共鳴者のシンフォニー

ruka-no

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第一章

沈黙の周波数

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その声を、最初に「異常だ」と感じたのは、彼自身ではなかった。
東京・神田の片隅にある私立大学の講義室。
春の終わりを告げる雨が窓を叩き、湿った空気が漂っていた。
久我怜司は、黒板の前に立ち、いつものように声を張り上げていた。
「言葉というのは、意味だけで人を動かすものじゃない。
たとえば“トーン”や“間(ま)”。そこに宿るものこそが、真の説得力を生むんで
す」
学生たちは、いつになく静かだった。
ただノートを取るのではなく、まるで催眠にかかったように、怜司の言葉に引き込まれていく。
ひとり、またひとりと、まばたきを忘れたように怜司の顔を見つめていた。
「……ここまでで質問は?」
沈黙。
雨音だけが響く。
怜司は一瞬、ぞくりとした。
この静寂――まるで全員の呼吸が、同じリズムで揃っているように感じた。
講義が終わり、学生たちは立ち上がった。
その動きもまた、妙に滑らかで、統率されたようだった。 ――おかしい。
怜司は内心で呟いた。だが、同時に奇妙な高揚感もあった。
彼の声が教室を支配していた。その事実に、うっすらとした快感を覚えていたのだ。
控室に戻ると、音響学研究者の恋人・神崎由梨が待っていた。
彼女は同じ大学の理工学部に籍を置き、音声分析を専門としている。
「また学生を黙らせたって評判よ、久我先生」
「評判って……いい意味じゃなさそうだな」
「いいえ、むしろ“魅了された”って。あなたの講義、出ると変になるって話」
「変?」
「うん。妙に感情的になったり、泣いたり笑ったり。まるで何かに“共鳴”してるみたい」
怜司は苦笑した。
「大げさだな。僕の声がそんなに強烈なら、とっくにニュースになってるさ」
だが由梨は、真剣な眼差しで彼を見た。
「……本当に、あなたの声、普通じゃないの。波形を少し録ってみてもいい?」
彼女はポータブルレコーダーを取り出し、怜司に短い文章を読ませた。
「“水面に映る月は、本物ではない”――はい、ありがとう。」

た。
画面上に、可聴域外の不規則な波――超高周波の帯が現れていた。
「何これ……通常、人間の声には絶対出ない領域」
怜司は画面を覗き込みながら呟いた。
「つまり、僕の声は“見えない何か”を揺らしてる?」
「理論的にはね。でも、そんなの……あり得ない」
その夜。
怜司は帰り道の居酒屋で、たまたま隣の客と口論になった。
会社員風の男が、酔って彼に絡んできたのだ。
「説教くせぇんだよ、大学のセンセイ気取りが」
怜司は静かに言った。
「落ち着いてください。あなたは怒る必要なんてない」
その瞬間、男の顔色が変わった。
怒りが引き、代わりに虚ろな目つきになり、椅子に沈んだ。
「……そうだな、怒る必要なんて……ない、か」
怜司は、息を呑んだ。 ――今のは、偶然じゃない。
翌朝、彼は自室の鏡の前に立ち、低く声を出した。
「動くな」
鏡の前の自分が、思わず足を止める。
「……バカみたいだな」
笑いながらも、胸の奥では確信していた。
声が――力を持っている。
数日後、由梨から連絡が入った。
「怜司、すぐ来て。あなたのデータ、もう一度見直したら……恐ろしいことがわかっ


彼女の研究室に入ると、モニターには新しい波形が表示されていた。
「この帯域、20 キロヘルツを超えてる。人間の耳には聞こえない。でも、脳が反応してるの」
「脳が?」
「実験で、あなたの声を録音して被験者に聞かせたら、みんな同じ反応を示した。
心拍の低下、脳波の同調、そして――感情の変化」
由梨の声が震えていた。
「あなたの声は、“人を動かす”の。言葉じゃなくて、生理的に」
怜司は目を細めた。
「じゃあ、僕がやっていた“説得術”は…」
言葉の力じゃない。もっと根源的な音の支配。あなたの声は、進化の逸脱よ」
沈黙が落ちた。
外では再び雨が降り出していた。
その音が、妙に遠く感じられる。
由梨は怜司の手を握った。
「お願い、軽い気持ちで使わないで。この力は、誰かを壊す」
怜司はうなずいた。
「わかってる。でも……僕が壊してるのは“誰か”じゃなく、“世界”そのものかもし
れない」
その夜、怜司は夢を見た。
無数の声が交錯する暗闇の中、自分の声だけがはっきりと響いていた。
「――すべてを、静かにせよ」
世界が、音を失った。
その沈黙の中で、怜司は確信した。
自分の声は、進化の先端に立っている。
翌朝、久我怜司は目を覚ますと、耳の奥にわずかな“残響”を感じた。
何かを呼び起こすような、微かな振動――まるで夢の中の声が、まだ現実を揺らしているかのようだった。
洗面台で顔を洗いながら、怜司は昨夜の由梨の言葉を思い出していた。
「進化の逸脱」――それは褒め言葉でもあり、呪いでもある。
この力が生まれつきのものなのか、あるいは何かの突然変異なのか、わからない。
だが確かなのは、この声を使うたびに世界が少しずつ歪んでいくという感覚だった。
大学に着くと、講義棟の前に集まる学生たちの姿が目に入った。
彼らは怜司を見ると、一斉に会釈をした。
それは礼儀というより、どこか宗教的な儀式のような統一感を帯びていた。
「……おはようございます、先生」
「あ、ああ……おはよう」
怜司は戸惑いながら教室へ向かった。
教壇に立ち、声を出した瞬間――空気が変わった。
発した言葉が空間を支配する。
音が壁に反射し、教室全体を包み込む。
「――“同調”とは、支配の始まりだ」
自分で言った言葉に、自分が驚いた。
だが、学生たちはうなずき、ノートにそのまま書き取っていく。
講義が終わると、一人の女子学生が近づいてきた。
細い指が震えながら、怜司にメモを差し出す。
そこにはこう書かれていた。
先生の声を聞くと、頭の奥が光ります。
私、自分じゃない誰かになっていくみたいです。
怜司は、その紙をしばらく見つめたまま、言葉を失った。
彼女が去った後、紙を握りつぶす。
だが、心の奥では――得体の知れぬ悦びが芽生えていた。
夜。
怜司は由梨の研究室を訪ねた。
彼女は、疲れ切った表情で複数のモニターを見つめていた。
「あなたの声を再現するシミュレーターを作ったの。だけど……」
「どうした?」
「人の声じゃ、再現できないのよ。機械で同じ波形を出しても、脳は反応しない。つまり
、あなたの声は“音”じゃなく、“意図”そのものを伝えてる」
「意図……?」
「感情や命令を、音に乗せてる。人間にはない機能よ」
由梨は怜司の目を見据えた。
「あなた、自分の中に“別の何か”を感じたことは?」
「あるよ。最近は特に。まるで声が、僕の意思より先に動いてるようだ」
由梨は小さく息を呑んだ。
「怜司、その“声”に飲まれないで。きっとこれは、人が扱っていい領域じゃない」
その夜、怜司は研究室を出て、真夜中の街を歩いた。
人通りのない路地。コンビニの光だけが白く照らす。
歩道にしゃがみ込む若者の姿があった。髪を染め、顔に疲れを滲ませている。
「おい、タバコ持ってない?」と声をかけられた。
「ないよ」
「チッ、ケチだな」
怜司はその若者を見つめ、低く囁いた。
「吸いたくないはずだ」
青年の目が虚ろになり、手に持っていたタバコを落とした。
「……そうだな。やめるわ」
怜司の胸の中に、雷のような感覚が走った。
脳の奥が震え、鼓動が速くなる。
自分の言葉ひとつで、人の行動が変わる。
それは“説得”ではなく、“命令”。
その日を境に、怜司は小さな実験を繰り返すようになった。
電車の中で、隣の人に心の中で囁く――「眠れ。」

数秒後、相手はあくびをし、まぶたを閉じる。
信号待ちの群衆の中で、「立ち止まれ」と呟けば、誰かがふと動きを止める。
それが偶然なのか、確信なのか、もはや区別がつかなくなっていった。
だが、その力は、使うたびに“音”ではなく“自分”を削っていくようにも感じた。
喉が焼けるように痛み、夜になると耳鳴りが止まらない。
まるで自分の体が、音を出すための装置に変わっていくかのようだった。
ある晩、怜司は大学の講堂でひとり実験をした。
無人の空間にマイクを立て、自分の声を波形として投影する。
「――来い」
スピーカーの前で、誰もいないはずの空間に風が起こった。
天井の照明が揺れ、ガラス窓が細かく震える。
空気が共鳴し、彼の声が可視化された。
「……これが、僕の“音”か」
その瞬間、背後のドアが開いた。
由梨が立っていた。
「やっぱりここにいた。怜司、やめて!」
「見てくれ、由梨。世界は音でできている。僕はその“音”を操れるんだ」
「違う、それは世界を壊す音よ!」
怜司は、由梨の声を聞きながらも、耳には何も届いていなかった。
ただ、自分の声の“響き”だけが世界を塗り替えていく。
突然、照明が落ち、暗闇の中で、由梨の声が遠ざかる。
「怜司、あなたはもう――」
光が消え、音も止んだ。
次の瞬間、すべてが沈黙に包まれた。
怜司は息を吸い込んだ。
完全な無音。
だが、その沈黙の底で、確かに別の“音”が鳴っていた。 ――お前の声は、始まりにすぎない。
誰の声でもない、もうひとつの“自分”の声が、内側から囁いていた。
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