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第一章
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相手は天下の将軍様お目見えの御旗本ご縁の方である。失敗があればそれなりのお咎めもあり得ないことでは無い。
嘉助が出向いていたのであれば、家構えを見てとっさに機転を利かせてそれなりの店の名前でも出したであろうが、教えた通りの言上を述べた番頭を責める訳にもいかない。次善の策を、と頭を悩ましている佐伯屋の店表に中間らしきなりをした老爺が文を持って来たのが次の日の朝。そこには誘いの通りに屋敷に伺うと、無骨だが若い割には味のある文字で洋之進の名が書かれていた。
こうなっては最早言を覆す訳にはいかぬ。後は三十郎と洋之進がお園の言うとおりの人柄であることを祈るばかりである。
「分かりました、私からもう一度話をしましょう」
嘉助の妻おりんは奥の間で繕い物をしていたが良人が出向くと心配そうに顔を見上げてきた。嘉助より一回り若いおりんは四十を三つほど出ているが、子を成さなかったせいか肌目美しく、肉置《ししお》きも細く傍目には三十そこそこにしか見え無い。
藍染町の木綿問屋、綿成屋の主人、定介の次女で若い頃は姉のお花と二人して藍染の姉妹小町と呼ばれる程の器量よしだったが、今その端正な顔は曇っている。その前にゆったりと胡坐をかくと努めて明るい声をかけた。
「どうしたね、平助が何やら心配していたようだが」
「明後日の事でございます。やはり何処か気の利いた料理茶屋をお使いになりませんか。高野の宝楽亭や下谷のとと屋なら、佐伯の名を出せば今からでも何とかなりましょう」
おりんは嘉助が商い上の宴席を設ける時によく利用する店の名を上げた。
どちらも市井で出されている、料理屋番付けにも行司として載っている店だ。横綱番付で江戸随一とされる八尾善には及ばないが、先ずは一流の店と言って憚らない。旗本のお殿様を呼ぶにも合い相応しい店だ。
このような店は格式や料理は言うに及ばず、下は下足番から上は主人に至るまで店の者が身分のある人物の扱いに慣れているから粗相の心配が無い。
これが商家の我が家ならば、何処で礼を失したり機嫌を損ねてしまうか分からなかった。人と人の繋がりは思わぬ所までその枝葉を広げている。今日の一つの粗相が明日の商売に十の仇となって還ってくるのは商人にとって常識以前の問題であった。だからおりんの言うことは至極真っ当なのだ。
「お前の気欝も分かるが、こちらからお誘いして、もうお応えも貰ってしまっているのだよ。今更変えるわけにはいかないだろう。それに鯛の尾頭を刺身に造って持ってきて貰うように宝楽亭には頼んである。後は煮物、吸い物、焼き物だが、家の料理番の戸の次は中々の腕だし、お前やお園も包丁上手ではないですか」
嘉助は宥《なだ》めるように優しい口調で妻を諭した。
もう一人の三十郎の方は、その後気の利く手代を使って御家人であることを確かめてある。しかし、御家人はともかく、旗本の家の者ならせめて袴くらいは着ていて欲しかったものだ。この寒さに草履履きに袷《あわせ》の着物、単衣《ひとえ》の綿羽織では貧乏とは言わぬが絡んできた不逞浪人とあまり変わらぬ姿ではないか。
商いを長くやっていると相手の恰好を見て身分を判断する癖がどうしてもついてしまう。今回はそれが裏目に出てしまった。
「まあ、何とかなるのではと思っていますがね、私は」
身分はともかく、これでも商人、人となりは見る目があるつもりだ。努めて明るく言うと、おりんは溜息をついた。
「お園と一緒のことをおっしゃいますのね。」
「お園?」
「はい。あの子も、あのお二方は身分を鼻にかけるような方では無いので、きっと我が家の心を汲んで頂けるはず、と言っておりました」
「あの子も人となりは分かるのであろうかな。だがこの度は何時になく聞き分けが悪く困りましたよ。お陰様でこんな事にあいなりましたしね」
「お困りがそれだけで済めばよう御座いましょうが」
それだけ言うとまたため息を吐く。嘉助には妻の言う意味が分からず、問いただそうとしたが、丁度そこへ手代の一人が取引先からの来客を伝えに小走りでやって来て、話しはそこまでとなった。
「明日は宝楽亭の番頭さんが訪ねてくれる様に手配してありますのでお話を聞いておいてくださいよ」
武家と商家では決まり事も風習も違う。完全とは言えないにしても両者の齟齬を出来るだけ少なくして粗相を無くす為に、武家の接待にも経験の多い料理茶屋の番頭を一人、事前に招いて主人はじめ家の者や女中も教えを乞うことになっていた。嘉助は大きく溜息を吐くと店の表へと渡り廊下を急いだ。
それからも次の日も、商いでの来客や用事が引きも切らず、あっという間に約定の日がやって来た。中座をせずともよい様に前もって商いの一切を番頭の伝介に任せ、朝のうちから何かと騒ぐ心を落ち着けながら待つこと暫し、午の刻の少し前に二人がやって来た。
嘉助が出向いていたのであれば、家構えを見てとっさに機転を利かせてそれなりの店の名前でも出したであろうが、教えた通りの言上を述べた番頭を責める訳にもいかない。次善の策を、と頭を悩ましている佐伯屋の店表に中間らしきなりをした老爺が文を持って来たのが次の日の朝。そこには誘いの通りに屋敷に伺うと、無骨だが若い割には味のある文字で洋之進の名が書かれていた。
こうなっては最早言を覆す訳にはいかぬ。後は三十郎と洋之進がお園の言うとおりの人柄であることを祈るばかりである。
「分かりました、私からもう一度話をしましょう」
嘉助の妻おりんは奥の間で繕い物をしていたが良人が出向くと心配そうに顔を見上げてきた。嘉助より一回り若いおりんは四十を三つほど出ているが、子を成さなかったせいか肌目美しく、肉置《ししお》きも細く傍目には三十そこそこにしか見え無い。
藍染町の木綿問屋、綿成屋の主人、定介の次女で若い頃は姉のお花と二人して藍染の姉妹小町と呼ばれる程の器量よしだったが、今その端正な顔は曇っている。その前にゆったりと胡坐をかくと努めて明るい声をかけた。
「どうしたね、平助が何やら心配していたようだが」
「明後日の事でございます。やはり何処か気の利いた料理茶屋をお使いになりませんか。高野の宝楽亭や下谷のとと屋なら、佐伯の名を出せば今からでも何とかなりましょう」
おりんは嘉助が商い上の宴席を設ける時によく利用する店の名を上げた。
どちらも市井で出されている、料理屋番付けにも行司として載っている店だ。横綱番付で江戸随一とされる八尾善には及ばないが、先ずは一流の店と言って憚らない。旗本のお殿様を呼ぶにも合い相応しい店だ。
このような店は格式や料理は言うに及ばず、下は下足番から上は主人に至るまで店の者が身分のある人物の扱いに慣れているから粗相の心配が無い。
これが商家の我が家ならば、何処で礼を失したり機嫌を損ねてしまうか分からなかった。人と人の繋がりは思わぬ所までその枝葉を広げている。今日の一つの粗相が明日の商売に十の仇となって還ってくるのは商人にとって常識以前の問題であった。だからおりんの言うことは至極真っ当なのだ。
「お前の気欝も分かるが、こちらからお誘いして、もうお応えも貰ってしまっているのだよ。今更変えるわけにはいかないだろう。それに鯛の尾頭を刺身に造って持ってきて貰うように宝楽亭には頼んである。後は煮物、吸い物、焼き物だが、家の料理番の戸の次は中々の腕だし、お前やお園も包丁上手ではないですか」
嘉助は宥《なだ》めるように優しい口調で妻を諭した。
もう一人の三十郎の方は、その後気の利く手代を使って御家人であることを確かめてある。しかし、御家人はともかく、旗本の家の者ならせめて袴くらいは着ていて欲しかったものだ。この寒さに草履履きに袷《あわせ》の着物、単衣《ひとえ》の綿羽織では貧乏とは言わぬが絡んできた不逞浪人とあまり変わらぬ姿ではないか。
商いを長くやっていると相手の恰好を見て身分を判断する癖がどうしてもついてしまう。今回はそれが裏目に出てしまった。
「まあ、何とかなるのではと思っていますがね、私は」
身分はともかく、これでも商人、人となりは見る目があるつもりだ。努めて明るく言うと、おりんは溜息をついた。
「お園と一緒のことをおっしゃいますのね。」
「お園?」
「はい。あの子も、あのお二方は身分を鼻にかけるような方では無いので、きっと我が家の心を汲んで頂けるはず、と言っておりました」
「あの子も人となりは分かるのであろうかな。だがこの度は何時になく聞き分けが悪く困りましたよ。お陰様でこんな事にあいなりましたしね」
「お困りがそれだけで済めばよう御座いましょうが」
それだけ言うとまたため息を吐く。嘉助には妻の言う意味が分からず、問いただそうとしたが、丁度そこへ手代の一人が取引先からの来客を伝えに小走りでやって来て、話しはそこまでとなった。
「明日は宝楽亭の番頭さんが訪ねてくれる様に手配してありますのでお話を聞いておいてくださいよ」
武家と商家では決まり事も風習も違う。完全とは言えないにしても両者の齟齬を出来るだけ少なくして粗相を無くす為に、武家の接待にも経験の多い料理茶屋の番頭を一人、事前に招いて主人はじめ家の者や女中も教えを乞うことになっていた。嘉助は大きく溜息を吐くと店の表へと渡り廊下を急いだ。
それからも次の日も、商いでの来客や用事が引きも切らず、あっという間に約定の日がやって来た。中座をせずともよい様に前もって商いの一切を番頭の伝介に任せ、朝のうちから何かと騒ぐ心を落ち着けながら待つこと暫し、午の刻の少し前に二人がやって来た。
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