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第三章
紫苑の記録
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夜の気配が、丸山の坂道に沈みはじめていた。
石畳を打つ下駄の音が遠くへ消える。三味線の音も、笑い声も、どこか海鳴りのように
曖昧で、まるで夢と現の境を漂っているかのようだった。
千早は、いつものように紫苑の待つ部屋へ向かっていた。
その夜、紫苑は灯りを落とし、薄闇の中で座っていた。
普段ならば香の煙の中に微笑をたたえ、客を柔らかに迎える彼女が、その晩はひどく静かで、どこか「人ならぬ」冷ややかさを帯びていた。
「……待っていたのね」
千早が座敷の戸を引くと、紫苑はわずかに顔を上げた。
「ええ。あなたが来ると、わかっていたの」
灯明の明かりが、彼女の頬をかすめる。
白磁のような肌。だが、その奥に、暗い流れが見えた。
千早はその違和感を胸の奥で感じながらも、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「紫苑……お前、何者なんだ?」
彼女は小さく笑った。
「ようやく訊くのね。みんな、そう言いかけてやめるの。怖いから」
「俺は怖れん」
「いいえ、あなたも怖い。自分の中にある“何か”を」
紫苑の言葉に、千早の胸がざらりと波打つ。
── 自分の中にある何か。
それは、かつて名もなく彷徨っていた日々、無意識の底で感じていた“裂け目”のよう
な違和感。
血と剣と夢の狭間に、自分ではない“何者か”が棲んでいるような感覚。
「紫苑、お前は何を知っている?」
「あなたの記憶の奥に、わたしはいるの」
「……記憶?」
「そう。あなたが斬った女── その魂の残り香。それがわたし」
空気が、ぴんと張りつめた。
千早は言葉を失う。
「斬った、女……?」
「江戸の冬。雪の夜。あなたは主命に従い、女を斬った。彼女は泣きも叫びもせず、た
だあなたの瞳を見ていた」
紫苑はゆっくりと立ち上がり、灯の中に身を進めた。
その姿はまるで、煙のように淡く、儚い。
「その女の名が……紫苑。あなたが、わたしを殺したの」
千早の頭の中に、封じていた景色が閃光のように蘇る。
雪。血。沈黙。
己の剣が、女の喉元を裂いた瞬間、確かに感じた“魂の音”── 。
千早は胸を掴み、膝をついた。
「……なぜ、俺を恨まない?」
「恨みなんて、とっくに消えたわ。あなたとわたしは、ひとつの記憶の中に閉じ込めら
れている。だから、逃げられないの」
その瞬間、部屋の障子が微かに鳴った。
海から吹き上げる風が、香の煙を散らし、紫苑の輪郭を少しずつ崩していく。
「消えるのか……?」
「ええ。あなたが、思い出したから」
紫苑の声が遠くなる。
「千早、あなたが剣を捨て、赦しを選ぶなら、わたしは完全に還れる。でも、もしまた
“戦”を選ぶなら── この国は、再び血に染まるわ」
灯が揺れ、空間が軋む。
千早は立ち上がり、彼女に手を伸ばした。
だがその指先は、空を掴むように虚ろだった。
紫苑の姿は霧のように溶け、ただ香の匂いと、淡い残響だけが残った。
── それが、紫苑との最後の夜だった。
*
翌朝。
長崎の港には、濃い霧が立ちこめていた。
千早は龍馬と海舟の待つ茶屋へ向かった。
二人は地図を広げ、異国の海路を指でなぞっている。
「千早、どうした?顔色が悪いぜ」
龍馬が軽口を叩く。
千早は答えられず、ただ海の方を見つめた。
その時、海舟がふと呟いた。
「この国はな、魂の底に怨念を抱えてる。江戸も、長崎も、皆そうだ。古きものの声が
聞こえる時、お前はどうする?」
千早は小さく目を伏せた。
「……俺は、それを斬るために生きてきた」
「だが、もう斬れまい。お前自身が、その“古き声”なんだからな」
龍馬が茶を啜りながら笑う。
「よう言うた、先生。けんど、そがいな男がおらんと、時代は回らんぜよ」
その時、千早はふと見た。
霧の向こう、船影の上に、白い着物の女が立っている。
風に揺らぎながら、こちらを見つめていた。
紫苑── いや、彼女がかつて「紫苑」と呼ばれていた魂の残響だった。
彼女は微笑み、やがて海霧に消えていった。
龍馬が言う。
「おい千早、今、何を見とる?」
千早は静かに答えた。
「夢を。いや……記憶の向こうを」
海舟が立ち上がる。
「行くぞ。風が変わった」
船の帆がはためき、港がざわめいた。
千早は最後に一度だけ、丸山の方を振り返った。
そこには、もう紫苑の灯も、あの音もなかった。
ただ、潮の香とともに、耳の奥に微かな声が残った。
── 千早、記憶は呪いじゃない。生きよ。
その声を胸に、千早は剣を握り直し、異国への海へと歩き出した。
*
夜。
船が沖を離れる。
甲板の上で、千早は星々を仰いだ。
波間に映る光が、まるで魂のように瞬いている。
龍馬は隣で笑い、海舟は静かに煙管をくゆらせていた。
── だが、千早だけが知っていた。
この海の向こうにも、まだ「記憶の残響」が待っていることを。
そして、その果てに再び“紫苑”が現れるということを。
それは、運命という名の潮流だった。
石畳を打つ下駄の音が遠くへ消える。三味線の音も、笑い声も、どこか海鳴りのように
曖昧で、まるで夢と現の境を漂っているかのようだった。
千早は、いつものように紫苑の待つ部屋へ向かっていた。
その夜、紫苑は灯りを落とし、薄闇の中で座っていた。
普段ならば香の煙の中に微笑をたたえ、客を柔らかに迎える彼女が、その晩はひどく静かで、どこか「人ならぬ」冷ややかさを帯びていた。
「……待っていたのね」
千早が座敷の戸を引くと、紫苑はわずかに顔を上げた。
「ええ。あなたが来ると、わかっていたの」
灯明の明かりが、彼女の頬をかすめる。
白磁のような肌。だが、その奥に、暗い流れが見えた。
千早はその違和感を胸の奥で感じながらも、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「紫苑……お前、何者なんだ?」
彼女は小さく笑った。
「ようやく訊くのね。みんな、そう言いかけてやめるの。怖いから」
「俺は怖れん」
「いいえ、あなたも怖い。自分の中にある“何か”を」
紫苑の言葉に、千早の胸がざらりと波打つ。
── 自分の中にある何か。
それは、かつて名もなく彷徨っていた日々、無意識の底で感じていた“裂け目”のよう
な違和感。
血と剣と夢の狭間に、自分ではない“何者か”が棲んでいるような感覚。
「紫苑、お前は何を知っている?」
「あなたの記憶の奥に、わたしはいるの」
「……記憶?」
「そう。あなたが斬った女── その魂の残り香。それがわたし」
空気が、ぴんと張りつめた。
千早は言葉を失う。
「斬った、女……?」
「江戸の冬。雪の夜。あなたは主命に従い、女を斬った。彼女は泣きも叫びもせず、た
だあなたの瞳を見ていた」
紫苑はゆっくりと立ち上がり、灯の中に身を進めた。
その姿はまるで、煙のように淡く、儚い。
「その女の名が……紫苑。あなたが、わたしを殺したの」
千早の頭の中に、封じていた景色が閃光のように蘇る。
雪。血。沈黙。
己の剣が、女の喉元を裂いた瞬間、確かに感じた“魂の音”── 。
千早は胸を掴み、膝をついた。
「……なぜ、俺を恨まない?」
「恨みなんて、とっくに消えたわ。あなたとわたしは、ひとつの記憶の中に閉じ込めら
れている。だから、逃げられないの」
その瞬間、部屋の障子が微かに鳴った。
海から吹き上げる風が、香の煙を散らし、紫苑の輪郭を少しずつ崩していく。
「消えるのか……?」
「ええ。あなたが、思い出したから」
紫苑の声が遠くなる。
「千早、あなたが剣を捨て、赦しを選ぶなら、わたしは完全に還れる。でも、もしまた
“戦”を選ぶなら── この国は、再び血に染まるわ」
灯が揺れ、空間が軋む。
千早は立ち上がり、彼女に手を伸ばした。
だがその指先は、空を掴むように虚ろだった。
紫苑の姿は霧のように溶け、ただ香の匂いと、淡い残響だけが残った。
── それが、紫苑との最後の夜だった。
*
翌朝。
長崎の港には、濃い霧が立ちこめていた。
千早は龍馬と海舟の待つ茶屋へ向かった。
二人は地図を広げ、異国の海路を指でなぞっている。
「千早、どうした?顔色が悪いぜ」
龍馬が軽口を叩く。
千早は答えられず、ただ海の方を見つめた。
その時、海舟がふと呟いた。
「この国はな、魂の底に怨念を抱えてる。江戸も、長崎も、皆そうだ。古きものの声が
聞こえる時、お前はどうする?」
千早は小さく目を伏せた。
「……俺は、それを斬るために生きてきた」
「だが、もう斬れまい。お前自身が、その“古き声”なんだからな」
龍馬が茶を啜りながら笑う。
「よう言うた、先生。けんど、そがいな男がおらんと、時代は回らんぜよ」
その時、千早はふと見た。
霧の向こう、船影の上に、白い着物の女が立っている。
風に揺らぎながら、こちらを見つめていた。
紫苑── いや、彼女がかつて「紫苑」と呼ばれていた魂の残響だった。
彼女は微笑み、やがて海霧に消えていった。
龍馬が言う。
「おい千早、今、何を見とる?」
千早は静かに答えた。
「夢を。いや……記憶の向こうを」
海舟が立ち上がる。
「行くぞ。風が変わった」
船の帆がはためき、港がざわめいた。
千早は最後に一度だけ、丸山の方を振り返った。
そこには、もう紫苑の灯も、あの音もなかった。
ただ、潮の香とともに、耳の奥に微かな声が残った。
── 千早、記憶は呪いじゃない。生きよ。
その声を胸に、千早は剣を握り直し、異国への海へと歩き出した。
*
夜。
船が沖を離れる。
甲板の上で、千早は星々を仰いだ。
波間に映る光が、まるで魂のように瞬いている。
龍馬は隣で笑い、海舟は静かに煙管をくゆらせていた。
── だが、千早だけが知っていた。
この海の向こうにも、まだ「記憶の残響」が待っていることを。
そして、その果てに再び“紫苑”が現れるということを。
それは、運命という名の潮流だった。
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