滅びの花 丸山幻譚

ruka-no

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第五章

海舟の幻視

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夜の海は、静謐のようでいて、どこかざらついていた。
風が止まり、波が沈黙する。月光は水面を裂き、まるで無数の鏡の破片を散らしたよう
に煌めいている。
勝海舟は船の舳先に立っていた。白い息がかすかに漏れ、掌の中には小さな羅針盤がある。針は北を差すことを忘れたように震え、やがてぐるりと円を描いて止まった。 —— この海に、方向などあるのか?
そんな思いが、ふと胸をよぎる。
彼の視界の彼方には、見慣れぬ星々が輝いていた。北斗も南十字も、この夜空には存在しない。
地図にも描かれぬ場所、風も潮も、理を超えたところ。
それでも船は進んでいる。帆柱が軋む音が、まるで時間そのものの悲鳴のように響いた。
海舟はふと、己の手を見つめた。
その指には、紫苑の残り香がまだ微かに染みついている気がした。
あの女の笑み、血のように紅い唇、三味線の音に溶ける吐息。 —— あれは夢か、幻か。
丸山の灯籠が揺れていた夜、千早と龍馬と笑い合ったあの夕餉。
すべてが遠く、そして手触りだけがあまりにも現実だった。
そのとき、背後から声がした。
「勝どの……まだ戻らぬつもりか」
振り返ると、坂本龍馬がいた。
濡れた髪を風に流し、微笑んでいる。だがその顔は、どこか光の中に透けていた。
「戻るも何も、わしらはまだ“どこ”にもおらんのや」
龍馬はそう言って、海を見渡した。
波間には、無数の影が漂っている。
女の声、子の泣き声、祈りの断片。 —— 人の記憶が泡となり、泡が風に変わり、風が海を渡る。
それが、この世の“流れ”なのだろう。
海舟は言った。
「龍馬、おぬしは死んだはずじゃ」
「死んだやつが、夢の中で船を漕いだらいけんのか?」
龍馬は笑った。その笑いには、生と死の区別などない。
「生きとるか死んどるかなんぞ、波の上下と変わらんさ。
沈んで上がる。それだけのことじゃ」
そのとき、風が再び吹いた。
海原にざわめきが走り、低い祈りの声がどこからともなく響いた。
“Dona nobis pacem …(われらに平和を)”
異国の言葉である。
長崎で聞いたことのある祈りだ。かつて処刑されたキリシタンたちが、夜ごとこの海を渡ると噂された。
海舟は胸の奥でざらりとした感情が渦を巻くのを感じた。
罪か、恐れか、それとも憧れか。
「龍馬、聞こえるか」
「ああ。……死人どもの合唱じゃ。よう歌うのう」
龍馬の声に混じり、波間から黒い影が浮かび上がった。
最初は一人の女だった。
次に、目を潰された宣教師。
そのあとには、鎖につながれた水夫、異国の娘、首を失った男たち。
皆、ゆらゆらと波に浮かび、やがて甲板に足をかけた。
音もなく歩くその足音が、世界から時を奪っていくようだった。
龍馬が小さく呟いた。
「こいつら、あの丸山で見送られた連中や」
「丸山?」海舟の胸に、激しい痛みが走った。 —— 紫苑。 —— 千早。
あの夜、燃え上がる花街の灯の中で、誰を見捨て、誰を救ったのか。
それすらも、もう定かではない。
そのとき、亡霊たちの中央に、白い姿が現れた。
それは紫苑だった。
薄衣をまとい、瞳は月の光を宿している。
「……勝さま」
海舟の喉が凍ったように動かない。
「あなたはまだ、夢の続きを見ているのですか」
「紫苑……これは夢なのか」
「夢ではなく、“記憶”です」
彼女の声は水のように澄み、しかしどこか遠い。
「人は死んでも、記憶は海を渡る。
わたくしたちは、その記憶に囚われたまま、どこへも行けぬのです」
海舟は一歩踏み出そうとしたが、足が動かなかった。
甲板の下は、もう海だった。
船が静かに溶けていく。
亡霊たちは祈りをやめ、紫苑の方を向いた。
彼女は目を閉じ、両手を広げる。
「この海は、滅びゆく者たちのゆりかご。
けれど、滅びは終わりではありません。
記憶が人を導く限り、海は夢を生むのです」
龍馬が笑った。
「まるで坊主の説法じゃな。……海舟、どうする?」
海舟は答えず、手の中の羅針盤を見つめた。
針は再び狂い始めていた。だが、狂うことこそが、真実なのかもしれない。 —— 世界は、まっすぐには進まぬ。
そのとき、空が裂けた。
白い閃光が夜を割き、巨大な波が船を襲った。
海舟は龍馬とともに吹き飛ばされ、宙を舞った。
耳の奥で、紫苑の声が叫ぶ。
「勝さま、思い出して。—— あの夜の約束を!」
視界が反転する。
見慣れた灯、紅い提灯。
香の匂い、三味線の音、紫苑の微笑み。 —— 丸山。
そこに千早がいた。
若き日の彼。まだ浪人に落ちる前の、熱を帯びた瞳。
紫苑の膝枕に顔を埋め、未来を語っていた。
「この国は変わる」
「ええ、変わりますわ。けれど、あなたは変わらないで」
「……約束する」 —— その約束を、彼は破った。
次の瞬間、視界が白に染まった。
海舟は再び甲板に戻っていた。
船は静まり返り、亡霊もいない。
ただ、風だけが羅針盤を撫でていた。
針は、ゆるやかに、ひとつの方向を指している。
北でも南でもない。
“長崎”—— 彼がかつて立ち去った港の方角だった。
海舟はゆっくりと立ち上がった。
足元には、龍馬の刀が落ちていた。
拾い上げると、刃には海水の代わりに血のような紅が滲んでいた。
「龍馬
……おまえは、まだどこかで笑っているのか」
彼は空を見上げた。
雲の切れ間から、薄明が差し込む。
夜明けだ。
波が穏やかに船体を撫でる音の中、ひとつの声が聞こえた。
「海舟どの、見えましたか」
振り返ると、そこに千早が立っていた。
すべてを見通すような静かな目で。
「……見たとも」
海舟は微笑んだ。
「夢の果てで、ようやく道が見えた」
千早は頷いた。
「紫苑も、それを望んでいました」
海舟は羅針盤を差し出した。
針は、もう狂っていなかった。
まっすぐに、陸の方角を指している。
その針の先には、朝陽を浴びる長崎の影。
海舟は深く息を吸い込み、低く呟いた。
「この国も、わしらも、まだ沈みきっちゃおらん」
波の音が、静かに消えていった。
羅針盤の針だけが、微かに震えていた。
その震えが、まるで紫苑の微笑の名残のように思えた。
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