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第9章 交錯するもの
4. 大好きな人
しおりを挟む今日の校舎裏には、雪の姿はなかった。
空は鈍く曇っていて、陽の光はほとんど感じられない。
けれど、昨日までのような冷たい風は吹いていなかった。
コンクリートに残る湿り気を避けるようにして、俺たちはすこし距離を置いて立っていた。
でもそれは、気まずさでもなんでもなくて——お互いに、距離感を計っているだけのようだった。
「……なぁ、ちょっと移動しね?」
ふいにそう言うと、南条はきょとんとした。
「え?」
「いや……なんか気になるっていうか……その、さ」
俺は指先で校舎の上を指した。
ちょうど見える位置にある、職員室の窓。その奥には、あの人がいる。
「この前、大澤先生に言われたんだ。俺たちのこと、職員室から見てたって」
「……見てたって、何を?」
「……いや、わかんない。ただ見てたってだけ。別にやましいことしてたわけじゃないけど……なんか、嫌だろ」
南条は苦笑いを浮かべて、そっと首を傾げた。
「じゃあ、どこ行くの?」
「——ついてきて」
俺は南条の手を取り、校舎の影にある、すこし奥まった場所へと足を運んだ。
人通りもなく、職員室からも見えない。ほんとうに、ふたりきりになれる場所だった。
「この辺なら大丈夫だろ」
立ち止まって、南条と向き合う。
南条は俺の手をまだ離さないまま、じっと見つめてくる。
その目があまりにも澄んでいて、俺は思わず息をのんだ。
「……ねぇ、俺と……付き合ってくれない?」
言った瞬間、息が白くふわりと空に溶けた。
けれど、心の奥は熱くて、手のひらにほんのり汗が滲んでいた。
「……」
南条が目を見開く。けれどすぐに、まっすぐこちらを見て、そっと訊ねてきた。
「……男同士だけど、いいの?」
その声が、かすかに震えていたのがわかった。
空気に吸い込まれそうな静寂の中、鼓動の音だけがやけに鮮明に響いている。
「最初、そっちからキスしといて……今さらだろ」
そう返した俺に、南条がふわっと笑ってくれた。
その笑顔を見た瞬間、鼻の奥がすこしツンとする。冷たい空気にさらされた頬が、どうしようもなく緩んでしまう。
「……そうだね。よろしく、白浜くん」
「名前、でさ。呼んでほしい」
「え?」
「〝白浜くん〟じゃなくて、〝樹〟って」
「……」
ちょっと照れ隠しで鼻をこすりながら言うと、南条はほんの一瞬だけ、目を逸らした。そして、ゆっくりと視線をこちらに戻し、ふいに微笑む。
「……急だなぁ、ほんと」
「だって、付き合うのに、苗字で〝くん〟呼びは、寂しいって」
制服の袖がすこし触れ合う。
冬服の生地越しでも感じる熱が、肌にじんわり広がる感覚がする。
南条の体温が、こんなにも近い。その事実に、早まる心臓の鼓動が抑えきれない。
「……樹くん」
低くて柔らかい声が、耳に直接触れたように感じた。
鼓膜が震えた気がして、背筋にかすかな電気が走る。
「……ありがとう」
俺もそっと、南条の名を呼んだ。
「——陽生」
その一言で、彼のまつ毛が微かに揺れた。
目をぱちぱちと瞬いてから、顔を真っ赤にして俯く。
「……それ、反則」
「なんで?」
「……距離、近いから……声が……」
照れる彼を見ていたら、もう耐えきれなくなった。
俺はゆっくりと腕を伸ばして、そっと南条の頬に触れた。
指先に伝わる、ほんのり冷たい肌——けれど、その奥にある熱が、確かに生きていることを実感させてくれる。
南条がゆっくりと顔を上げる。
ふたりの視線が重なると、お互いにふっと笑った。
彼の笑顔から、どこか柑橘のような、甘くて爽やかな香りがした。
たぶん、制服にほんのすこしだけ残った柔軟剤の匂い。
それすらも、彼らしいと思った。
「……」
俺はすこしだけ背伸びをする。
南条はすこしだけ背をかがめてくれる。
そして、どちらからともなく、そっと唇を重ねた。
ほんのすこし触れるだけの、優しいキス。
けれど、そこにあったすべての感情が、まるで雪のように溶けていく感覚がする。
柔らかくて、あたたかくて、ちょっとだけ甘くて。
それはまるで、甘味みたいな。不思議な感覚だった。
触れたあとの唇から、息が漏れる。
呼吸の音さえ、愛しくて堪らない。
「陽生」
もう一度名前を呼ぶと、彼の身体がぴくんと動いた。
「……ねぇ。やっぱり、僕の名前は呼ばないで」
「なんで?」
「……照れるからに決まってるじゃん……」
そんな彼の言葉に、胸がぎゅうっとなって、思わず笑いそうになる。
照れている表情が新鮮で、あんなに無表情だったのが今では考えられないくらい、表情豊かだと思えた。
「じゃあ、これからいっぱい呼ぶ。ずっと、ずっと」
そう言ってもう一度、唇を重ねた。
今度はすこしだけ長く。
なんの音もしない世界で、ふたり分の体温が重なっていた。
心臓の音が混ざって、どっちがどっちか、もうわからない。
——この瞬間が、終わらなければいいのに。
そう思える相手に出会えたこと。ただそれだけが、奇跡だと思った。
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