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第一章
放浪の浪人 長崎へ
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霧が、海と街の境をぼかしていた。
水と空とがひとつに溶け、遠くの島影すら見えない。
その曖昧な世界を、一艘の小舟がゆっくりと進んでいた。
潮の匂いが濃く、波の音は低く、そしてどこか人の声のようでもあった。
舟の先に、旅装を解いたひとりの男が立っている。
千早――かつて江戸に生き、そして江戸を捨てた浪人である。
風にまかせて伸びた黒髪が頬にかかり、瞳には深い疲労が滲んでいる。
「長崎は霧の街か」
千早は独りごちた。
その声は霧に吸い込まれ、すぐに形を失った。
江戸を出たのは、いつのことだったか。
春だったようにも、冬の終わりだったようにも思える。
奉行所に勤めていたころ、彼は正義を信じていた。
斬ることが正しく、守ることが美しいと。
だがある夜、血で濡れた刀を手に、彼は知った。
正義は、時に人を殺す。
そして、守るべきものの正体は、誰にもわからない。
その日から、千早は刀を鞘に納めたまま旅を続けていた。
名も告げず、どこにも属さず、ただ風の向くままに。
行く先の灯を信じる代わりに、闇の中を歩くことを選んだ。
港の手前で、老漁師が櫓を止めた。
「長崎は初めてかい」
「ああ」
「なら気をつけなされ。あそこは、夜になると人の声よりも、異国の言葉と霊の囁きが多い」
老漁師はそう言い、歯の欠けた笑いを浮かべた。
「霊?」
「ほら、あの坂の上。昔、丸山と呼ばれるところがあってな。花街だ。女の笑いの裏
に、妖(あやかし)の影がいる」
千早は笑いもせず、ただ頷いた。
“妖”という言葉に、心の奥が微かに反応する。
見えぬものを信じたことはない。
だが、江戸を出る前の夜、斬った相手の血の匂いの中で、たしかに何かの“声”を聞いた。
その声は、いまも耳の底で鈍く鳴っていた。
舟が岸につく。
長崎の町は、まるで異国の夢のようだった。
港沿いには洋館が並び、異人たちの帽子が霧の中に浮かぶ。
カステラの甘い香り、銃の油の匂い、遠くの教会の鐘。
江戸の雑踏とも、京の雅とも違う、混ざり合った時間の匂い。
それは、滅びを孕んだ美の香りだった。
石畳の坂を上りながら、千早は行く先に灯る光を見た。
紅と金に揺れる提灯。
香の煙と笑い声。
そこが丸山だった。
坂道の両脇には料亭や置屋が並び、三味線の音が霧に溶けている。
男たちの笑い、女たちの囁き、盃の音。
そのすべてが、現実よりも夢に近かった。
千早の靴の裏に、濡れた石畳が冷たく響く。
霧の奥で、赤い紙傘がひとつ開いた。
「お客さん、初めてのお顔ね」
声の主は、年若い禿(かむろ)だった。
「花扇楼はこっち」
そう言って、禿は手を引いた。指が驚くほど冷たかった。
花扇楼――。
その楼門の前に立つと、提灯が微かに揺れ、白い煙が流れ出る。
香の中に、どこか甘いものと焦げた匂いが混じっていた。
扉をくぐると、空気が変わった。
外よりも静かで、しかし静寂とは違う。
目に見えぬ何かが、息を潜めて見ているような空気だった。
階上から、三味線の音が聞こえてきた。
糸の震えが、まるで人の心を探るように細く長く続く。
その音に、千早の足が止まった。
どこかで聞いたような旋律だった。
夢の中で、かつての恋人が弾いていたような。
あるいは、血の海で倒れた友の息づかいのような。
顔を上げたその瞬間、廊の奥に白いものが見えた。
白い狐の面。
面の下から覗く黒髪。
そして、こちらをじっと見つめる瞳。
千早は息を飲んだ。
面の女は、しばらくのあいだ動かなかった。
やがて、廊下の陰にすっと姿を消した。
それは、幻のように自然な消え方だった。
霧雨はいつのまにか、しとどに町の石畳を濡らしていた。
長崎の港町は、夜になると音の町に変わる。鐘の音、船の綱の軋み、異国人の笑い声、三味線、そして遠くから響く祭り太鼓のような低い鼓動。それらが波の音と溶け合い、まるで誰かの夢の奥底で鳴っているようだった。
千早は、濡れた羽織の裾を払うでもなく、丸山の坂を登っていた。
灯籠の灯りが雨粒を包み、橙の粒がゆらめきながら闇に散る。
両の足はもう、なぜこの道を選んだのかを覚えていなかった。
長崎に流れついたのも偶然であり、いや、もしかすると――あの白い影に導かれたのかもしれない。
数日前、港の裏手でひとりの娘を見た。
白無垢のような衣をまとい、狐の面を胸に下げて、港を見つめていた。
風もないのに、彼女の髪がゆるやかに揺れていたのを覚えている。
そのとき、千早の背の内側で何かが鳴った。
琴線に似た、しかしもっと古い記憶の音。
それが彼を、いまここへ連れてきた。
丸山遊郭―― 坂を上りきったその先は、香の煙と絹の笑いに満ちた異界だった。
紅殻格子の向こうで遊女たちが笑い、通りには花魁道中を見物する町人たちのざわめ
き
。
灯火が濃密に揺らめくたび、影と光の境が曖昧になる。
千早は一瞬、自分がこの世の人間なのか、夢の中の亡霊なのか、わからなくなった。
ふと、一軒の楼の前で足が止まる。
「紫楼」と、控えめに書かれた木札。
他の楼の華美な名とは違い、どこか静かな響きをもっていた。
その奥から、三味線の音が聴こえる。
それは旋律ではなく、まるで誰かの祈りのようだった。
千早は戸口をくぐる。
香が鼻を刺す。白檀とも、沈香ともつかぬ、深く冷たい香り。
部屋の奥、薄闇の中で、白い影がゆっくりと振り向いた。 ――それが紫苑だった。
薄紫の衣をまとい、唇は血のように赤い。
眼差しは、湖底に沈んだ月の光をそのまま閉じ込めたようだった。
千早は思わず、息を呑んだ。
その瞬間、灯がふっと揺れ、彼女の背にかけられた狐の面がかすかに鳴った。
ちりん――と。鈴のような音だった。
「……お客さま?」
紫苑の声は、まるで遠い夢の底から響いてくるようだった。
千早は言葉を探したが、声が出なかった。
かわりに、ふと掌を見た。
いつの間にか、白い花弁が一枚、そこに落ちていた。
「その花は――」紫苑が微笑む。「……夢の残り香、でございます」
彼女の指が、千早の掌の上をなぞる。
指先が触れた瞬間、あたりの景色が、すっと歪んだ。
香の煙が渦を巻き、壁の障子が白い霧に変わる。
千早は立っているのか、倒れているのかもわからなくなった。
ただ、紫苑の声だけが、鮮やかに残った。 ――「ようこそ、夢の夜へ。」
目を覚ますと、そこは月の光に満ちた庭だった。
白砂の上に桜が咲き、池の水面が空のように輝いている。
紫苑がその中央に立っていた。
彼女の衣はもう遊女のそれではなく、透き通るような白衣に変わっていた。
そして背には、金糸の尾のような光が、ゆらりと揺れている。
「ここは……」
千早が言葉を探すと、紫苑は静かに言った。
「夢の内側。あなたが捨てた記憶の中です。」
千早はその言葉に、胸の奥がざわめいた。
記憶――。
彼が捨てたもの。それは、剣と、名と、そして、ひとりの女だった。
戦乱の中で守れなかった女。名を、澪といった。
その面影が、紫苑の横顔に重なる。
「あなたは、あの人に似ている。」
千早の声は震えていた。
紫苑は目を伏せたまま、微かに笑った。
「似ているのではなく、同じなのでしょう。」
その言葉に、夜風が止んだ。
池の水が鏡のように静まり返る。
紫苑は月を仰ぎ、囁いた。
「私は、人の記憶から生まれたもの。
忘れられた想いが、この世を彷徨って、形を取る…
それが“記憶の妖(あやかし)”です。」
千早は何も言えなかった。
ただ、胸の奥で何かが崩れていく音がした。
剣士としての自分も、漂泊の理由も、すべてがこの瞬間、解けていくようだった。
「あなたがここに来たのは、偶然ではありません。」
紫苑が一歩、近づく。
「あなたの魂は、まだ“滅び”を見ていない。」
「滅び……?」
「ええ。人は皆、滅びゆくときにこそ、美しくなるのです。」
彼女の手が、千早の頬に触れる。
その指先はひどく冷たく、それでいてどこか懐かしかった。
千早はその手を取ろうとしたが、指はすり抜けた。
彼女の身体は、もう光に変わりつつあったのだ。
「紫苑――!」
千早が叫ぶと、世界が崩れた。
花びらが舞い、月が砕け、音も色も失われていく。
ただ、耳の奥に、狐面の鈴が響く。 ――ちりん。
夜明け、千早は紫楼の畳の上で目を覚ました。
夢か、現か。
だが、掌の上には確かに一枚、白い花弁が残っていた。
それは淡く光を放ちながら、すぐに溶けるように消えていった。
その日以来、千早は毎夜、紫苑の夢を見るようになった。
彼女は夢の中で千早に微笑み、言葉を紡ぐ。
過ぎ去った世、滅びた都、失われた恋。
彼女の語るものはどれも、千早がかつて見た景色と似ていた。
まるで、自分の魂の奥に彼女が住んでいるかのようだった。
夜と昼の境が、少しずつ曖昧になっていった。
目を閉じれば紫苑がいる。
目を開けても、香の煙の中に彼女の影が見える。
千早は知らず知らず、夢と現のあいだを漂っていた。
そして、そのゆらめきの中で、彼はある不思議なことに気づく。 ――紫苑のいる夢の庭で、いつも遠くに人影があるのだ。
黒い羽織、鋭い眼。
坂本龍馬だった。
水と空とがひとつに溶け、遠くの島影すら見えない。
その曖昧な世界を、一艘の小舟がゆっくりと進んでいた。
潮の匂いが濃く、波の音は低く、そしてどこか人の声のようでもあった。
舟の先に、旅装を解いたひとりの男が立っている。
千早――かつて江戸に生き、そして江戸を捨てた浪人である。
風にまかせて伸びた黒髪が頬にかかり、瞳には深い疲労が滲んでいる。
「長崎は霧の街か」
千早は独りごちた。
その声は霧に吸い込まれ、すぐに形を失った。
江戸を出たのは、いつのことだったか。
春だったようにも、冬の終わりだったようにも思える。
奉行所に勤めていたころ、彼は正義を信じていた。
斬ることが正しく、守ることが美しいと。
だがある夜、血で濡れた刀を手に、彼は知った。
正義は、時に人を殺す。
そして、守るべきものの正体は、誰にもわからない。
その日から、千早は刀を鞘に納めたまま旅を続けていた。
名も告げず、どこにも属さず、ただ風の向くままに。
行く先の灯を信じる代わりに、闇の中を歩くことを選んだ。
港の手前で、老漁師が櫓を止めた。
「長崎は初めてかい」
「ああ」
「なら気をつけなされ。あそこは、夜になると人の声よりも、異国の言葉と霊の囁きが多い」
老漁師はそう言い、歯の欠けた笑いを浮かべた。
「霊?」
「ほら、あの坂の上。昔、丸山と呼ばれるところがあってな。花街だ。女の笑いの裏
に、妖(あやかし)の影がいる」
千早は笑いもせず、ただ頷いた。
“妖”という言葉に、心の奥が微かに反応する。
見えぬものを信じたことはない。
だが、江戸を出る前の夜、斬った相手の血の匂いの中で、たしかに何かの“声”を聞いた。
その声は、いまも耳の底で鈍く鳴っていた。
舟が岸につく。
長崎の町は、まるで異国の夢のようだった。
港沿いには洋館が並び、異人たちの帽子が霧の中に浮かぶ。
カステラの甘い香り、銃の油の匂い、遠くの教会の鐘。
江戸の雑踏とも、京の雅とも違う、混ざり合った時間の匂い。
それは、滅びを孕んだ美の香りだった。
石畳の坂を上りながら、千早は行く先に灯る光を見た。
紅と金に揺れる提灯。
香の煙と笑い声。
そこが丸山だった。
坂道の両脇には料亭や置屋が並び、三味線の音が霧に溶けている。
男たちの笑い、女たちの囁き、盃の音。
そのすべてが、現実よりも夢に近かった。
千早の靴の裏に、濡れた石畳が冷たく響く。
霧の奥で、赤い紙傘がひとつ開いた。
「お客さん、初めてのお顔ね」
声の主は、年若い禿(かむろ)だった。
「花扇楼はこっち」
そう言って、禿は手を引いた。指が驚くほど冷たかった。
花扇楼――。
その楼門の前に立つと、提灯が微かに揺れ、白い煙が流れ出る。
香の中に、どこか甘いものと焦げた匂いが混じっていた。
扉をくぐると、空気が変わった。
外よりも静かで、しかし静寂とは違う。
目に見えぬ何かが、息を潜めて見ているような空気だった。
階上から、三味線の音が聞こえてきた。
糸の震えが、まるで人の心を探るように細く長く続く。
その音に、千早の足が止まった。
どこかで聞いたような旋律だった。
夢の中で、かつての恋人が弾いていたような。
あるいは、血の海で倒れた友の息づかいのような。
顔を上げたその瞬間、廊の奥に白いものが見えた。
白い狐の面。
面の下から覗く黒髪。
そして、こちらをじっと見つめる瞳。
千早は息を飲んだ。
面の女は、しばらくのあいだ動かなかった。
やがて、廊下の陰にすっと姿を消した。
それは、幻のように自然な消え方だった。
霧雨はいつのまにか、しとどに町の石畳を濡らしていた。
長崎の港町は、夜になると音の町に変わる。鐘の音、船の綱の軋み、異国人の笑い声、三味線、そして遠くから響く祭り太鼓のような低い鼓動。それらが波の音と溶け合い、まるで誰かの夢の奥底で鳴っているようだった。
千早は、濡れた羽織の裾を払うでもなく、丸山の坂を登っていた。
灯籠の灯りが雨粒を包み、橙の粒がゆらめきながら闇に散る。
両の足はもう、なぜこの道を選んだのかを覚えていなかった。
長崎に流れついたのも偶然であり、いや、もしかすると――あの白い影に導かれたのかもしれない。
数日前、港の裏手でひとりの娘を見た。
白無垢のような衣をまとい、狐の面を胸に下げて、港を見つめていた。
風もないのに、彼女の髪がゆるやかに揺れていたのを覚えている。
そのとき、千早の背の内側で何かが鳴った。
琴線に似た、しかしもっと古い記憶の音。
それが彼を、いまここへ連れてきた。
丸山遊郭―― 坂を上りきったその先は、香の煙と絹の笑いに満ちた異界だった。
紅殻格子の向こうで遊女たちが笑い、通りには花魁道中を見物する町人たちのざわめ
き
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灯火が濃密に揺らめくたび、影と光の境が曖昧になる。
千早は一瞬、自分がこの世の人間なのか、夢の中の亡霊なのか、わからなくなった。
ふと、一軒の楼の前で足が止まる。
「紫楼」と、控えめに書かれた木札。
他の楼の華美な名とは違い、どこか静かな響きをもっていた。
その奥から、三味線の音が聴こえる。
それは旋律ではなく、まるで誰かの祈りのようだった。
千早は戸口をくぐる。
香が鼻を刺す。白檀とも、沈香ともつかぬ、深く冷たい香り。
部屋の奥、薄闇の中で、白い影がゆっくりと振り向いた。 ――それが紫苑だった。
薄紫の衣をまとい、唇は血のように赤い。
眼差しは、湖底に沈んだ月の光をそのまま閉じ込めたようだった。
千早は思わず、息を呑んだ。
その瞬間、灯がふっと揺れ、彼女の背にかけられた狐の面がかすかに鳴った。
ちりん――と。鈴のような音だった。
「……お客さま?」
紫苑の声は、まるで遠い夢の底から響いてくるようだった。
千早は言葉を探したが、声が出なかった。
かわりに、ふと掌を見た。
いつの間にか、白い花弁が一枚、そこに落ちていた。
「その花は――」紫苑が微笑む。「……夢の残り香、でございます」
彼女の指が、千早の掌の上をなぞる。
指先が触れた瞬間、あたりの景色が、すっと歪んだ。
香の煙が渦を巻き、壁の障子が白い霧に変わる。
千早は立っているのか、倒れているのかもわからなくなった。
ただ、紫苑の声だけが、鮮やかに残った。 ――「ようこそ、夢の夜へ。」
目を覚ますと、そこは月の光に満ちた庭だった。
白砂の上に桜が咲き、池の水面が空のように輝いている。
紫苑がその中央に立っていた。
彼女の衣はもう遊女のそれではなく、透き通るような白衣に変わっていた。
そして背には、金糸の尾のような光が、ゆらりと揺れている。
「ここは……」
千早が言葉を探すと、紫苑は静かに言った。
「夢の内側。あなたが捨てた記憶の中です。」
千早はその言葉に、胸の奥がざわめいた。
記憶――。
彼が捨てたもの。それは、剣と、名と、そして、ひとりの女だった。
戦乱の中で守れなかった女。名を、澪といった。
その面影が、紫苑の横顔に重なる。
「あなたは、あの人に似ている。」
千早の声は震えていた。
紫苑は目を伏せたまま、微かに笑った。
「似ているのではなく、同じなのでしょう。」
その言葉に、夜風が止んだ。
池の水が鏡のように静まり返る。
紫苑は月を仰ぎ、囁いた。
「私は、人の記憶から生まれたもの。
忘れられた想いが、この世を彷徨って、形を取る…
それが“記憶の妖(あやかし)”です。」
千早は何も言えなかった。
ただ、胸の奥で何かが崩れていく音がした。
剣士としての自分も、漂泊の理由も、すべてがこの瞬間、解けていくようだった。
「あなたがここに来たのは、偶然ではありません。」
紫苑が一歩、近づく。
「あなたの魂は、まだ“滅び”を見ていない。」
「滅び……?」
「ええ。人は皆、滅びゆくときにこそ、美しくなるのです。」
彼女の手が、千早の頬に触れる。
その指先はひどく冷たく、それでいてどこか懐かしかった。
千早はその手を取ろうとしたが、指はすり抜けた。
彼女の身体は、もう光に変わりつつあったのだ。
「紫苑――!」
千早が叫ぶと、世界が崩れた。
花びらが舞い、月が砕け、音も色も失われていく。
ただ、耳の奥に、狐面の鈴が響く。 ――ちりん。
夜明け、千早は紫楼の畳の上で目を覚ました。
夢か、現か。
だが、掌の上には確かに一枚、白い花弁が残っていた。
それは淡く光を放ちながら、すぐに溶けるように消えていった。
その日以来、千早は毎夜、紫苑の夢を見るようになった。
彼女は夢の中で千早に微笑み、言葉を紡ぐ。
過ぎ去った世、滅びた都、失われた恋。
彼女の語るものはどれも、千早がかつて見た景色と似ていた。
まるで、自分の魂の奥に彼女が住んでいるかのようだった。
夜と昼の境が、少しずつ曖昧になっていった。
目を閉じれば紫苑がいる。
目を開けても、香の煙の中に彼女の影が見える。
千早は知らず知らず、夢と現のあいだを漂っていた。
そして、そのゆらめきの中で、彼はある不思議なことに気づく。 ――紫苑のいる夢の庭で、いつも遠くに人影があるのだ。
黒い羽織、鋭い眼。
坂本龍馬だった。
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