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第二章
龍馬と海舟、夜の語らい
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夜の長崎港は、海の底から光っているようだった。
波間に灯る提灯の影、行き交う異国船の艦影、そして遠く、丸山の丘に揺れる灯籠の
列
。
風は冷たく、しかしその奥に鉄と潮の匂いが混ざっていた。
それは、新しい時代の匂いだった。
千早は港の石段に腰を下ろして、ぼんやりと海を見つめていた。
夢と現の境が曖昧になってから、もう何日が過ぎたのか、自分でもわからない。
紫苑の声が、昼の陽光の中でも耳の奥に響く。
「この国は、夢の上に立っている。」
そう囁かれた気がして、千早はふと空を仰いだ。
雲の切れ間に、月の輪が浮かんでいる。
その光の中に、黒い影が立っていた。
「おお、あんたが千早殿かい?」
軽やかな声。
振り向くと、背の高い男が立っていた。
着流しの裾を風に揺らし、眼は笑っているのに、どこか鋭い光を宿していた。
坂本龍馬だった。
「勝先生がお呼びだ。お前さんに、ちと聞きたいことがあるらしい。」
海沿いの屋敷の奥。
灯明の光が、書物の山と地図の上に落ちていた。
その中央に、勝海舟がいた。
長崎伝習所の一室を借り、密談を続ける男の顔は、どこか疲れと覚悟を混ぜた光を宿していた。
「浪人・千早殿。坂本から聞いておる。」
海舟は筆を置き、静かに茶をすする。
「……お主、妙な“夢”を見るそうだな。」
千早は黙って頷いた。
海舟の眼は、すでに何かを知っているようだった。
「その夢――おそらく、異界との境に立つものじゃ。」
「異界?」
「この世は一枚の紙のようなものよ。表が現世、裏が霊の世。
幕末というのは、紙が裂けはじめた時代じゃ。」
その言葉に、龍馬が笑いながら茶碗を置く。
「先生、また幽霊話ですかい?」
「ふん、笑うな。幽霊が見えぬ者には、時代の裂け目も見えぬ。」
海舟の目が鋭く光る。
「千早。おぬし、丸山の女に会うたな。」
「……紫苑のことですか。」
「やはり、そうか。」
海舟は筆先で地図をなぞった。
「長崎の地下には、古(いにしえ)の封じがある。
“記憶の淵”と呼ばれ、昔から妖どもが眠る場所だ。
おぬしが見ている女は、その封じが緩んで現れた“夢”の化身かもしれぬ。」
千早の背筋に、冷たいものが走った。
あの白い指、あの瞳。
まるで、人ではない何かに見つめられていたような感覚。
「もし……紫苑がそのようなものなら、なぜ私の前に現れたのです?」
海舟は微かに笑った。
「そりゃあ、簡単な理屈ではない。だが――」
彼は筆を止めて、静かに言った。
「おぬしの魂が、あの女を呼んだのじゃ。」
夜風が障子を揺らした。
灯が一瞬、消えかけて、再び灯る。
その光の変化の中で、千早は龍馬の姿を見た。
だが――その背後に、もうひとりの龍馬が立っている。
同じ顔、同じ声、しかし眼だけが違っていた。
深い闇のように光を吸い込む眼。
千早は息を呑む。
「……あれは……」
海舟が鋭く振り向いた。
しかし次の瞬間には、影は消えていた。
龍馬は何事もなかったように笑っている。
「どうしましたい?俺の顔に何か?」
千早は言葉を飲み込む。
だが、心の奥にざらついた恐怖が残った。
“もう一人の龍馬”。
それは幻か、妖か、それとも―― 時代そのものが生み出した、もうひとつの意思なのか。
夜更け、海舟は一人、縁側に立っていた。
彼の視線の先には、遠く丸山の灯が揺れている。
「……龍馬。あいつはな、たまに“異界”の風を纏う。」
た。
「人間の魂というものは、時に境を越える。
特に、この国が壊れようとしておる時はな。」
海舟の声は静かだった。
「わしが見た夢の中でな、江戸が燃えておった。
だが、その炎の中を龍馬が歩いていた。
あれは現か幻か……いずれにせよ、あの男は“時代の幽霊”じゃ。」
千早は、あの夜の紫苑の言葉を思い出していた。 ――「人もまた、滅びの夢を見る妖です。」
龍馬も、紫苑も、そして自分も。
皆、夢の中の登場人物にすぎないのではないか。
数日後、丸山の楼主から密書が届いた。
“夜半、紫苑が待つ”
千早は海舟の制止を振り切り、再び坂を登った。
霧が濃く、町全体が白い夢のように沈んでいる。
楼に入ると、紫苑は灯の中に座していた。
その傍らに――坂本龍馬がいた。
「千早、また会ったな。」
だがその声は、前に聞いたものとは違っていた。
響きが深く、どこか人ならぬ気配。
紫苑が静かに言った。
「この方は、“夢の龍馬”。
現の龍馬が見ぬ未来を、生きている方です。」
千早は息を詰めた。
「未来……?」
龍馬(夢の)は笑った。
「おれは、あの世からこの国を見ているんだぜ。
お前らが燃やした時代の灰の上からな。」
紫苑の瞳が濡れる。
「時代も夢も、同じです。
ただし夢は、人の記憶を喰って生きる。」
「だからお前はここにいるのか。」
「ええ。千早、あなたの記憶は、私を形にしてくれる。」
その瞬間、部屋の障子が風もなく開いた。
海舟が立っていた。
「もうやめい!」
声に、灯が砕け、龍馬の影が霧散した。
紫苑の姿もまた、白い花びらとなって消えた。
残されたのは、千早の掌の上の、冷たい光だけだった。
朝
。
長
崎港に陽が昇る。
龍馬は岸壁に立ち、海を見つめていた。
「先生、昨夜のことは夢だったんですかね。」
海舟は苦く笑う。
「夢もまた、現のうちよ。問題は、どちらの夢に我らが生きておるかだ。」
千早は二人の横顔を見つめた。
波がゆるやかに打ち寄せる。
その音の向こうから、かすかに鈴の音が聞こえた。 ――ちりん。
紫苑の声が、風に混ざっていた。
「滅びの花は、まだ咲いていませんよ。」
龍馬が振り返る。
「千早。おまん、もう少しこの町に残りや。
この国がどんな夢を見るのか、確かめるがぜよ。」
千早は頷いた。
そしてその背後で、誰にも見えぬ影が、そっと微笑んだ。
それは、狐面をつけた女――紫苑の幻だった。
波間に灯る提灯の影、行き交う異国船の艦影、そして遠く、丸山の丘に揺れる灯籠の
列
。
風は冷たく、しかしその奥に鉄と潮の匂いが混ざっていた。
それは、新しい時代の匂いだった。
千早は港の石段に腰を下ろして、ぼんやりと海を見つめていた。
夢と現の境が曖昧になってから、もう何日が過ぎたのか、自分でもわからない。
紫苑の声が、昼の陽光の中でも耳の奥に響く。
「この国は、夢の上に立っている。」
そう囁かれた気がして、千早はふと空を仰いだ。
雲の切れ間に、月の輪が浮かんでいる。
その光の中に、黒い影が立っていた。
「おお、あんたが千早殿かい?」
軽やかな声。
振り向くと、背の高い男が立っていた。
着流しの裾を風に揺らし、眼は笑っているのに、どこか鋭い光を宿していた。
坂本龍馬だった。
「勝先生がお呼びだ。お前さんに、ちと聞きたいことがあるらしい。」
海沿いの屋敷の奥。
灯明の光が、書物の山と地図の上に落ちていた。
その中央に、勝海舟がいた。
長崎伝習所の一室を借り、密談を続ける男の顔は、どこか疲れと覚悟を混ぜた光を宿していた。
「浪人・千早殿。坂本から聞いておる。」
海舟は筆を置き、静かに茶をすする。
「……お主、妙な“夢”を見るそうだな。」
千早は黙って頷いた。
海舟の眼は、すでに何かを知っているようだった。
「その夢――おそらく、異界との境に立つものじゃ。」
「異界?」
「この世は一枚の紙のようなものよ。表が現世、裏が霊の世。
幕末というのは、紙が裂けはじめた時代じゃ。」
その言葉に、龍馬が笑いながら茶碗を置く。
「先生、また幽霊話ですかい?」
「ふん、笑うな。幽霊が見えぬ者には、時代の裂け目も見えぬ。」
海舟の目が鋭く光る。
「千早。おぬし、丸山の女に会うたな。」
「……紫苑のことですか。」
「やはり、そうか。」
海舟は筆先で地図をなぞった。
「長崎の地下には、古(いにしえ)の封じがある。
“記憶の淵”と呼ばれ、昔から妖どもが眠る場所だ。
おぬしが見ている女は、その封じが緩んで現れた“夢”の化身かもしれぬ。」
千早の背筋に、冷たいものが走った。
あの白い指、あの瞳。
まるで、人ではない何かに見つめられていたような感覚。
「もし……紫苑がそのようなものなら、なぜ私の前に現れたのです?」
海舟は微かに笑った。
「そりゃあ、簡単な理屈ではない。だが――」
彼は筆を止めて、静かに言った。
「おぬしの魂が、あの女を呼んだのじゃ。」
夜風が障子を揺らした。
灯が一瞬、消えかけて、再び灯る。
その光の変化の中で、千早は龍馬の姿を見た。
だが――その背後に、もうひとりの龍馬が立っている。
同じ顔、同じ声、しかし眼だけが違っていた。
深い闇のように光を吸い込む眼。
千早は息を呑む。
「……あれは……」
海舟が鋭く振り向いた。
しかし次の瞬間には、影は消えていた。
龍馬は何事もなかったように笑っている。
「どうしましたい?俺の顔に何か?」
千早は言葉を飲み込む。
だが、心の奥にざらついた恐怖が残った。
“もう一人の龍馬”。
それは幻か、妖か、それとも―― 時代そのものが生み出した、もうひとつの意思なのか。
夜更け、海舟は一人、縁側に立っていた。
彼の視線の先には、遠く丸山の灯が揺れている。
「……龍馬。あいつはな、たまに“異界”の風を纏う。」
た。
「人間の魂というものは、時に境を越える。
特に、この国が壊れようとしておる時はな。」
海舟の声は静かだった。
「わしが見た夢の中でな、江戸が燃えておった。
だが、その炎の中を龍馬が歩いていた。
あれは現か幻か……いずれにせよ、あの男は“時代の幽霊”じゃ。」
千早は、あの夜の紫苑の言葉を思い出していた。 ――「人もまた、滅びの夢を見る妖です。」
龍馬も、紫苑も、そして自分も。
皆、夢の中の登場人物にすぎないのではないか。
数日後、丸山の楼主から密書が届いた。
“夜半、紫苑が待つ”
千早は海舟の制止を振り切り、再び坂を登った。
霧が濃く、町全体が白い夢のように沈んでいる。
楼に入ると、紫苑は灯の中に座していた。
その傍らに――坂本龍馬がいた。
「千早、また会ったな。」
だがその声は、前に聞いたものとは違っていた。
響きが深く、どこか人ならぬ気配。
紫苑が静かに言った。
「この方は、“夢の龍馬”。
現の龍馬が見ぬ未来を、生きている方です。」
千早は息を詰めた。
「未来……?」
龍馬(夢の)は笑った。
「おれは、あの世からこの国を見ているんだぜ。
お前らが燃やした時代の灰の上からな。」
紫苑の瞳が濡れる。
「時代も夢も、同じです。
ただし夢は、人の記憶を喰って生きる。」
「だからお前はここにいるのか。」
「ええ。千早、あなたの記憶は、私を形にしてくれる。」
その瞬間、部屋の障子が風もなく開いた。
海舟が立っていた。
「もうやめい!」
声に、灯が砕け、龍馬の影が霧散した。
紫苑の姿もまた、白い花びらとなって消えた。
残されたのは、千早の掌の上の、冷たい光だけだった。
朝
。
長
崎港に陽が昇る。
龍馬は岸壁に立ち、海を見つめていた。
「先生、昨夜のことは夢だったんですかね。」
海舟は苦く笑う。
「夢もまた、現のうちよ。問題は、どちらの夢に我らが生きておるかだ。」
千早は二人の横顔を見つめた。
波がゆるやかに打ち寄せる。
その音の向こうから、かすかに鈴の音が聞こえた。 ――ちりん。
紫苑の声が、風に混ざっていた。
「滅びの花は、まだ咲いていませんよ。」
龍馬が振り返る。
「千早。おまん、もう少しこの町に残りや。
この国がどんな夢を見るのか、確かめるがぜよ。」
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