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09.
しおりを挟む「彰はなんでそんな沙耶子のこと甘やかすん?!
沙耶子が起きるまで、
あんたは降りてこなくていいからね!」
「香代子、んな大声出して、
あんたの娘が起きんのが悪いんやんか」
怒鳴り声が、食卓に響く。
「ご飯も煙草もなし!
さっさと起こしてきなさい!」
「……はいはい」
彰は不機嫌そうに応じると、渋々立ち上がった。
「ったく、俺までガキ扱いかいな、ほんま……」
二階の部屋に戻ると、
沙耶子はまだ布団に埋もれていた。
「おい、沙耶子」
何度目かの声掛け。
肩を軽く揺するが、
微かに身じろぎしただけで起きる気配はない。
「ええ加減にせえよ……」
ため息混じりに、もう一度揺さぶろうとした瞬間
沙耶子の手が、ふいに彰の手を掴んだ。
「……ん……やだ……」
「……は?」
「……行かないで……」
寝ぼけた声が、布団の奥から零れる。
彰は思わず息を呑んだ。
さっきまで冷えていた手のひらに、
彼女の温もりがじわりと滲みる。
───こんなの、聞かせるな。
そんな甘えた声で、俺を呼ぶな。
「お前な……」
軽く振り払おうとするが、
思いのほか強く握りしめてくる。
「……もうちょっと……そばにいて……」
───あかんやろ。
頭では分かっていた。
理性が、冷静な判断を下そうとしていた。
けれど───
彰は沙耶子の手を振り払わなかった。
代わりに、その手をゆっくりと握り返す。
「……ほんま、お前は……」
呆れたように呟きながら、沙耶子の髪を撫でた。
細くて柔らかい髪の毛が、指の間をすり抜けていく。
「……なあ、沙耶子」
彼女の頬にかかった髪を、そっと耳にかける。
「俺が誰か……わかって言うとんのか?」
沙耶子は、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……あきら?」
掠れた声で、夢の中のように名前を呼ぶ。
その無防備な仕草に、
腹の奥が妙に熱を持つのを感じた。
「……お前、ほんまに……無自覚やな」
彰は、彼女の手を引いた。
布団の中に沈む華奢な身体が、
自分の方へと近づいてくる。
沙耶子の顔が、すぐ目の前にあった。
触れたら終わる。
そんなことは分かっている。
分かっているのに───
「……起きろ」
低い声で囁きながら、指先でそっと頬を撫でる。
沙耶子の唇が、かすかに開いた。
「……もうちょっとだけ……」
「……もうちょっとって……何がや」
微かに震える指が、彼女の唇の端に触れそうになる。
その瞬間、階下から再び香代子の怒鳴り声が響いた。
「沙耶子ー!! いい加減に起きなさい!!」
彰は、弾かれたように手を引く。
「……あほくさ」
乱れた呼吸を整えながら、ベッドから立ち上がる。
「……起きろ、沙耶子」
もう一度呼びかけるが、彼女はピクリとも動かない。
本当に寝てるのか、それとも───
さっきまであんなにしがみついていたのに。
あんな声で俺を呼んでいたのに。
今はまるで、何もなかったかのように静かだ。
「……お前、ほんまに……」
ふと、沙耶子の耳元に手を伸ばす。
ゆるくかかった髪を払って、指先でそっと触れる。
「……起きとるんちゃうんか」
そう囁くと、微かに肩が震えた。
やっぱり。
「沙耶子」
もう一度名前を呼ぶと、今度は僅かに瞼が動く。
それでも、彼女は目を開けようとしない。
「……起きへんのか」
静かに問いかけると、
布団の中で小さく息を呑む気配がした。
指先で頬に触れる。
「……そんなんするから、
起こしたくなくなるんやろが」
低く、抑えた声で告げると
沙耶子は、ゆっくりと目を開けた。
「……ん」
眠たげな瞳が、ぼんやりと彰を見つめる。
「……今、なんか言った?」
「ずーっと言うとるやろ」
彰は薄く笑って、彼女の頬から手を離した。
「はよ起きろ」
そう言って立ち上がると、
今度は沙耶子が彰の手を掴んだ。
「……なあ」
「なんや」
「ほんまに、なんもなかった?」
その問いに、彰は一瞬だけ沈黙した。
「……お前が覚えとることが、答えや」
それだけ言って、手を振りほどく。
「下で待っとる」
背を向けて部屋を出た。
足音が階段を降りていくのを、
沙耶子はただ黙って聞いていた。
本当に、何もなかったんだろうか。
残る温もりを確かめるように、
そっと自分の頬に触れる。
胸の奥でざわめく感情の正体が、
まだ分からなかった。
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