣い、問題がないことを確かめるとユルゲンは安心して表情をゆるめた。

「俺も行ってくる」

 そして紀更と入れ違いで、ユルゲンも浴室に向かった。
 紀更はどこか覚束ない足取りで大きな寝台に腰掛けて、アイボリー色の絨毯が敷かれた床を見つめた。消えない自責の念に、徐々にほかの思考がからみついてくる。

(カギソはどうなったの)

 奈月やアーサーは? マークは? ユルゲンとマークがいたということは、どこかに王黎もいた? では、紅雷は? エリックたちは? 無事だろうか。いま、どこにいるだろうか。ピラーオルドはまだ、自分や王黎を付け狙うだろうか。それはいつ終わるのだろうか。どうすれば終わらせられるのだろうか。ピラーオルドをなんとかしたい、止めたいと思ったが、そのゴールは具体的にどこにあるのだろう。なぜアーサーは操言士団を裏切った? 彼に何があった? 今後も、アーサーやローベルのように国を裏切る操言士は出てきてしまうだろうか。そうならないようにするためには、どうすればいいのだろう。操言士もそうでない国民も、オリジーアもセカンディアも、誰もがみな平和に、安全に、安寧の中を生きていくためにはどうすればいいのだろう。自分には何ができるだろう。逆に自分にはできないこと、あるいはしてはいけないこともあるだろうか。

「まったく、ほんとに便利な場所だな、この塔は」

 予想以上にユルゲンの戻りが早くて、紀更は驚いて顔を上げた。ぼうっとして気付かないうちに、そんなにも時間が経ったのか。それともユルゲンが烏の行水だったのか。
 ゆったりとした着心地の真っ黒な半袖と長ズボンを着ているユルゲンは、寝台に腰掛けている紀更の隣にゆっくりと腰を下ろした。二人分の重みで、寝台のマットはずいぶんと深く沈む。
 塔が用意した手拭いは不思議で、それで髪の毛を拭けばあっという間に水気が吸い取られ、湿った髪はさらさらと乾く。ユルゲンの黒髪も、海水が落ちてさっぱりと乾いていた。

「紀更、本当にけがはしていないな?」

 ユルゲンに問われると、紀更はこくりと頷いた。ユルゲンは黙ったままの紀更の手首をそっと掴み、そこに残っている麻縄のこすれた痕を観察する。

「縄の痕が残ってるな。首もか」

 それから、紀更の栗色の髪をかき分けて首筋に視線をやる。そちらも、カギソが強く縄を引っ張ったためか皮膚が赤くなっており、一番力が加わった個所は明らかな擦過傷になっていた。

「カギソの野郎、次に会ったら必ずぶん殴ってやる」

 ユルゲンは紀更の拘束痕を見て抱いた怒りを物騒な声音に乗せる。しかしすぐにその怒りを鎮めて、紀更の後頭部をやさしくなでた。

「怖かっただろう。一人でよく頑張ったな。紀更が無事でよかった。縄での拘束のほかには何もされていないか?」

 ユルゲンは俯く紀更の横顔をのぞき込んだが、紀更は沈黙したままだ。

(ほかに……)

 何もされていない、と答えるのは難しい。カギソには「何か」をされた。魂にふれられそうになって、すんでのところで拒絶はできたようだが心はのぞかれた。不躾に、土足で、遠慮なしに。

「紀更?」

 否、という返事がないことで、ユルゲンの脳裏に嫌な可能性がよぎった。ユルゲンの中で鎮めた怒りが再び発火しそうになったが、それはようやく答えた紀更の声によって抑え込まれた。

「カギソが……操言の力で私の心をのぞきました」

 のぞかれた、とは言いたくなくて、紀更は第三者であるかのように述べた。

「私の魂に闇の四分力が宿っていないか疑って……私が操言の力を宿した瞬間を知ろうとしたみたいです」
「そうか」

 ユルゲンは悔しさを呑み込み、絞り出すように頷いた。
 操言の力で心をのぞく。それがどういう仕組みで行われるもので、そしてそれをされた紀更が具体的にどういう状態になったのかはわからない。だが、それはきっと身体を辱められるのと同じくらいに屈辱的で不快感に満ちた行為だったのだろう。ぼんやりと床を見つめる紀更の緑色の瞳から一切の明るさが失われていることを見れば、つらい経験だったことは容易に想像がついた。

「すまん。傍にいてやれなかった」

 ユルゲンが謝ると、紀更は大きく首を横に振った。
 違う。そうじゃない。そんなこと、言ってほしくない。あなたは来てくれた。カギソを恐れず怪魔も恐れず、勇敢に戦ってくれた。私を助けるため、追いかけるように自ら海に飛び込んでくれた。傍にいてくれた。守ってくれた。

「ユルゲンさん」

 紀更の声が震え、視界が涙で滲み始める。

「私……私がいなければ、ユルゲンさんは危ない目に……遭わなかった」

 特別な操言士、なんて呼ばれて。
 ピラーオルドをなんとかしたい、なんて無茶を言って。
 そんな自分がいなければ、彼が巻き込まれることはなかったのに。

「ごめん、なさっ……。私っ……いなければ、よかっ……」
「紀更!」

 ぽろぽろと涙をこぼす紀更の両肩を自分の方に向けさせて、ユルゲンは紀更を抱き込んだ。彼女の後頭部に手を回してその細い身体を自分に押し付けて、はっきりと言う。

「君がいなければよかったなんて、誰も思っていない。俺が思っていない! 紀更はいていいんだ。普通に生きて、当たり前に生きて、自分の思うことを言ったりやったり、好きにしていいんだ」
「っ……でも」
「言っただろう!」

 ユルゲンは声を荒くした。
 そんな風に思ってほしくない。紀更にそんな後ろ向きなことを言わせたくない。そんなことを言わせるために、支えてきたんじゃない。

「俺は紀更のことがとても大事なんだ。ずっと傍にいて、紀更のためになることを全部してやりたい。君のために戦うことも君を命懸けで守ることも、俺がしたくてしてるんだ。君のせいじゃない」
「でも、危ない……っ」
「構わない! 紀更の隣にいられるなら、どんな危険な目に遭っても! 君を守れるなら、海の中だろうが嵐の中だろうがどこへでも行く! 君を失うくらいなら、俺が死んでいい! 紀更、頼む」

 ユルゲンは紀更の身体を離した。大きな両手で紀更の頬を包み込み、涙を流す緑色の瞳を自分の方へ向けさせる。

「そんな風に自分を責めないでくれ。君は何も悪くない。いいんだ、俺が好きでやってることなんだ」
「でもっ……わ……たし、も……ユルゲンさん……失い、たく……ないの」

 いつの頃からだっただろうか。ふいに胸が痛む、そんな瞬間が増えていた。
 友人といても家族といても、ふいに襲ってくる孤独や疎外感。弟の俊が死んでから、その痛みはもっと胸の奥深くで泣くようになった。
 寂しい、悲しい、私は一人ぼっち。一人じゃないのに孤独ひとりだとささやかれているようで、誰かに知ってほしかった。気付いてほしかった。そう、誰かに――。

――私じゃ……できないの。
――誰か!

 水の村レイトでのキヴィネとの戦闘。自分一人では何もできない。誰か助けて、誰か。そう強く願った瞬間に、ユルゲンが現れた。それから彼とはずっと一緒にいて、気が付けば胸の痛みはもうなかった。ユルゲンがいなくなってしまったら、離れてしまったら――そう考えると心は寂しくなったが、彼と共に過ごせる時間はその対極で満たされていた。
 ユルゲンは、自分が好きでやっていることだと言う。けれど、何が原因だとしても彼がいなくなってしまったら――もしも死んでしまったら、この心はあの痛みに覆い尽くされて深い絶望に包まれるだろう。見るものすべての色が失われ、何も感じられない暗黒の世界になってしまうに違いない。

――ぐああぁっっ!
――っ……やっ――……いやぁっ!!

 水の村レイトでの戦闘時。彼がキヴィネの攻撃を食らった瞬間、どうしてあんなにも叫んだのか。彼が死んでしまうかもしれない、彼を失うかもしれないと、それを心の底から恐れたからだ。きっと初めて逢ったあの時から、ユルゲンという存在は紀更にとってどうしようもなく特別な存在だった。

「死な、ないでっ……いなく、ならないでっ」
「ああ」
「ユルゲ、ンさんっ」

 紀更は嗚咽した。自分の頬を包むユルゲンの手に、両手のひらを重ねて覆う。

「私、だって……ユルゲンさんが死ぬ、くらいならっ……私が、いなくなればいい」
「紀更」
「わた、し……も……ユルゲン、さんを……守り……たい、の」
「ああ……」

 浅い呼吸で途切れ途切れに告げる紀更に、ユルゲンは深く頷いた。
 自分を想ってくれる紀更の熱量が嬉しくもあり、だが同時に不安でもある。自分を守って死にゆく彼女の姿など、絶対に見たくはない。

「紀更、二人で生きよう。俺も君も、ずっと一緒だ。よぼよぼのジジイとババアになって、老いて死ぬ以外の理由で離れない。絶対に、絶対にだ」
「ユ、ルゲン……さんっ」

 紀更の嗚咽は止まらない。
 ユルゲンは、涙のつたう紀更の唇をゆっくりと食んだ。それから紀更の頬に、目元に、優しいキスをする。

「大丈夫。大丈夫だ、紀更。俺はここにいる。必ず、君の傍に」
「はい……」
「だから、君も俺の傍にいてくれ」

 ユルゲンは再び紀更の身体を引き寄せて抱きしめた。ネグリジェの薄い生地越しに感じる紀更の身体は、相変わらず小さくて細い。気を遣わないとあっさりと潰してしまいそうだ。

「私、ユルゲンさんのことが好き……大好きです」

 紀更が、頬を赤らめながら伝える。その言葉にユルゲンははにかんだ。

「ああ、俺もだ。愛してるよ、紀更」


     ◆◇◆◇◆
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