釣りが繋ぐ絆

むちむちボディ

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静寂の中

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 まだ日も昇りきらない、午前五時すぎ。
 港町の空は、曇ったガラスのように淡く濁っていて、空気には潮の匂いと、昨日の夜を引きずったような湿気が残っていた。

 村瀬秀昭は、どっこいしょとひとつ声をもらしながら、防波堤の縁に腰を下ろす。
 98キロの体を慎重に沈め、長年使っている青い折りたたみ椅子に重心を預ける。
 少し冷たいコンクリートの気配が尻にじわじわと伝わってきて、それを受け止めながら鼻からゆっくりと息を吐いた。

 この港に通いはじめて三年目になる。
 最初はただの気晴らしだった。
 市役所のデスクワークに追われ、PC画面と会話のない紙仕事の往復に辟易していた頃、
 ふとテレビで見た“海釣り”という響きに何か惹かれるものを感じた。
 決して上手くはない。
 竿もリールも、型落ちの安物ばかりだ。
 だが、それでも海に背中を見せているより、こうして潮風を真正面から浴びているほうが、気が休まる気がした。

 椅子の横にリュックを下ろし、中からタックルケースを取り出す。
 餌は昨夜、スーパーで買った冷凍イカと、残り物のサバの切り身。
 針に通しながら、ふと自分の指がやけに丸く、太くなっていることに気づく。


 (太ったな……)


 昔は、こんなふうに針穴に指が引っかかるようなことはなかった。
 腹も、胸も、首周りも厚くなった。
 50が見えてくる頃には、身体はだんだんと「自分の道具」というより「重し」のようになってくる。

 竿を構え、仕掛けを投げ込む。
 波の静かな音と、遠くで鳴くカモメの声。
 風は弱い。だが、肌にまとわりつくようにぬるい。
 呼吸を整え、瞼を半分だけ閉じると、少しずつ思考が抜け落ちていく感覚がある。
 思えば、この時間が欲しかったのだ。
 誰にも話しかけられず、誰にも干渉されない静けさ。
 ただ、自分の体重と、空の色と、海の音だけに囲まれる時間。



 ふと、微かな気配が左から流れてきた。

 カサッ、と砂利を踏む音。
 重たい荷物を下ろす低い音。
 そこに、誰かが“腰を下ろす”動作――
 肉の重みでコンクリートが軋むような、鈍い接地の感覚。

 秀昭はちらりとだけ横を見た。
 そこには、一言も声を発せずに黙って釣り竿を組み立てている男がいた。

 大きい――というのが、第一印象だった。
 体躯は明らかに百キロを超えている。
 肩幅が広く、袖の端から覗く腕は、ごつごつした筋肉に脂肪が乗ったような厚みがあった。
 首元にまわされたタオルが、汗ではなく“体熱”を吸っているのがわかる。
 顔は、無精髭とサングラスの奥に隠れているが、
 うつむいて糸を結ぶ姿勢に、妙な落ち着きがある。


 (……慣れてるな)


 そう思った。
 無駄のない動き。
 指先がぶれず、道具を触るときに“音を出さない”あの感覚。
 釣りという行為を、誰かに見せるためではなく、“ただ黙って続けている”タイプの男だ。

 男は秀昭に目をやるでもなく、ゆっくりと仕掛けを投げ入れた。
 そのフォームにも力みはなく、ただ“何度も繰り返してきた人間の自然な動作”があった。

 結局、その朝は二人ともひと言も交わさなかった。
 だが、不思議なことに、秀昭は不快でも緊張でもなかった。
 むしろ、隣に誰かがいて、黙って同じ方向を見ている
 ――その静けさが、妙に心地よかった。

 釣果はなかった。
 ただ、何かが、海の底でゆっくり動き始めた気がした。

 

 次の週も、その男はいた。
 また黙って、秀昭の左隣に腰を下ろした。
 同じように仕掛けを用意し、同じように潮風の中に糸を垂らす。

 そしてその次の週、少しだけ距離が縮まった。

 

 仕掛けを巻き戻す途中で、ウキが引っ掛かり、ラインがもつれた。
 何度か引っ張ってみたが、糸はぐしゃぐしゃに絡み、手ではほどけそうにない。


 「……面倒なことに、なったな……」


 ひとりごとのように呟いた瞬間、低くくぐもった声が返ってきた。


 「貸せよ」


 声の主は、もちろん隣の男だった。
 彼は自分の釣竿を脇に置き、ずっしりとした体をゆっくり前に倒して、秀昭の仕掛けを受け取った。


 「こういうのは、無理に引っ張ると割ける。…ここ、爪で引っ掛けるだけでいい……」


 太く節くれだった指が、やさしく絡まった糸をたぐる。
 その手がすぐそばにある。
 タバコと潮風の混じった匂い。
 指と指が、ほんの一瞬、触れた。


 (……あったかい)


 秀昭の喉の奥で、何かがこくりと動いた。

 

 男は糸を直し終えると、何も言わずに道具を返した。
 秀昭は、


 「ありがとうございます。」


とだけ口にしたが、男は頷いただけだった。


 それでも、次の週には缶コーヒーが置かれていた。
 釣り竿を構えながら、男がぼそっと言った。


 「甘いのか、微糖か?」

 「……甘いの、好きです。」

 「ふうん……」


 それだけの会話。
 けれどその日、海が少しあたたかく見えた。

 
 ふたりは名前も知らぬまま、毎週の朝を並んで過ごすようになる。
 隣に座るたび、コンクリートが少しだけ深く沈んでいくような錯覚。
 沈黙が、ふたりを分ける壁ではなく、
 むしろ“お互いを包む幕”になっていくようだった。
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