滅びの花 丸山幻譚

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第四章

異国の海にて ― 亡霊たちの船

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海の匂いには、記憶の味がする。
千早は、そう感じていた。
長崎を離れて三日。
小さな帆船は南へと向かっていた。
空は鉛色の雲に覆われ、風はまだ冷たかった。
それでも、遠くの水平線の下には、知らぬ国の陽光がある気がしてならなかった。
甲板の上には、無数の縄と樽、濡れた木の匂い。
潮風に混じって、異国の香辛料のような甘い臭いが漂ってくる。
どこからか響く鉄の鎖の音が、心の奥の古い傷を叩いた。
「千早どん、船はどうじゃ?」
龍馬の声が背後から飛んできた。
彼は風を受けて白い外套をなびかせ、まるで海の一部のように立っていた。
「この揺れには慣れん。陸の足が恋しくなる」
「そりゃあ誰でもそうよ。けんど、この揺れの先に新しい日本があるがじゃ」
「新しい日本か……それは本当に、海の向こうにあるのか?」
龍馬は笑った。
「あるとも。海の向こうにも、妖はおる。理想もまた妖みてぇなもんぜよ」
そのとき、海舟がゆっくりと階段を上がってきた。
薄青の羽織の裾を風に揺らし、煙管をくゆらせている。
「龍馬、理想を軽々しく語るな。お前の妖は、まだ牙を剥いておらん」
「先生、そう言うとまた堅苦しゅうなりますきに」
「堅くてよい。国家とは“死者の積み木”でできておる。理想は死人の夢だ」
龍馬は笑い、千早は黙って海を見た。
その青の深さが、まるで底のない記憶のように見えた。
海はすべてを呑み込み、そして何も返さない。
紫苑の面影も、あの夜の炎も、この海が攫っていった。
だが、潮騒の向こうで確かに声がする気がした。
── 千早。
呼ばれた気がして、振り返る。
誰もいない。風だけが、彼の袖を引いた。
「お前、何か見えたか?」
龍馬が尋ねる。
「……いや、風が笑っただけだ」
「風が笑うか。面白いのう。そういう男は長生きせんぜよ」
「それは褒め言葉か?」
「たぶん」
龍馬は笑い、海舟は煙を吐いた。
煙が風に溶けていく。
その形が一瞬、白い狐の面のように見えた。
千早は目を閉じた。
そして、胸の奥で囁く声をもう一度聞いた。
── まだ終わっていないの。
波の音が返事をするように打ち寄せた。
波は、夜の海を裂くようにうねっていた。
千早は甲板に立ち、頬に塩風を受けていた。長崎を離れてすでに三日。海は深く、空は
重く、太陽も月も姿を隠している。 ――風の匂いが変わった、と龍馬が言ったのは昼過ぎのことだった。
潮の流れが逆巻き、どこか異国の海に入ったような気配がある。羅針盤はわずかに震
え、海図の線を逸れていく。
夜。霧が再び立ちこめた。
甲板を歩く足音が、ひとつ、ふたつ。
龍馬は船室から出てきて、千早の隣に並んだ。
「おぬし、寝ておらんのか」
「眠れませぬ。潮の音が、どうにも胸に響きます」
龍馬は笑った。
「おれもじゃ。海の上じゃ、人も獣も皆、裸になる。理屈も、道理も、国も捨ててな」
彼の言葉の奥には、疲労ではなく、ある種の昂揚が漂っていた。
幕末の志士としての顔の裏に、彼はどこか夢を追う少年のような純粋さを隠していた。
ふと、龍馬が海の先を指さした。
「見えるか」
千早は目を凝らす。
霧の奥に、黒い影――船影が浮かんでいる。
風もないのに、ゆっくりと、滑るように近づいてくる。
「……まさか、幽船(ゆうせん)か」
千早の呟きに、龍馬は冗談めかして言った。
「幽霊でもええ。生きた人間より、正直かもしれんけんの」
しかし、その船は確かに現実のものではなかった。
旗はない。帆も裂け、舵は折れ、にもかかわらず進んでくる。
甲板には誰もいない。
だが、よく見ると、無数の白い影が、波間に揺れていた。 ――それは、江戸の海で沈んだ異国の水夫たち。

そして、かつて長崎の異人居留地に消えた人々の魂。
龍馬は無言でその光景を見つめた。
千早の背筋を、冷たいものが走る。
影のひとつが、まるでこちらに手を伸ばしているように見えた。
「龍馬殿、引き返した方が――」
「いや、行くんじゃ。あれは……呼んでおる」
龍馬の瞳に、奇妙な光が宿った。
それは、好奇心と恐怖、そしてなにか“使命”のような輝きだった。
船は静かに近づく。
甲板と甲板がかすかに触れたとき、潮の流れが一瞬止まった。
風も波も、音を失う。
千早は剣の柄に手をかけたが、龍馬が軽く制した。
「剣は要らん。ここは、斬るよりも“聴く”場所じゃ」
闇の中から、声がした。
言葉ではない。 ――あれは、歌。
古い、異国の祈りのような旋律が、霧の奥から聞こえる。
低く、湿った女の声。
次第に、千早の心の奥に染み込んでくる。
“汝ら、夢の果てに立つ者よ”
“この海の記憶を、受け継ぐか”
声は幻聴かもしれなかった。だが龍馬も、海を見つめたまま動かない。
その頬を伝う一筋の涙に、千早は気づく。
「龍馬殿……?」
龍馬はゆっくりと口を開いた。
「海の底にはな、人が流した夢が沈んどる。国を越え、血を越え、死を越えて。おれは、その夢を拾いにきたのかもしれん」
その瞬間、千早の視界が揺れた。
世界が反転する。
足元の甲板が、深い海へと沈み込むような感覚。
龍馬の姿が遠のき、かわりに――紫苑の白い顔が、闇の中に浮かんだ。
「千早……どうして、ここへ来たの?」
彼女の声は、波に溶けるように優しかった。
「おまえは、まだ人の夢に縛られているの?」
千早は言葉を失う。
紫苑の背後には、白狐の尾が揺れていた。
彼女はもう、完全に人ではなかった。
だが、その瞳だけは、あの丸山の夜のままだった。
「紫苑……おまえは、海を越えたのか」
「いいえ。あなたが私を連れてきたの。あなたの心が、まだ私を放さないのよ」
そう言って、彼女は千早の手を取った。
その瞬間、船の上の空気が変わった。
風が戻り、波が音を立て、龍馬の叫びが聞こえた。
「千早!戻れ!」
気づけば、千早は海面の上に立っていた。
足元には黒い水。そこから無数の腕が伸びてくる。
それは人の腕でも妖の腕でもない、“記憶”の腕だった。 ――沈んだ者たちが、彼を引きずり込もうとしている。
紫苑がその手を振り払う。
「行って……千早。あなたは、まだ生きている」
「おまえは?」
「私は、もう記憶の一部。けれど、あなたの心が望むなら、また夢で会える」
その言葉を最後に、彼女は波に溶けて消えた。
千早は息を呑み、気がつくと船の上に戻っていた。
龍馬が彼の肩を支え、海舟が後方から駆け寄ってくる。
「おぬし……まるで死人のようじゃ」
海舟の声に、千早はかすかに笑った。
「見たのです、あの女を。紫苑を……」
龍馬は黙り、遠くの海を見た。
その向こうに、もう幽霊船の姿はなかった。
代わりに、海の上にはひとひらの花弁が漂っていた。
夜の海に咲くはずのない、白い桜のような花。
龍馬がそれを手に取ろうとしたが、風が吹き、すぐに消えた。
「幻やもしれんが……あれは、何の花じゃろうな」
「滅びの花です」
千早の声は、静かに震えていた。
「人が忘れた夢が、最後に咲かせる花――」
海舟は黙って煙管を取り出し、煙を吐いた。
「夢でも、幻でもよい。問題は、その花がどこへ散るかじゃ」
夜が明けるころ、船は新しい海域へ出た。
霧は晴れ、空は蒼く、遠くに島影が見えた。
しかし千早の心には、まだ紫苑の声が残っていた。
あなたが望む限り、私はここにいる”
海は静まり返り、鳥の声もない。
ただ、波の音だけが、過去と未来をつなぐ糸のように響いていた。
夜が明けたはずだった。
だが、空は相変わらず灰色で、太陽の輪郭はどこにもない。
海は静まり、風も止まり、時間そのものが沈黙しているようだった。
千早は、目を覚ました場所が現実か夢か分からなかった。
周囲は見慣れぬ甲板――だがそれは彼らが乗っていた和船ではない。
舷の装飾も、マストの構造も異国風で、腐りかけた板がどこまでも続いていた。
その表面には、文字とも符号ともつかぬ刻印が無数に走っている。
龍馬が隣にいた。
彼もまた、黙って甲板を見渡している。
「どうやら、おれたちは“あの船”に乗り移ったようじゃの」
その声が、やけに遠く響いた。
後ろには海舟が立っていた。
「夢の中か、死の中か。……まこと、厄介な場所に迷い込んだものよ」
彼の視線は落ち着いていたが、その掌は微かに震えていた。
「先生……これは、妖の仕業でしょうか」
千早の問いに、海舟は短く笑った。
「妖も霊も、人の記憶が生み出したものじゃ。おぬしらが信じる限り、それは実在す


そのとき、船体が軋む音がした。 ――軋みではない。
それは、誰かの足音だった。
霧の中から、ひとりの男が現れた。
背が高く、白い髪。瞳は蒼。
だがその輪郭は半ば透け、風の中に揺れている。
「Welcome, travellers …」
かすれた英語が、潮の匂いとともに響いた。
龍馬は片眉を上げ、笑みを浮かべた。
「おお、異国の亡霊さんか。……こりゃあ、珍客じゃ」
男は無言で帽子を脱いだ。
その背後に、十数人の影が並ぶ。
皆、異国の服を着ていた。
紅毛人、オランダ人、あるいはもっと遠い西の者たちか。
彼らの顔には、怒りも悲しみもなく、ただ深い虚無が漂っている。
「我らはかつて、ここで沈んだ。
世界を開こうとしたが、世界は我らを呑み込んだ」
男の声は、海の底から響くようだった。
龍馬が問う。
「開こうとした、とは?」
「人と人とを結ぶ“海の道”を。
だが、国も宗も、夢も違った。
我らの船は、風ではなく“思想”に沈められた」
海舟が口を開く。
「思想に沈められた、とな。……それは、戦か」
「戦ではない。“誤解”だ。
我らが信じた未来は、あなたたちの信じる未来と、少しだけ違った」
男の瞳が、龍馬に向いた。
「坂本龍馬。あなたはこの海を越えようとしている。
だが、越えた先には“形のない国”がある」
龍馬は眉を寄せた。
「形のない国?」
「思想でできた国。夢でできた海。
あなたが抱く理想も、我らが見た幻と同じ。
やがてその夢が、この海を再び染める」
千早はその言葉に戦慄した。
龍馬が“新しい日本”を夢見ていることを、彼は知っていた。
だが今、目の前の亡霊は、その夢の先に“滅び”を見ているようだった。
「あなたたちは、それを止めに来たのですか」
千早が問うと、男は静かに首を振った。
「我らは止めることはできない。
ただ、伝える。夢には代償があると。
思想には魂が宿り、魂はいつか、血を求める」
龍馬の瞳に、炎のような光が宿る。
「それでも、行かにゃならん。
血を流してでも、夢を掴まんと世は変わらんのじゃ」
男は、まるで微笑むように頷いた。
「ならば、行け。
だが覚えておけ―― “夢”とは、いつも“誰かの記憶”の上に咲く」
霧が再び濃くなり、亡霊たちは姿を失い始めた。
その中で、ただひとり、白い影が残った。 ――紫苑。
彼女は異国の衣をまとい、目元に薄い布をかけていた。
「千早……あなたもまた、夢を見ているのね」
「紫苑……なぜここに」
「この海は、夢と記憶が交わる場所。
あなたの記憶が私を呼んだのよ」
「俺は……おまえを忘れたことはない」
紫苑は微笑んだ。
「でも、私はあなたの夢の中でしか生きられない。
私は人が紡いだ“記憶の妖”だから」
龍馬が口を挟んだ。
「お嬢さん、夢でも記憶でもええ。
おぬしのような存在が、この国を見守ってきたのかもしれんのう」
紫苑は龍馬に目を向けた。
「あなたたちは今、新しい夢を紡ごうとしている。
でも、それがどれほどの“記憶”を壊すか、知っている?」
龍馬は少しだけ沈黙した。
「知っとる。
けんど、壊さんと次は生まれん。
それが、わしらの“運命”じゃ」
その言葉を聞いて、紫苑は少し寂しそうに笑った。
「ならば、せめて――覚えていて。
滅びの中にも、花が咲くことを」
そう言って、彼女は白い花弁をひとひら、龍馬の掌に置いた。
それは光を放ち、やがて風に溶けて消えた。
次の瞬間、轟音が海を裂いた。
霧が吹き飛び、亡霊船が崩れ始める。
船体が裂け、空がひび割れる。 ――世界そのものが、夢の幕を下ろすように。
千早は龍馬と海舟の手を取った。
光が爆ぜ、波が逆巻く。
その中心で、紫苑の声が聞こえた。
「あなたたちの未来に、どうか花が咲きますように」
そして、全てが白くなった。
次に目を開けたとき、彼らは元の船の上にいた。
空は晴れ、波は穏やか。
だが甲板の上には、一輪の白い花が落ちていた。
龍馬がそれを拾い、手の中で握りしめた。
「滅びの花か……。
だが、滅びもまた“生きる証”じゃ」
海舟は静かに頷き、煙草に火をつけた。
「この国も、いずれ滅びる。
けれどその滅びが、新しい夢を咲かせるのなら、それもまたよかろう」
千早は遠い水平線を見た。
風が吹く。
潮の匂いに、どこか懐かしい香が混じっていた。 ――紫苑の香だった。
その夜、千早は眠れなかった。
夢の中で、再び紫苑が現れる。
白い花畑の中で、彼女は静かに笑っていた。
「千早。夢は壊れるから、美しいのよ」
彼はただ、頷いた。
そして朝日が昇るころ、花畑は波に変わり、彼は再び現実の海の上にいた。
東の空が、赤く染まっていく。 ――幕末の夜明けだった。

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