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第三章 地下都市
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だが、死はいっこうに訪れなかった。
びしゃっ、びしゃっと、濡れた床をのたうち回る音がいつまでもやまず――渥美は固く閉じた瞼をゆっくりと開けた。
目の前の光景に呆然とする。首長猫は苦しむでもなく――むしろ上機嫌に長い首をくねらせながら床に全身を擦り付けていた。
「……え?」
先輩も、涙でぐしゃぐしゃの顔をぬぐうこともせずに呆然とそれを眺めていた。眼鏡は割れて床に落ちている。
「ま――麻酔を、先輩!」
渥美が我に返ったように叫んだ。先輩は転げるようにして実験室の奥に走り、ひしゃげて扉が開きっぱなしになった冷蔵庫からケタミンのシリンジを抜いて戻ってきた。
「俺、押さえてます」
「わ――わかった」
先輩は震える手で腰あたりに注射器を突き立てた。一瞬、ぎろりと目を向けた首長猫は、そのままぐったりと目をつむった。
「もう一本やっときましょう。前回あれだけの量で足りなかったんだ」
その時、操作室のドアが開き、静まり返った廊下に寛人が姿を現した。
所属長が唖然とした面持ちで呟いた。
「柚木くん、これは……どうゆうことだ?」
「シアン化物ガスのかわりに、対地上生物用ガスを使用したんです」
寛人は抱えていたガス置換対応真空サンプリングボックスを掲げて見せた。
一同はますますぽかんとする。
「なんだね……その……たいちじょうせいぶつよう……?」
「対地上生物用ガスです。地上植物研究棟からお借りしてきました。まだ試作らしいんですが……」
「植物棟!? どうして植物棟の連中がここで出てくる!」
我に返ったように所属長が怒鳴った。地上生物研究所は動物研究と植物研究で棟が別れていて、その管理者同士が非常に険悪なのである。
「君は……植物棟の連中とも懇意にしてるのかね?」
「いえ――僕は見習いみたいなものですから、よく書類等の受け渡しを頼まれて植物棟に行く機会が多くて。顔見知りが多いだけです。さっき、怖くなって逃げ出したときにたまたま顔を知ってる植物棟の研究員さんと鉢合わせして、何があったのか聞かれて。そしたら貸してくれたんです」
嘘をつけ――渥美は寛人を見据えた。
あの時寛人は逃げたのではないのだろう。植物棟に、このガスを借りに行ったのだ。そもそもよほどの信頼関係を築いていなければ大事な研究成果をぱっと渡してくれるはずがない。まして敵対している動物棟所属の職員なんかに。
渥美は寛人を睨みすえた。おとなしげな容姿にごまかされがちだが、柚木寛人はしたたかな男なのだ。
「このガスなんですが、地上生物には効くが人間には効果がなく、しかも副作用もほぼないそうです」
所属長は探るような眼差しを寛人に向けた。
「人間には効果が出ないのに……? そんな都合の良いものがあるのかね」
「キウイですよ」
キウイ、と所属長は鸚鵡返しをする。
「はい。本当はマタタビが欲しかったんですけど、そんなもんないって言われて。キウイは戦前に愛媛県などで栽培されてて、種などのサンプルも地下都市に持ち込まれているので、マタタビの代用品として猫科の地上生物に効果があるものとして研究されてるんです」
「確かに猫にまたたびとは聞くが――キウイがマタタビのかわりになんかなるのか?」
「なります。キウイはマタタビ科マタタビ属ですから。猫を陶酔させる特異成分のマタタビラクトンは、ネペタラクトン、イリドミルメシン、イソイリドミルメシンなどの混合物で、それらはキウイの木の根や葉などには含まれているんです。確かにマタタビに比べれば微量しか含まれていませんが、こちらのガスは対地上生物用に抽出して濃縮し、効能をあげてあります」
「……なるほど。植物棟は製薬の分野にも手を広げてるのか……あなどれんな」
所属長は首もとの汗を拭った。ハンカチはすでに絞れば滴りそうなほど濡れそぼっている。
「――で、それをどうするのかね。まだ生きてるんだろう」
所属長は首長猫に目を向けた。渥美は疲労感の滲んだ声音で答える。
「ペントバルビタールの致死量を腹腔内に投与します。解剖は……後日、部局の許可が取れ次第、実施します」
その時、呆けたようにへたり込んでいた先輩が唐突に立ちあがった。
あっという間に消火器とチャッカマンをつかみ上げ、寝息をたてている首長猫に向かってグリップを握った。発射口から火炎が噴きだし、猫の身体は瞬く間に炎に包まれた。
渥美は先輩に駆け寄り、消火器をひったくった。
「何してんすか! もう危険はないだろうが!」
「薬なんかで楽に死なせるか‼︎ 柴田を喰ったんだぞこいつは!! 生きながら柴田は……痛かっただろう。苦しかっただろう……」
歯を食いしばって涙を流す先輩を、渥美は力なく見つめた。
スプリンクラーが再稼働し、水飛沫が驟雨のごとく二人の男を打ちつけた。
「出ましょう。風邪ひいちまう」
渥美は割れた眼鏡を拾い上げると、まだ涙を流している先輩の肩に手を置いた。
びしゃっ、びしゃっと、濡れた床をのたうち回る音がいつまでもやまず――渥美は固く閉じた瞼をゆっくりと開けた。
目の前の光景に呆然とする。首長猫は苦しむでもなく――むしろ上機嫌に長い首をくねらせながら床に全身を擦り付けていた。
「……え?」
先輩も、涙でぐしゃぐしゃの顔をぬぐうこともせずに呆然とそれを眺めていた。眼鏡は割れて床に落ちている。
「ま――麻酔を、先輩!」
渥美が我に返ったように叫んだ。先輩は転げるようにして実験室の奥に走り、ひしゃげて扉が開きっぱなしになった冷蔵庫からケタミンのシリンジを抜いて戻ってきた。
「俺、押さえてます」
「わ――わかった」
先輩は震える手で腰あたりに注射器を突き立てた。一瞬、ぎろりと目を向けた首長猫は、そのままぐったりと目をつむった。
「もう一本やっときましょう。前回あれだけの量で足りなかったんだ」
その時、操作室のドアが開き、静まり返った廊下に寛人が姿を現した。
所属長が唖然とした面持ちで呟いた。
「柚木くん、これは……どうゆうことだ?」
「シアン化物ガスのかわりに、対地上生物用ガスを使用したんです」
寛人は抱えていたガス置換対応真空サンプリングボックスを掲げて見せた。
一同はますますぽかんとする。
「なんだね……その……たいちじょうせいぶつよう……?」
「対地上生物用ガスです。地上植物研究棟からお借りしてきました。まだ試作らしいんですが……」
「植物棟!? どうして植物棟の連中がここで出てくる!」
我に返ったように所属長が怒鳴った。地上生物研究所は動物研究と植物研究で棟が別れていて、その管理者同士が非常に険悪なのである。
「君は……植物棟の連中とも懇意にしてるのかね?」
「いえ――僕は見習いみたいなものですから、よく書類等の受け渡しを頼まれて植物棟に行く機会が多くて。顔見知りが多いだけです。さっき、怖くなって逃げ出したときにたまたま顔を知ってる植物棟の研究員さんと鉢合わせして、何があったのか聞かれて。そしたら貸してくれたんです」
嘘をつけ――渥美は寛人を見据えた。
あの時寛人は逃げたのではないのだろう。植物棟に、このガスを借りに行ったのだ。そもそもよほどの信頼関係を築いていなければ大事な研究成果をぱっと渡してくれるはずがない。まして敵対している動物棟所属の職員なんかに。
渥美は寛人を睨みすえた。おとなしげな容姿にごまかされがちだが、柚木寛人はしたたかな男なのだ。
「このガスなんですが、地上生物には効くが人間には効果がなく、しかも副作用もほぼないそうです」
所属長は探るような眼差しを寛人に向けた。
「人間には効果が出ないのに……? そんな都合の良いものがあるのかね」
「キウイですよ」
キウイ、と所属長は鸚鵡返しをする。
「はい。本当はマタタビが欲しかったんですけど、そんなもんないって言われて。キウイは戦前に愛媛県などで栽培されてて、種などのサンプルも地下都市に持ち込まれているので、マタタビの代用品として猫科の地上生物に効果があるものとして研究されてるんです」
「確かに猫にまたたびとは聞くが――キウイがマタタビのかわりになんかなるのか?」
「なります。キウイはマタタビ科マタタビ属ですから。猫を陶酔させる特異成分のマタタビラクトンは、ネペタラクトン、イリドミルメシン、イソイリドミルメシンなどの混合物で、それらはキウイの木の根や葉などには含まれているんです。確かにマタタビに比べれば微量しか含まれていませんが、こちらのガスは対地上生物用に抽出して濃縮し、効能をあげてあります」
「……なるほど。植物棟は製薬の分野にも手を広げてるのか……あなどれんな」
所属長は首もとの汗を拭った。ハンカチはすでに絞れば滴りそうなほど濡れそぼっている。
「――で、それをどうするのかね。まだ生きてるんだろう」
所属長は首長猫に目を向けた。渥美は疲労感の滲んだ声音で答える。
「ペントバルビタールの致死量を腹腔内に投与します。解剖は……後日、部局の許可が取れ次第、実施します」
その時、呆けたようにへたり込んでいた先輩が唐突に立ちあがった。
あっという間に消火器とチャッカマンをつかみ上げ、寝息をたてている首長猫に向かってグリップを握った。発射口から火炎が噴きだし、猫の身体は瞬く間に炎に包まれた。
渥美は先輩に駆け寄り、消火器をひったくった。
「何してんすか! もう危険はないだろうが!」
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歯を食いしばって涙を流す先輩を、渥美は力なく見つめた。
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