滅びの花 丸山幻譚

ruka-no

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第七章

長崎幻景 記憶の余白

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長崎の港は、時代に磨かれた光を帯びていた。
高層ビルが立ち並び、港にはヨットが静かに浮かぶ。海面は鏡のように光を反射し、風に揺れる波紋が波打つ。千早は、かつての丸山遊郭がこの街のどこかに残っている気配を、無意識に探していた。
石畳の道を歩くたびに、古い街の記憶が微かに蘇る。
紅殻格子の家々、三味線の音、香の煙。笑い声、怒声、泣き声……それらすべてが、かすかな残響となって千早の胸に届いた。
「……あの夜は、夢だったのか?」
問いかけても答えはない。ただ、港から吹く潮風だけが答えのように胸を打った。
歩道脇に小さな花壇があった。白い花が一輪、風に揺れている。 —— あれは紫苑の花だ。
千早は息を詰め、花を見つめる。遠くの波音が三味線の音に重なり、彼の記憶はふたたびあの夜へと引き戻された。
港を見下ろす丘に立つと、かつて黒船が停泊した場所は、今は静かなヨットハーバーになっていた。海面に映る光は、あの日の月光の残り香のようで、千早の胸に染み入る。手帳を開くと、過去の旅路、丸山の火、龍馬の笑み、海舟の眼差し、そして紫苑の声が淡く文字に刻まれていた。文字にすることで、幻影は現実に少しずつ溶け込んでいった。
ふと、遠くから足音が聞こえた。人間のものではない。波の向こうから、微かに三味線の調べが漂ってくる。記憶の深い場所から呼び覚まされる旋律に、千早は立ち止まった。 —— あの夜と同じ音。
答えを求める必要はなかった。耳を澄ませるだけで十分だった。
夜が深まるにつれ、街灯が海面に映り、長崎湾を金色に染める。千早の影は一つ、静かに伸び、幻の影と重なる。狐面をかぶった紫苑の影も、その光の中に見えるような気がした。声は聞こえない。ただ存在する確かさが、胸に触れた。
千早はそっと微笑んだ。
「また会えたな、紫苑」
街は変わっても、記憶は消えず、彼女は花のようにそこに息づいていた。
坂道を下りると、現代の丸山跡地に公園が整備され、子供たちの笑い声が響く。犬を散歩させる老夫婦、ベンチに座る人々――すべてが、過去と今をつなぐ橋のように感じられた。千早は目を閉じ、深く息を吸う。すべては幻であり、すべては現実である。
港の向こう、海面に白い光が浮かぶ。それは朝日でも月光でもない。紫苑の残り香が、
時間を越えて千早を呼んでいるのだ。彼は歩き出す。坂を上り、街の隙間に現れる古い石段を登る。歩くたびに、過去の自分、海舟、龍馬、千早の魂すべてがひとつのリズムで響
き合う。
古い倉庫の跡地に立つと、千早は過去の記憶の層が波打つのを感じた。瓦礫の間から、微かに火の匂い、香、煙、笑い声、叫び声が蘇る。それは、幻の街が息づいていた証だった。千早は手を伸ばすが、何も触れることはできない。風に舞う花弁だけが、触れられる存在としてそこにあった。
港に近い石段を降りると、千早はまた白い花弁を見つける。それは、かつて紫苑が千早に渡したあの花弁に似ている。手に取ると、淡く光り、心臓の鼓動のように脈打つ。思わず目を閉じ、過去の夜を追体験する。丸山の灯籠、炎、笑い声、涙、そして三味線の調べ
……それらすべてが、過去と現代を結ぶ糸となって千早の心を縫い上げる。
坂の上、薄暗い裏道を進むと、古い灯籠が一つだけ残っていた。風で揺れる光は、夜の丸山をそのまま映し出す。千早は手を伸ばして灯籠に触れると、熱も冷たさもない不思議な感触が掌に残った。そこに、紫苑の微笑みと火の残り香が同時に感じられる。彼の中で、時間がふたつに裂けたように揺れ動いた。
歩き続けるうちに、千早はふと気づいた。過去はもう戻らない。しかし、記憶は消え
ず、存在の証として残る。幻は現実を彩り、現実は幻を照らす。滅びの花は消えても、その香りは時間の中に生き続けるのだ。
港を振り返ると、白い花弁が風に舞い、宙を旋回した後、ゆっくりと水面に落ちた。波がそれを包み、遠くの波音に溶かしていく。千早は微笑み、そっと言った。
「また、夢の中で会おう」
朝の港をゆっくり歩きながら、千早は足元に落ちる光の粒に目を止めた。水面に反射する光が、あの日の丸山の灯りの残り香のように揺れる。通り過ぎる人々の足音、子供たちの笑い声、犬の鳴き声――それらすべてが、過去と今をつなぐ旋律となった。
港の先には、青く澄んだ空が広がり、遠くの山並みは霧に霞んでいる。千早は深呼吸をして、過去の記憶と幻影の重なりを胸に感じた。龍馬、海舟、紫苑――すべての魂が、この街のどこかで静かに息づいている。
手にした白い花弁をそっと海に流す。波がそれを包み込み、遠くの波音に溶かしてい
く。
花弁は光を放たず、ただ水面を滑るだけ。それでも、千早の胸には確かに温もりが残った。
港の波音に耳を澄ますと、三味線の微かな音が遠くから響く。幻か現実か、わからな
い。だが、千早はもうそれを求めなかった。 —— すべては、記憶の余白にある。消えたものも、残ったものも、すべてが同時に存在
する。
千早は静かに微笑んだ。港を背に、街の坂道をゆっくり登る。朝日が背を照らし、影が長く伸びる。その影の先に、白い花が一輪咲いていた。
それは、紫苑の花。滅びの中に咲き続ける、記憶の花だった。
港の向こう、波音は穏やかに響き、街は静かに目を覚ます。千早の胸の中には、過去と幻、夢と現実のすべてが余白として広がり、永遠の約束のように息づいていた。
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