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うろこ道

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第六章 地上調査

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 軽くでも食事をとろう――河野の一言で、休憩となった。
 だが、もくもくと完全食バーを口に運んでいるのは斎藤だけだった。指示した河野でさえ、苔に覆われた柱にもたれて、厳しい顔で目をつむっている。
 具合が悪いときに無理に食べることはない――寛人はそっと立ち上がると、シャーレを洗浄するために外に出た。
 構内が薄暗かったせいか、その眩しさに目を眇める。
 寛人はアスファルトから外れた草地にしゃがみ込み、シャーレをアルコールで除菌した。その時、ふいに下草を踏みしだく足音が近づいてきた。
「おい、柚木――」
 顔を上げると、渥美が見下ろしていた。
「何が絶対に治るだよ。お前、寄生虫の標本採取だけで、医療行為はやってねえだろ」
「プラジカンテルの治療法は本当だよ」
 シャーレを金属ケースにしまいながら、寛人は渥美を見上げた。
「正直に言えとでも? 研究所に運ばれてきた罹患者は、寄生生物のサンプルを採取するだけですぐに陰圧アイソレーターに戻されて、どこに連れて行かれるかわからないって」
 採血または採尿によるサンプル回収後、彼らがどこでどんな治療を受けているのか寛人は知らなかった。――そもそも治療などちゃんと受けさせてもらっているのか。
 下級労働者である地上調査隊員は、使い捨てなのだ。
「……嘘をつくなんて今回に限ったことじゃないよ。白井さんが本当は亡くなったことだって、僕は――」
 いいんだよ、と渥美は強い語調で言った。
「本当のことなんか、言う必要ねえよ。それはぜんぶついていい嘘だ。……お前は本当によくやってるよ」
 俺は役立たずだ――そう言って俯く渥美を、寛人は意外そうに見やった。問い詰めに来たのではないのだろうか。
「……どうしたの急に」
「俺は、お前に地上に連れてきてもらったのに、何の役にも立ってない」
 渥美は唇を噛んだ。
 寛人は渥美を見つめ、少し考えると言った。
「乾さん、渥美と話すの楽しそうだから、乾さんの免疫を上げるのに貢献してると思うけどな」
 思わぬ事を言われ、渥美はぽかんと寛人を見つめた。その顔を、寛人は見据えた。
「そんなことより渥美、食事はちゃんとったのか? 乾さんを抱えてまた山道を登らなきゃならないんだから、ちゃんと食べて休まないと」
 僕にはできないから、と寛人は呟くように言った。
 二人は倒木の幹に座り、完全食バーをかじった。
「なあ、柚木。どうして乾さんに対して、河野さんはあんなに症状が軽いんだろうな?」
「体力の違いじゃないかな。警察官だから鍛えてるんだろうし。年齢も乾さんより若いから」
 そう言いながら、寛人は足元に視線を落とした。
(そもそも文献によれば、住血吸虫症がこんなふうに感染直後すぐに症状が出ることはないはずなんだ……)
 戦前の資料によれば、症状が出はじめるのは四週間あるいはそれ以上経ってからと記されている。
 だが、現在の地上に広がっている住血吸虫症は恐ろしく発症が早かった。初期症状は一時間以内に出現するのが普通だった。そして、地上から地下都市に戻ってきた段階ですでに重症化しているケースがほとんどだった。ほんの数日の間に、全身の血管内は虫卵が飽和状態になり、もう取り返しのつかない状態になっているのだ。
(大きさや形状だけでなく、成長速度も繁殖速度も戦前のものすいぶん異なってる。まるで別種だ)
 住血吸虫が、大戦前の従来のものから大きく変異を起こしているのは間違いなかった。
「……地上じゃあ対症療法すら難しいもんな。せめて安全なところを見つけて、河野さんと乾さんを休ませねえと」
 安全なところなんて、この地上のどこに存在するのだ。
 寛人はぐっとこぶしを握り――あっと目を見開いた。
「河野さんと乾さん……治療できるかもしれない」
 渥美は驚いたように顔を上げた。寛人はそれを見返す。
「ほら――ドームだよ。は薬学者だ。新型住血吸虫症が広がってる地上に長年住んでいながら、治療薬を準備していないはずがない。自分だって感染のリスクがあるんだから」
 地下都市に無事に戻れたとしても、公務員の河野はともかく、乾はちゃんとした治療を受けさせてもらえるかはわからない。ならばドームで確実に治療をしてから地下都市に戻すべきだろう。
「何としてもドームを見つけねえとな……」
 渥美は残りの完全食バーを口に放り込むと、ふいに寛人に目を向けた。
「柚木はドームを見つけたら、本当に柚木竹流を殺すのか? 自分のじいさんだろ?」
「当り前だよ。僕たちはそのために来たんじゃないか」
 渥美は、寛人の揺るぎなさに気圧けおされたように黙した。
「……柚木、俺は――」
 渥美がはっとしたように言葉を切った。寛人は渥美の視線の先を見やり、目をみはった。
 長い首が茂みの中から顔を出していた。全身を覆ううろこは金属質の緑色をしている。
「……蛇だ」
 寛人は息を飲む。蛇は旺盛な肉食生物で、毒を持つものも多い危険生物だ。しかも目の前にいるのは、見上げるほどの大蛇だった。
「いや――蛇じゃなくて齧歯げっし類じゃねえか? あの歯を見てみろよ。のみみてえな形をしてるだろ」
 齧歯類――鼠や栗鼠りすなどの哺乳類である。確かにぱっくり左右にひらいた口からは板のような一枚歯が覗いていた。だが、口の隙間から垂れ下がった舌はぬるりと細長く、先が二股に割れている。寛人には蛇にしか見えなかった。
 その齧歯類とも蛇ともつかぬ地上生物は、シュウシュウと奇妙な音を発しながら、長い首をくねらせてこちらの様子を窺っていた。
「齧歯類はたいてい草食か雑食だから、俺たちを食おうとしているわけじゃなくて縄張りに入ったから警戒してるだけだと思うぜ。ほら、周りに木屑や木っ端がたくさん落ちてるだろ。おとなしく退散すれば襲ってこねえよ」
 鼠の一種と決めて疑わない渥美は、まったく緊張感のない様子でその地上生物に見入った。
「……可愛いな。目がつぶらで」
 これのどこが可愛いのか――寛人は蛇鼠から目を離さず、ゆっくりと腰を上げた。
 その時、繁みから長い首がもう一本にゅうと現れた。
 寛人はぎょっとする。
 渥美は――おっ、と身を乗り出した。
「仲間がいたのか。色が全然違うんだなあ」
 形状はほぼ同じであったが、先に現れた方が翡翠のごとく輝かしい緑色をしているのに対し、後から現れた方はくすんだ赤茶色の体色をしていた。体長も、緑色のほうより一回り大きい。
「あの二匹はつがいじゃねえかな。多分あの緑のやつがオスで、でかい茶色の方がメスだ」
「大きいほうが雌なんだ……」
「生物界ではザラにあることだろ」
 興味深げに渥美が一歩近づいた。
 緑色のほうが警戒したように頭を低め――藪から大きく翼が立ち上がった。
(蛇でも鼠でもない――鳥だ)
 その迫力に、寛人は思わず後退りした。
 緑色の鳥は金属質の翼をばさばさとはためかせ、藪を飛び越えた。続いて大きい茶色の方も羽ばたいて雄の隣に着地する。
 鎌首をもたげている翠色のオスとは対照的に、メスは人間には関心がないようだった。茶色の鱗に覆われたまるい顔を左右に振りながら、周囲をうろうろしている。
「……何やってんだ?」
 茶色の雌鳥は一本の巨木に目を付けると、翼の先に生えた鋭い鉤爪を幹に食い込ませた。そのまま幹にかぶりつき、大きな歯で力任せに樹皮をばりばりと引き剥がした。
 幹の中は空洞で、暗い穴から大量の細長い生き物がにょろにょろと這い出してきた。それは全身オレンジ色の体毛に包まれ、短い四肢を持ち、その先に鼠によく似た頭部と三叉の尻尾がついていた。
 ぞろぞろと這い逃げていくそれを、茶色と緑色の巨鳥は細長い舌で絡め取っては飲み込んでいった。
「渥美……あれ、草食じゃないよ……」
 おこぼれに与ろうと大小の地上生物がどこからともなく現れ、うねうねと逃げるオレンジ色の生き物を片端から貪り始めた。静かだった高尾山駅周辺は、あっというまにわけのわからない生物でいっぱいになった。
 不意に茶色の雌が首を擡げ、緑色の雄に歯を突きたてた。驚いて飛び退すさったオスに、雌はクオックオッと鋭い鳴き声を雄にぶつけ、今度は渥美たちに向って同じ鳴き声を発した。
 雄は首を縮め、食べるのをやめて顔を上げた。
 渥美は「ははっ」と乾いた声で笑った。
「……獲物を取って来いってか。鳥のくせに尻に敷かれてやがる」
 雄鳥はこっちを見据え、ひとつ身震いをすると翼を大きく広げた。見上げんばかりの翡翠の翼は、緋色や金の紋が無数に入り、眩しいほどだった。
 渥美は思わずその美しさに見惚みとれた。自分を喰い殺さんとしている相手だというのに――。
 ふいに腕を引っ張られ、渥美は我に返った。
「駅に戻ろう。逃げるんだ」
「それは駄目だ。こいつも一緒に連れて行くことになるだろ。そしたら真っ先に狙われるのは、弱ってる乾さんと河野さんだ」
 渥美の言葉に、寛人はぐっと歯を食いしばった。
「ここは俺が引きとめるから、柚木は駅に戻れ」
「……君一人残して行くなんて、できないよ」
「斎藤さんを呼んできてくれ」
 寛人は、あっと渥美を見た。
「急げよ。俺が喰われる前に……頼んだからな」
 寛人はきびすを返し、でこぼこのアスファルトを駆けた。
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