エンプセル

うろこ道

文字の大きさ
27 / 276
第三章 地下都市

2(4)

しおりを挟む
 だが、死はいっこうに訪れなかった。
 びしゃっ、びしゃっと、濡れた床をのたうち回る音がいつまでもやまず――渥美は固く閉じた瞼をゆっくりと開けた。
 目の前の光景に呆然とする。首長猫は苦しむでもなく――むしろ上機嫌に長い首をくねらせながら床に全身を擦り付けていた。
「……え?」
 先輩も、涙でぐしゃぐしゃの顔をぬぐうこともせずに呆然とそれを眺めていた。眼鏡は割れて床に落ちている。
「ま――麻酔を、先輩!」
 渥美が我に返ったように叫んだ。先輩は転げるようにして実験室の奥に走り、ひしゃげて扉が開きっぱなしになった冷蔵庫からケタミンのシリンジを抜いて戻ってきた。
「俺、押さえてます」
「わ――わかった」
 先輩は震える手で腰あたりに注射器を突き立てた。一瞬、ぎろりと目を向けた首長猫は、そのままぐったりと目をつむった。
「もう一本やっときましょう。前回あれだけの量で足りなかったんだ」
 その時、操作室のドアが開き、静まり返った廊下に寛人が姿を現した。
 所属長が唖然とした面持ちで呟いた。
「柚木くん、これは……どうゆうことだ?」
「シアン化物ガスのかわりに、対地上生物用ガスを使用したんです」
 寛人は抱えていたガス置換対応真空サンプリングボックスを掲げて見せた。
 一同はますますぽかんとする。
「なんだね……その……たいちじょうせいぶつよう……?」
「対地上生物用ガスです。地上植物研究棟からお借りしてきました。まだ試作らしいんですが……」
!? どうして植物棟の連中がここで出てくる!」
 我に返ったように所属長が怒鳴った。地上生物研究所は動物研究と植物研究で棟が別れていて、その管理者同士が非常に険悪なのである。
「君は……植物棟の連中とも懇意にしてるのかね?」
「いえ――僕は見習いみたいなものですから、よく書類等の受け渡しを頼まれて植物棟に行く機会が多くて。顔見知りが多いだけです。さっき、怖くなって逃げ出したときにたまたま顔を知ってる植物棟の研究員さんと鉢合わせして、何があったのか聞かれて。そしたら貸してくれたんです」
 嘘をつけ――渥美は寛人を見据えた。
 あの時寛人は逃げたのではないのだろう。植物棟に、このガスを借りに行ったのだ。そもそもよほどの信頼関係を築いていなければ大事な研究成果をぱっと渡してくれるはずがない。まして敵対している動物棟所属の職員なんかに。
 渥美は寛人を睨みすえた。おとなしげな容姿にごまかされがちだが、柚木寛人はしたたかな男なのだ。
「このガスなんですが、地上生物には効くが人間には効果がなく、しかも副作用もほぼないそうです」
 所属長は探るような眼差しを寛人に向けた。
「人間には効果が出ないのに……? そんな都合の良いものがあるのかね」
「キウイですよ」
 キウイ、と所属長は鸚鵡返しをする。
「はい。本当はマタタビが欲しかったんですけど、そんなもんないって言われて。キウイは戦前に愛媛県などで栽培されてて、種などのサンプルも地下都市に持ち込まれているので、マタタビの代用品として猫科の地上生物に効果があるものとして研究されてるんです」
「確かに猫にまたたびとは聞くが――キウイがマタタビのかわりになんかなるのか?」
「なります。キウイはマタタビ科マタタビ属ですから。猫を陶酔させる特異成分のマタタビラクトンは、ネペタラクトン、イリドミルメシン、イソイリドミルメシンなどの混合物で、それらはキウイの木の根や葉などには含まれているんです。確かにマタタビに比べれば微量しか含まれていませんが、こちらのガスは対地上生物用に抽出して濃縮し、効能をあげてあります」
「……なるほど。植物棟やつらは製薬の分野にも手を広げてるのか……あなどれんな」
 所属長は首もとの汗を拭った。ハンカチはすでに絞れば滴りそうなほど濡れそぼっている。
「――で、をどうするのかね。まだ生きてるんだろう」
 所属長は首長猫に目を向けた。渥美は疲労感の滲んだ声音で答える。
「ペントバルビタールの致死量を腹腔内に投与します。解剖は……後日、部局の許可が取れ次第、実施します」
 その時、呆けたようにへたり込んでいた先輩が唐突に立ちあがった。
 あっという間に消火器とチャッカマンをつかみ上げ、寝息をたてている首長猫に向かってグリップを握った。発射口から火炎が噴きだし、猫の身体は瞬く間に炎に包まれた。
 渥美は先輩に駆け寄り、消火器をひったくった。
「何してんすか! もう危険はないだろうが!」
「薬なんかで楽に死なせるか‼︎ 柴田を喰ったんだぞこいつは!! 生きながら柴田は……痛かっただろう。苦しかっただろう……」
 歯を食いしばって涙を流す先輩を、渥美は力なく見つめた。
 スプリンクラーが再稼働し、水飛沫みずしぶきが驟雨のごとく二人の男を打ちつけた。
「出ましょう。風邪ひいちまう」
 渥美は割れた眼鏡を拾い上げると、まだ涙を流している先輩の肩に手を置いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

👨一人用声劇台本「寝落ち通話」

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
彼女のツイートを心配になった彼氏は彼女に電話をする。 続編「遊園地デート」もあり。 ジャンル:恋愛 所要時間:5分以内 男性一人用の声劇台本になります。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...