滅びの花 丸山幻譚

ruka-no

文字の大きさ
2 / 7
第二章

龍馬と海舟、夜の語らい

しおりを挟む
夜の長崎港は、海の底から光っているようだった。
波間に灯る提灯の影、行き交う異国船の艦影、そして遠く、丸山の丘に揺れる灯籠の


風は冷たく、しかしその奥に鉄と潮の匂いが混ざっていた。
それは、新しい時代の匂いだった。
千早は港の石段に腰を下ろして、ぼんやりと海を見つめていた。
夢と現の境が曖昧になってから、もう何日が過ぎたのか、自分でもわからない。
紫苑の声が、昼の陽光の中でも耳の奥に響く。
「この国は、夢の上に立っている。」
そう囁かれた気がして、千早はふと空を仰いだ。
雲の切れ間に、月の輪が浮かんでいる。
その光の中に、黒い影が立っていた。
「おお、あんたが千早殿かい?」
軽やかな声。
振り向くと、背の高い男が立っていた。
着流しの裾を風に揺らし、眼は笑っているのに、どこか鋭い光を宿していた。
坂本龍馬だった。
「勝先生がお呼びだ。お前さんに、ちと聞きたいことがあるらしい。」
海沿いの屋敷の奥。
灯明の光が、書物の山と地図の上に落ちていた。
その中央に、勝海舟がいた。
長崎伝習所の一室を借り、密談を続ける男の顔は、どこか疲れと覚悟を混ぜた光を宿していた。
「浪人・千早殿。坂本から聞いておる。」
海舟は筆を置き、静かに茶をすする。
「……お主、妙な“夢”を見るそうだな。」
千早は黙って頷いた。
海舟の眼は、すでに何かを知っているようだった。
「その夢――おそらく、異界との境に立つものじゃ。」
「異界?」
「この世は一枚の紙のようなものよ。表が現世、裏が霊の世。
幕末というのは、紙が裂けはじめた時代じゃ。」
その言葉に、龍馬が笑いながら茶碗を置く。
「先生、また幽霊話ですかい?」
「ふん、笑うな。幽霊が見えぬ者には、時代の裂け目も見えぬ。」

海舟の目が鋭く光る。
「千早。おぬし、丸山の女に会うたな。」
「……紫苑のことですか。」
「やはり、そうか。」
海舟は筆先で地図をなぞった。
「長崎の地下には、古(いにしえ)の封じがある。
“記憶の淵”と呼ばれ、昔から妖どもが眠る場所だ。
おぬしが見ている女は、その封じが緩んで現れた“夢”の化身かもしれぬ。」
千早の背筋に、冷たいものが走った。
あの白い指、あの瞳。
まるで、人ではない何かに見つめられていたような感覚。
「もし……紫苑がそのようなものなら、なぜ私の前に現れたのです?」
海舟は微かに笑った。
「そりゃあ、簡単な理屈ではない。だが――」
彼は筆を止めて、静かに言った。
「おぬしの魂が、あの女を呼んだのじゃ。」
夜風が障子を揺らした。
灯が一瞬、消えかけて、再び灯る。
その光の変化の中で、千早は龍馬の姿を見た。
だが――その背後に、もうひとりの龍馬が立っている。
同じ顔、同じ声、しかし眼だけが違っていた。
深い闇のように光を吸い込む眼。
千早は息を呑む。
「……あれは……」
海舟が鋭く振り向いた。
しかし次の瞬間には、影は消えていた。
龍馬は何事もなかったように笑っている。
「どうしましたい?俺の顔に何か?」
千早は言葉を飲み込む。
だが、心の奥にざらついた恐怖が残った。
“もう一人の龍馬”。
それは幻か、妖か、それとも―― 時代そのものが生み出した、もうひとつの意思なのか。
夜更け、海舟は一人、縁側に立っていた。
彼の視線の先には、遠く丸山の灯が揺れている。
「……龍馬。あいつはな、たまに“異界”の風を纏う。」

た。
「人間の魂というものは、時に境を越える。
特に、この国が壊れようとしておる時はな。」
海舟の声は静かだった。
「わしが見た夢の中でな、江戸が燃えておった。
だが、その炎の中を龍馬が歩いていた。
あれは現か幻か……いずれにせよ、あの男は“時代の幽霊”じゃ。」
千早は、あの夜の紫苑の言葉を思い出していた。 ――「人もまた、滅びの夢を見る妖です。」
龍馬も、紫苑も、そして自分も。
皆、夢の中の登場人物にすぎないのではないか。
数日後、丸山の楼主から密書が届いた。
“夜半、紫苑が待つ”
千早は海舟の制止を振り切り、再び坂を登った。
霧が濃く、町全体が白い夢のように沈んでいる。
楼に入ると、紫苑は灯の中に座していた。
その傍らに――坂本龍馬がいた。
「千早、また会ったな。」
だがその声は、前に聞いたものとは違っていた。
響きが深く、どこか人ならぬ気配。
紫苑が静かに言った。
「この方は、“夢の龍馬”。
現の龍馬が見ぬ未来を、生きている方です。」
千早は息を詰めた。
「未来……?」
龍馬(夢の)は笑った。
「おれは、あの世からこの国を見ているんだぜ。
お前らが燃やした時代の灰の上からな。」
紫苑の瞳が濡れる。
「時代も夢も、同じです。
ただし夢は、人の記憶を喰って生きる。」
「だからお前はここにいるのか。」
「ええ。千早、あなたの記憶は、私を形にしてくれる。」
その瞬間、部屋の障子が風もなく開いた。
海舟が立っていた。
「もうやめい!」

声に、灯が砕け、龍馬の影が霧散した。
紫苑の姿もまた、白い花びらとなって消えた。
残されたのは、千早の掌の上の、冷たい光だけだった。



崎港に陽が昇る。
龍馬は岸壁に立ち、海を見つめていた。
「先生、昨夜のことは夢だったんですかね。」
海舟は苦く笑う。
「夢もまた、現のうちよ。問題は、どちらの夢に我らが生きておるかだ。」
千早は二人の横顔を見つめた。
波がゆるやかに打ち寄せる。
その音の向こうから、かすかに鈴の音が聞こえた。 ――ちりん。
紫苑の声が、風に混ざっていた。
「滅びの花は、まだ咲いていませんよ。」
龍馬が振り返る。
「千早。おまん、もう少しこの町に残りや。
この国がどんな夢を見るのか、確かめるがぜよ。」
千早は頷いた。
そしてその背後で、誰にも見えぬ影が、そっと微笑んだ。
それは、狐面をつけた女――紫苑の幻だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

妻が通う邸の中に

月山 歩
恋愛
最近妻の様子がおかしい。昼間一人で出掛けているようだ。二人に子供はできなかったけれども、妻と愛し合っていると思っている。僕は妻を誰にも奪われたくない。だから僕は、妻の向かう先を調べることににした。

将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!

翠月るるな
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。 侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。 そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。 私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。 この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。 それでは次の結婚は望めない。 その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。

短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜

美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

豪華客船での結婚式一時間前、婚約者が金目当てだと知った令嬢は

常野夏子
恋愛
豪華客船≪オーシャン・グレイス≫での結婚式を控えたセレーナ。 彼女が気分転換に船内を散歩していると、ガラス張りの回廊に二つの影が揺れているのが見えた。 そこには、婚約者ベリッシマと赤いドレスの女がキスする姿。 そして、ベリッシマの目的が自分の資産であることを知る。

処理中です...