滅びの花 丸山幻譚

ruka-no

文字の大きさ
6 / 7
第六章

丸山幻夜 永遠の約束

しおりを挟む
夜の丸山は、まるで再び夢の中に現れた街のようだった。
灯籠が並び、紅殻格子の向こうに影が揺れている。
遊女たちの笑い声、三味線の爪弾き、遠くで聞こえる太鼓の音。
だが、そのすべてがどこか透き通っていて、現実と幻の境がもうわからなかった。
千早は坂道を上っていた。
足の下には、焦げた石畳。
それは、かつて火に包まれた夜の名残だった。
焼け跡に新しい花街が建てられ、灯がともり、人が笑い、音が生まれた。
だが、あの夜の煙と血と涙の記憶は、まだこの街の奥に沈んでいる。
風が吹いた。
その風の中に、白い花弁が舞った。
桜ではない。紫苑の花だった。
千早は思わず立ち止まった。
その花弁が一枚、彼の肩に落ちる。
ひどく冷たい。けれど、その冷たさが懐かしかった。
「……紫苑」
声が漏れた。
振り返ると、坂の下、紅い灯の中に女の影が立っていた。
白い薄衣、黒髪、狐面。
まるであの夜の姿のままだった。
「千早……あなたは、戻ってきたのですね」
その声は、風の中で揺れる鈴のように柔らかく響いた。
千早はただ頷いた。
「約束した。もう一度、おまえに会うと」
紫苑は微笑んだ。
「この街は、今も夢の底にあります。
わたくしは、その夢の守り人。
あなたが帰る場所が、いつか消えてしまわぬように」
そのとき、背後の路地から声がした。
「やっぱり、二人はここで会うんじゃな」
坂本龍馬がいた。
煙管をくゆらせ、笑っている。
「まるで芝居の幕引きみたいじゃ。けんど、まだ幕は降りとらん」
その隣には、勝海舟が立っていた。
疲れた眼差しの中に、静かな光が宿っている。
「この街を、再び見届けねばならん。
滅びたものが甦るとき、人は己の“影”を見るものじゃ」
龍馬は笑いながら、紫苑に目を向けた。
「おまん、妖(あやかし)でありながら、人の情を知っとる。
そりゃあ、やっかいなもんや」
紫苑はただ微笑む。
「情こそが、妖を人に近づけ、そして人を妖にするのです」
その夜、丸山の奥では、静かな宴が催されていた。
花魁道中の練り歩き、笛の音、香の煙。
だが、それは人のための宴ではなかった。
灯籠の下では、影が踊り、消えた者たちが帰ってくる。
遊女たち、異国の使者、武士、町人、そして亡霊。
みな、ひとときの幻に招かれ、杯を交わしている。
千早たち四人も、その宴にいた。
紫苑が注ぐ酒は、月の雫のように淡く光っていた。
「これは、人の記憶を映す酒。
一口ごとに、忘れたはずの顔が浮かぶのです」
龍馬が杯を掲げた。
「ほう。なら、俺は“未来”を思い出そうかの」
「未来?」海舟が眉を寄せた。
「そうじゃ。未来は、過去を思い出すことでしか見えん」
龍馬は杯をあおった。
その瞬間、彼の瞳に光が差した。
「見える。……新しい夜明けが」
龍馬は呟いた。
「けど、それは同時に滅びの光でもある。
人が夢を見なくなったとき、妖たちは消える。
けんど、夢のない国なんぞ、誰が生きたいと思う?」
紫苑が目を伏せた。
「滅びは、悪ではありません。
ただ、記憶が移り変わるだけのこと。
わたしたちは、その橋の上に咲く花にすぎません」
海舟がその言葉を聞きながら、手の中の羅針盤を見つめていた。
針は震えもせず、静かに“北”を指していた。 —— もう迷うことはない。
彼の心の中で、そう小さく声がした。
宴が深まるにつれ、幻は濃くなっていった。
花街の灯が歪み、壁が透け、星空が屋根の上に降りてきた。
現実と夢が、完全に溶け合う瞬間。
紫苑が立ち上がった。
白い指先が、淡く光を放っている。
「この夜が終われば、わたくしは消えます。
けれど、千早、あなたの心に残るなら、それでいい」
「紫苑……!」
千早が立ち上がる。
その目には涙が浮かんでいた。
「おまえがいなくなったら、この世界はどうなる」
紫苑は静かに微笑んだ。
「世界は、あなたが見る夢によって形を変えるのです」
その瞬間、風が吹いた。
灯籠が一斉に消え、世界が闇に包まれた。
闇の中に、ひとつだけ光があった。
紫苑の胸元から零れ落ちる、小さな花弁。
それが宙を舞い、千早の手のひらに落ちた。
彼女の姿は、風とともにほどけていった。
白い煙が夜空へと昇り、月光の中で消えた。 —— 香の匂い、三味線の調べ、指先の温度。
すべてが淡い残光のように千早の胸に残った。
残された三人――千早、龍馬、海舟。
誰も言葉を発せなかった。
ただ、夜の深さに身を任せていた。
やがて龍馬が笑った。
「泣くこたぁねぇ。滅びは始まりぜよ」
海舟も微かに笑う。
「そうじゃな。あやつは花。花は散って、次の季節を呼ぶ」
千早は手の中の花弁を見つめていた。
それは光を放ち、まるで心臓の鼓動のように脈打っている。
その光が街全体を包み込み、丸山の家並がゆっくりと消えていった。
風がやみ、音が消えた。
世界がひとつの静寂に沈む。
そして――朝が来た。
薄明の中、千早は港のほとりに立っていた。
龍馬も、海舟も、もういない。
ただ波だけが寄せては返し、光が水面で揺れている。
空には一片の雲もなかった。
手の中には、あの花弁。
もはや光も放たず、ただの白い紙のように軽い。
千早はそっとそれを海に流した。
そのとき、どこからともなく三味線の音が聞こえた。 —— 紫苑の音色。
遠く、潮風の向こうから響いてくる。
千早は目を閉じた。
海の香、風のざわめき、そしてあの夜の約束。
“また会いましょう。夢の中で。”
彼は微かに笑い、歩き出した。
長崎の街の坂を、ゆっくりと登っていく。
朝日が背を照らし、影が伸びる。
その影の先、白い花が一輪咲いていた。
それは、紫苑の花。
滅びの花が、再び静かに息づいていた。






しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

妻が通う邸の中に

月山 歩
恋愛
最近妻の様子がおかしい。昼間一人で出掛けているようだ。二人に子供はできなかったけれども、妻と愛し合っていると思っている。僕は妻を誰にも奪われたくない。だから僕は、妻の向かう先を調べることににした。

将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!

翠月るるな
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。 侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。 そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。 私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。 この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。 それでは次の結婚は望めない。 その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

豪華客船での結婚式一時間前、婚約者が金目当てだと知った令嬢は

常野夏子
恋愛
豪華客船≪オーシャン・グレイス≫での結婚式を控えたセレーナ。 彼女が気分転換に船内を散歩していると、ガラス張りの回廊に二つの影が揺れているのが見えた。 そこには、婚約者ベリッシマと赤いドレスの女がキスする姿。 そして、ベリッシマの目的が自分の資産であることを知る。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

処理中です...