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第二章
声の臨界
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久我怜司の講義は、もはや“授業”ではなかった。
学生たちは学びに来るのではなく、彼の声を浴びに来るのだ。
教室の空気はいつも奇妙な静寂に包まれ、終わる頃には誰もが陶酔したような顔をして帰っていった。
大学の上層部も、当初はその異様な人気を好意的に受け止めていた。
だがやがて「集団的恍惚」や「依存症状」を訴える学生が現れ、学長室から呼び出しが
かかる。
「君の授業、何か特別な訓練法でも使っているのかね?」
学長の声には警戒が滲んでいた。
怜司は微笑を浮かべて答えた。
「ただ、言葉の“本来の力”を使っているだけです」
その笑みを見て、学長は息を詰まらせた。
会話の主導権が、一瞬で奪われたのを感じたのだ。 ――この男の前では、論理も権威も無力だ。
その日を境に、怜司のもとには奇妙な来訪者が現れ始めた。
警察庁公安部、防衛省情報本部、さらには民間の大手コンサルティング企業。
名刺には、いずれも曖昧な肩書きが並んでいた。
ある夜、怜司は高層ホテルのラウンジで、ひとりの男と向かい合っていた。
五十代半ば、灰色のスーツ、低い声。
「久我先生。あなたの“話術”は興味深い。我々の組織でも応用できるかもしれませ
ん」
「組織、ですか?」
「政府系のリスク分析機関です。まあ、一般には“心理防衛センター”と呼ばれています」
怜司は笑みを浮かべた。
「つまり、人の心を守るための機関……という建前で、操作する側に回るわけですね」
男は微かに口角を上げた。
「ご明察です。我々は、情報戦において“声”の効果を再検証している。あなたの能力は国家的資産になり得る」
怜司はグラスの氷を回しながら、ゆっくりと答えた。
「興味はあります。ただし、僕の“声”を使うのではなく、理解したいだけです」
男の瞳がわずかに光を帯びた。
「その言葉、信じていいのですか?」
「信じるかどうかは、あなた次第です」
零司の声が、ほんの少し低く沈んだ。
その瞬間、男の瞳孔がわずかに拡大した。
グラスを持つ指が震え、息を整えるように小さく咳をした。 ――効いた。
怜司は微笑んだ。
この男の心にも、自分の“音”は届く。
数週間後、怜司は「センター」への正式な招待を受けた。
東京湾岸の地下施設。無機質なコンクリートの回廊を抜けると、音響実験室が並んでいた。
壁は全面吸音材。どんな音も外へ逃げない。
案内役の女性職員が言った。
「ここでは、すべての声が“記録されずに消える”設計です。安心して発声してくださ
い」
怜司は立ち止まった。 ――声が、消える場所。
その皮肉に苦笑した。
実験は、三人の被験者を相手に行われた。
被験者の前に怜司が立ち、短い言葉を発する。
「座ってください」
「立ち上がってください」
「深呼吸をして」
それだけで、全員が忠実に従った。
計測機器は、脳波の同期、心拍数の低下、感情値の安定を記録していく。
立ち会っていた研究主任が低く唸った。
「……これは“命令”ではない。共鳴だ。脳が“自ら選んで”従っている」
怜司は、冷たく答えた。
「選ばせているのは、僕じゃない。“声”です」
それから怜司は、週に数度この施設に通うようになった。
次第に、被験者の数も増え、実験は「集団暗示」へと拡大した。
五人、十人、二十人――。
彼がひと声発するたびに、人々の意識が同じ方向へ傾く。
怒りが静まり、不安が薄れ、やがて全員の表情が一様に穏やかになる。
「これが、秩序の音だ」
研究主任は興奮気味に呟いた。
「この技術を応用すれば、暴動もテロも防げる。いや、戦争さえ……」
だが怜司の表情は冷めていた。
人の感情を抑えることで、平和は作れない。あなたたちは、ただ“沈黙”を量産しているだけだ」
主任は言い返せなかった。
しかしその会話のすべては、すでに上層部へと報告されていた。
怜司は知らぬ間に、“国家戦略技術”としての監視対象になっていたのだ。
ある晩、怜司は施設の屋上で夜風を浴びていた。
その背後に、見慣れた気配が立った。
由梨だった。
「ここに来ていたのね」
「どうして分かった?」
「あなたの声を追ったの。空気の震え方が違う。街の“静けさ”で、あなたの居場所が分かる」怜司は苦笑した。
「そんな探知法があるのか」
「あなたが変わるほど、世界のノイズが減るの。まるで“音があなたに吸い寄せられてる”みたい」
彼女は怜司の腕を掴んだ。
「もうやめて。これは研究じゃない、兵器よ」
「僕がやめても、彼らは続けるさ。なら、僕が制御するしかない」
「制御できると思ってるの?その“声”は、あなた自身を侵食してる」
怜司は何も言わなかった。
代わりに、ゆっくりと彼女に囁いた。
「怖がらなくていい」
その瞬間、由梨の瞳が揺れ、呼吸が浅くなった。
怜司は慌てて口をつぐんだ。 ――またやってしまった。
由梨は震える声で言った。
「お願い……私を、操らないで」
怜司の胸に激しい痛みが走った。
この力は、守るためのものではなく、壊すためのものかもしれない――。
それから数日後。
怜司は、施設内で偶然“別の実験室”の存在を知る。
アクセス制限付きの区域、コードネーム《プロジェクト・ヘリックス》。
そこでは、彼と同様の能力者を収容・研究していた。
その中に、ひとりの名が記されていた。
《藤堂リサ》――元音楽療法士。被験者No7。
能力分類 共鳴域干渉型。
怜司は震える手でモニターをスクロールした。
「……僕以外にも、いるのか」
監視カメラの映像に映るリサは、無機質な部屋の中央で静かに口を開いていた。
スピーカー越しに伝わるその“声”は、彼の胸を震わせた。
まるで、同じ“周波数”が共鳴している。
だが次の瞬間、映像が途切れる。
画面には警告が浮かんだ――「機密レベルA 。アクセス権限なし」。
怜司の中で、何かが決壊した。
彼は施設を出ると、夜の街に飛び出した。
胸の奥で、声が蠢いている。 ――彼女を見つけろ。 ――“声”の源は、ひとつではない。
耳鳴りが激しくなり、世界が波打つ。
街の明かりが震え、通行人の動きが遅く見える。
怜司は思わず叫んだ。
「やめろッ!」
その声が夜空を裂いた。
ビルのガラスが一斉に軋み、街灯が点滅する。
通りを歩く人々が、一瞬立ち止まり、怜司の方を振り向いた。 ――全員が、無表情のまま。
沈黙の群衆。
彼の声が、都市全体に届いてしまったのだ。
怜司は膝をつき、喉を押さえた。
「……これが、臨界点か」
彼の声は、すでに“人間の音”ではなくなっていた。
学生たちは学びに来るのではなく、彼の声を浴びに来るのだ。
教室の空気はいつも奇妙な静寂に包まれ、終わる頃には誰もが陶酔したような顔をして帰っていった。
大学の上層部も、当初はその異様な人気を好意的に受け止めていた。
だがやがて「集団的恍惚」や「依存症状」を訴える学生が現れ、学長室から呼び出しが
かかる。
「君の授業、何か特別な訓練法でも使っているのかね?」
学長の声には警戒が滲んでいた。
怜司は微笑を浮かべて答えた。
「ただ、言葉の“本来の力”を使っているだけです」
その笑みを見て、学長は息を詰まらせた。
会話の主導権が、一瞬で奪われたのを感じたのだ。 ――この男の前では、論理も権威も無力だ。
その日を境に、怜司のもとには奇妙な来訪者が現れ始めた。
警察庁公安部、防衛省情報本部、さらには民間の大手コンサルティング企業。
名刺には、いずれも曖昧な肩書きが並んでいた。
ある夜、怜司は高層ホテルのラウンジで、ひとりの男と向かい合っていた。
五十代半ば、灰色のスーツ、低い声。
「久我先生。あなたの“話術”は興味深い。我々の組織でも応用できるかもしれませ
ん」
「組織、ですか?」
「政府系のリスク分析機関です。まあ、一般には“心理防衛センター”と呼ばれています」
怜司は笑みを浮かべた。
「つまり、人の心を守るための機関……という建前で、操作する側に回るわけですね」
男は微かに口角を上げた。
「ご明察です。我々は、情報戦において“声”の効果を再検証している。あなたの能力は国家的資産になり得る」
怜司はグラスの氷を回しながら、ゆっくりと答えた。
「興味はあります。ただし、僕の“声”を使うのではなく、理解したいだけです」
男の瞳がわずかに光を帯びた。
「その言葉、信じていいのですか?」
「信じるかどうかは、あなた次第です」
零司の声が、ほんの少し低く沈んだ。
その瞬間、男の瞳孔がわずかに拡大した。
グラスを持つ指が震え、息を整えるように小さく咳をした。 ――効いた。
怜司は微笑んだ。
この男の心にも、自分の“音”は届く。
数週間後、怜司は「センター」への正式な招待を受けた。
東京湾岸の地下施設。無機質なコンクリートの回廊を抜けると、音響実験室が並んでいた。
壁は全面吸音材。どんな音も外へ逃げない。
案内役の女性職員が言った。
「ここでは、すべての声が“記録されずに消える”設計です。安心して発声してくださ
い」
怜司は立ち止まった。 ――声が、消える場所。
その皮肉に苦笑した。
実験は、三人の被験者を相手に行われた。
被験者の前に怜司が立ち、短い言葉を発する。
「座ってください」
「立ち上がってください」
「深呼吸をして」
それだけで、全員が忠実に従った。
計測機器は、脳波の同期、心拍数の低下、感情値の安定を記録していく。
立ち会っていた研究主任が低く唸った。
「……これは“命令”ではない。共鳴だ。脳が“自ら選んで”従っている」
怜司は、冷たく答えた。
「選ばせているのは、僕じゃない。“声”です」
それから怜司は、週に数度この施設に通うようになった。
次第に、被験者の数も増え、実験は「集団暗示」へと拡大した。
五人、十人、二十人――。
彼がひと声発するたびに、人々の意識が同じ方向へ傾く。
怒りが静まり、不安が薄れ、やがて全員の表情が一様に穏やかになる。
「これが、秩序の音だ」
研究主任は興奮気味に呟いた。
「この技術を応用すれば、暴動もテロも防げる。いや、戦争さえ……」
だが怜司の表情は冷めていた。
人の感情を抑えることで、平和は作れない。あなたたちは、ただ“沈黙”を量産しているだけだ」
主任は言い返せなかった。
しかしその会話のすべては、すでに上層部へと報告されていた。
怜司は知らぬ間に、“国家戦略技術”としての監視対象になっていたのだ。
ある晩、怜司は施設の屋上で夜風を浴びていた。
その背後に、見慣れた気配が立った。
由梨だった。
「ここに来ていたのね」
「どうして分かった?」
「あなたの声を追ったの。空気の震え方が違う。街の“静けさ”で、あなたの居場所が分かる」怜司は苦笑した。
「そんな探知法があるのか」
「あなたが変わるほど、世界のノイズが減るの。まるで“音があなたに吸い寄せられてる”みたい」
彼女は怜司の腕を掴んだ。
「もうやめて。これは研究じゃない、兵器よ」
「僕がやめても、彼らは続けるさ。なら、僕が制御するしかない」
「制御できると思ってるの?その“声”は、あなた自身を侵食してる」
怜司は何も言わなかった。
代わりに、ゆっくりと彼女に囁いた。
「怖がらなくていい」
その瞬間、由梨の瞳が揺れ、呼吸が浅くなった。
怜司は慌てて口をつぐんだ。 ――またやってしまった。
由梨は震える声で言った。
「お願い……私を、操らないで」
怜司の胸に激しい痛みが走った。
この力は、守るためのものではなく、壊すためのものかもしれない――。
それから数日後。
怜司は、施設内で偶然“別の実験室”の存在を知る。
アクセス制限付きの区域、コードネーム《プロジェクト・ヘリックス》。
そこでは、彼と同様の能力者を収容・研究していた。
その中に、ひとりの名が記されていた。
《藤堂リサ》――元音楽療法士。被験者No7。
能力分類 共鳴域干渉型。
怜司は震える手でモニターをスクロールした。
「……僕以外にも、いるのか」
監視カメラの映像に映るリサは、無機質な部屋の中央で静かに口を開いていた。
スピーカー越しに伝わるその“声”は、彼の胸を震わせた。
まるで、同じ“周波数”が共鳴している。
だが次の瞬間、映像が途切れる。
画面には警告が浮かんだ――「機密レベルA 。アクセス権限なし」。
怜司の中で、何かが決壊した。
彼は施設を出ると、夜の街に飛び出した。
胸の奥で、声が蠢いている。 ――彼女を見つけろ。 ――“声”の源は、ひとつではない。
耳鳴りが激しくなり、世界が波打つ。
街の明かりが震え、通行人の動きが遅く見える。
怜司は思わず叫んだ。
「やめろッ!」
その声が夜空を裂いた。
ビルのガラスが一斉に軋み、街灯が点滅する。
通りを歩く人々が、一瞬立ち止まり、怜司の方を振り向いた。 ――全員が、無表情のまま。
沈黙の群衆。
彼の声が、都市全体に届いてしまったのだ。
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