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親ができること
しおりを挟む養育義務遂行施設は刑務所ではない。養育費未払は実質、育児放棄で、刑法218条保護責任者遺棄にあたるが、養育費未払による差し押さえは民事執行法の範疇だ。親と子が、飢えることなく、金銭面での理由で選択肢が狭まることなく、豊かに、健やかに暮らすことを支える施設だ。だから施設に勤める職員を「監視官」「経理官」「担当官」と呼んだり名乗ったりすることには語弊がある。担当官は役所から出向された職員が多いから公務員には違いなく、民間派遣されたものも試験を受ければ正規雇用として地方公務員になれる。相澤担当官も産休中に取得した。「官」という字は役人の他にも、特殊な役目を果たすものという意味もあるから、まったく辻褄が合っていないわけでもない。
ただ「施設長」たる藤原矯正官は、特に担当官に対して、刑務所の長を意味する「矯正官」という呼び方を強いる。一度、担当官がうっかり呼び間違えてぼろを出してしまいますよ、と柔らかく注意したことがある。
最高経営責任者とCEOの違いみたいなものだよ。君たち担当官は正式な役職名でここを取り仕切っている。なら私も官のつく役職名で呼ばれるべきだと思うんだ。憧れじゃない、尻たたきだ。そういう意味で持ってそういう意識でこの職に臨むべきだと現場を知っている君たちに尻を叩いてもらっているんだ。
黒地にピンクがかった銀のライン入りのネクタイをぎゅっと絞め、刑務官時代の名残で仕事用に選んだビジネスシューズに見える安全靴でなく、本革の靴を履く。軽い、と思った。勤務外出中に持つタブレットを抜いた鞄と同じくらいだ。そう思うと自分の仕事は施設内の勤務外持ち出し禁止タブレットが要なのだな、と改めて思う。
「おはよう、エコー」
《おはようございます、今里光司管理官。Pカード、声紋、チップを認証しました》
武邑叶(たけむらかな)の奇襲事件について、まだ現在の入所者は知らない。だが、いずれ注意喚起として現在いる者にも今後入ってくる者にも伝えなくてはいけない。養育費の差し押さえ口座には申請した勤務先からの入金しか受けつけられないこと、だから必ず副業から得た収入は養育費差し押さえ口座に入れること、その半分は自分のものだから、子どものためにも自分のためにもいいことなのだ、と。堅実に養育費を稼いでいれば、悪いことは起きないぞ、と。
でも、堅実に勉学に臨んでいた武邑叶が点数以外の理由で希望校に落ちて、ナイフを持つまでに至ったのは、その「良いことをした人には良い結果が、悪い事をした人には悪い結果がもたらされる」という公正世界仮説的注意喚起と、矛盾している。
昔、未成年ばりに若い女が、女手一つで幼い息子を育てなくてはいけないために、体を売ろうとした。それは紛れもなく売春だ。刑法である売春防止法に該当する。その女が人を見る目がなく、制度に対する知識がなかったとしても、罰しようと思えば罰せられる
不法行為。子どもを育てるために親がとった苦渋の策を、今、親権者側でなく、逃げたほうが行おうとしている。子どもからも責任からも逃げて自分勝手に生きる人間を諫めるための施設だが、不法行為の役者が代わっただけで、そういう苦渋の策がなくなったわけではない。
《藤原矯正官がお待ちです。私物及びデバイスを持って矯正官室へ移動してください》
「おはようございます。矯正官」
「おはよう、目一杯のお気に入りでのおしゃれがそれかな。めいちゃんか楓さんの趣味かい」
「合わせを意識しましたので、少々地味にはなりました」
「ああ、でも靴はいいのを履いている。じゃ、今日は晴れているし、少し歩こう。ここから徒歩で着く」
心とは裏腹な軽い足取りに落ち着かない。藤原矯正官は鍛えているだけあって、しっかりした歩調で前を歩く。
「まだぐらついているみたいだね。見ればわかるよ」
ぐらついている。そうかもしれない。家族と接している分はまだ平気だが、外部の、虐待致死のニュースなどが目に飛び込んできた瞬間、急カーブをかけた車の助手席に乗っているような気分になる。
「慣れない靴なもので、家に帰ったときには靴擦れを起こしているかもしれません」
そういう意味のぐらつきではないとわかっていながら、あえてそう返す。
「浦島担当官はいずれ戻るとして、まだ相澤担当官は心許ないですか」
「以前にも言った通り、男も女も皆弱い。相澤君は取っ組み合いになったとき君みたいに応戦できないからさ。かといって小さな子をもつ彼女に『今から武道を学んで来い』とは言いにくい。浦島君の次に入ってくる子もどうなるか。次は君みたいに新米刑務官から引き抜こう。男の子を持った武道区分がいいな」
まるで来週に食べるクレープの味を思い浮かべてる女学生のようだ。
「はじめてあなたにお会いした時のことを思い出しました。あのときどうして、多くの刑務官から自分を引き抜いたんですか。妻と娘がいたからでしょうか」
「懐かしいね。でも、楓さんやめいちゃんが君のそばにいなくても、私は君を引き抜いただろう。まだ刑務所に染まり切っていなかったからね。あそこは刑法に基づいた施設だから、その尺度をまだ持ち合わせない人間が欲しかった。養育義務遂行制度は民事不介入の家庭に切り込む制度だからさ」
「私は、不幸だったことがないように、見えましたか」
「なんだ、わかっているし、憶えているじゃないか。実際そうだろう」
飢えたことも、親から暴言・暴力を振るわれ続けたこともない。飢えること、理不尽な暴言・暴力に苛まれることが不幸というなら、自分が不幸なことはなかった。胃腸炎で修学旅行に行けなかったこと、部活のレギュラー落ちや敗北、意中の女の子に好意を返してもらえなかったことはただの躓きだ。
「確かに私は賢くもないし甲斐性もありませんが、それが決め手というのは理解に苦しみます」
「むくれるな。別に君の人生に深みがないとか、君が馬鹿だとかそういうことじゃない。ただ不幸であった経験があると、どうにも自分の人生と重ねたり比較したりしてしまう。導くべき場所に導けない。養育義務遂行制度は大人を度外視して子どもの幸せを第一優先に考える施策だ。そこに在りし日の不幸な担当官がいてもらっては困るんだよ」
色々な夫婦関係、親子関係をなぞってきた。そのときに感じるのはカルチャーショックと他の家庭との格差だ。自分を重ねたことはない
「あと君、女好きだろう。自覚ないだろうけど、相談者の多くは女性だから全般的に上手くやっているけど、武邑叶といい、相談者の子どもが女の子だったときと、男の子だったときで、ちょっと感情の入り方が違う。自分の子の影響と、あと妹がいるんだっけか。浦島君は逆に男の子のときだと感情が入る。浦島君が抜けたときは、相澤君と君と娘組で偏りが出るから、男の子の家庭に対して気合が入る人材がいい」
顔が熱くなる。上手くやっていると思っていた。他の担当官は自分より先輩に遠慮して経験が少ないから口にして指摘しなかっただけで、そう思っていたのかもしれない。
着いたのは立派なホテルだった。4つ星に該当するだろう。子どもとの面会においてもここは申請されたことのないホテルだ。看板を見ると最上階にレストランがあるらしい。
「わかっているとは思うけれど、私の肩書は『矯正官』ではなく『施設長』で頼むよ」
藤原矯正官は軽快な足どりでエレベーターに向かう2階のボタンを押した。
「最上階かと思った?夜景を楽しむわけでなし、内々の話ができればそれでいい」
214という部屋を3回ノックすると3回ノックが帰ってきた。
「じゃあ面会だ」
「失礼します」
そう言って開いたドアの先には、老齢の男性と目が合った。壮年の女性が奥の席でお茶を飲んでいる。老齢の男性の顔も壮年の女性の顔も自分は知っている。
「沖謙太議員?」
「こんにちは。私はもう議員じゃないよ。前線からは退いている。養育義務遂行制度に物申したいんだって?粋がいいね」
「お父さん、この方々は」
沖謙太をお父さんと呼べる女性は一人しかいない。
「沖、一華、総理大臣ですか」
「君が上申したい最高峰のお方だ。全部ぶちまけて、また仕事に再燃してくれ」
まさか。内閣総理大臣まで相まみえることになるとは。
「一華。千葉養育義務遂行施設の藤原施設長と今里担当官だ。養育義務遂行制度の現状を伝えに来てくれた。お前が視ない世界を視つめている方々だ。礼を払って学びなさい。追加の人数のお茶も持ってこさせよう」
沖謙太は足が悪いようで、そう言って杖を取り、ゆっくりと立ち上がると内線へと向かった。議員時代、テレビで観た姿より痩せたが、血色は良い。沖一華が立ち上がり、頭を下げる。
「沖一華と申します。いつもお勤めおつかれさまです。で、現状というのは」
現在、結婚が、子どもを持つことが割に合わないと言われる中、それでも愛する人を見つけ、その人と家庭を確立した人々は世間からの信頼を得やすい。結婚指輪はステータスのひとつとなった。実際は家庭を持っていないが、指輪をつけることで、そう思わせる人々を「ファッションリングフィンガー」といい、まず人々は相手の指に目を光らせる。
沖一華はパートナーや子どもを持っていないと公表している。指は指輪どころかネイルもせずにまっさらだ。ただハンドケアはしっかりしているのか爪の形は整えられ、年の割にきめ細かい。
「担当官の今里です。結論から言わせていただきますが、養育費市場は大きくなりすぎました。救済措置効果よりも養育費問題に絡んだ犯罪や、養育費の違法であこぎな稼ぎ方が増長しています。もちろん我々の説明責任もありますが、一旦制度の見直しを考えていただきたく馳せ参じた次第です」
「どうぞおかけください。----死亡者は出ましたか?」
「全国の、今年度の入所死亡者は全国で18人です。内、事故死が3名、支払の目途が立たなくなって自殺した者が15人になります。死亡者ではありませんが、子どもとの心中をはかったケースが1件あります。とはいえ割合としては外の世界より少し多いかというくらいです。また担当官が1名自殺しております」
「まだたった5年なのに、建築運営モデルがそうさせるのかしら。他には」
「養育費支払代行サービスを騙った詐欺や、規約違反事業をした者がおりまして、それで損害を受けた未成年の女性が刃物を持ち込む事案がありました」
「逃亡者はいないの?」
「おりません」
これは事実だ。全国4か所、どういう指導運営をしているのか、細部まで情報のやりとりはしていないが、逃亡者はいない。施設に入所した時点で牙を抜かれた感覚に落ちるのかもしれない。ただ宮脇のように禁じられた現金のやりとりが積み重なれば、拘束具も金に物を言わせて取り除けるし、チップも摘出できるだろう。
「外に出しているのに奇跡ですね」
「外出用の拘束具と体内チップが功を奏しています。悪質性の高い入所者に外出労働は認めないようにしています。それでもこれだけのことが目に見えて起きています。何かがずれてきているんです。このまま続けていれば『親が子どものために』という長年美談とされてきた大義のために、犯罪行為が増加することになるでしょう。無法国家にもなるかもしれない。強盗して証拠隠滅に放火や殺人まで及ぶかもしれない。困窮している子どもの傍にいる人間ではなく、養育費を迫られたもう一人の親がそうなっています。役者が代わっただけなんです」
「あなたの勤続は何年ですか?」
よく聞かれる。よそからは若造に見えるらしい。
「4年です」
「長いですね。延長申請されたの?あなたは出向された役所職員ではないのですか」
その言葉に藤原矯正官は笑った。出向された担当官で延長申請をした者など聞いたことがない
「彼は私が引き抜いた刑務官ですよ。常設の職員です。優秀で丈夫な人材です。ただ良くない案件が続き、最近調子が悪いのです」
養育義務遂行制度は裏切りから始まる。養育義務遂行施設において良い案件があるとするなら出所と、施設内販売で美味しいメニューが追加されたときだけだ。
そのときドアがノックされ、追加のお茶とショートブレッドが運ばれてきた。ルームサービス係が出ていくのを確認して、沖一華は息をついた。
「----よく視ていてくれました」
沖謙太が肩をすくめる。
「一華、悪いが泥をかぶってくれないか」
沖一華はふふふ、と笑った。やはり親子だ。笑い方の肩から上の動きがよく似ている。
「私は泥なんてかかりませんよ。叩かれるのは先生のほうですよ」
「そうだな----ちょっと私は藤原施設長と別の場所で話をする。お前は今里担当官と話をしていなさい」
「今里さん、私は父の応援と七光りがあって、この国の政治のトップになりました」
「ご謙遜を」
「結論から言わせていただきますが、養育義務遂行制度及び養育義務遂行施設パノプティコンの廃止は致しません。養育義務遂行制度は『やりすぎ』と言われても『反人権的』と内乱が起きない、本当にギリギリのところついた施策です。それは施設入所対象者が、公正証書まで弁護士や代理人と言う第三者を交えて、それでも約束を違えて逃げる卑怯な人間か、約束を守りたいけれど為すすべのない人間だからです。そんな卑怯な親ができることはどんなことをしてでも子供を食べさせ、選択肢を広げさせることでしょう。逆にそれ以外に親ができることとは何ですか?」
養育義務遂行制度は賛否両論こそ大きく上がったが、内乱までは起きなかった。国民全員に対する想定以上の増税とは違い、誠実な親や、未婚者、子なし家庭には関係ない話で、それで苦しむ人間は養育義務から逃げた悪人で、ほとんどの人間には関係ないマイノリティに対する話だったからだ。
レンタル家族の概念といい、欠落しているより揃っているほうがいい。親も、金も、食事も、選択肢も。それが誰かが育つために他の誰かから奪われているものだとしたら。
「躾です。子どもに礼儀作法を教えて身につけさせることです。住むところがあって、食べるものがあれば勝手に育つ子どももいるのでしょう。でもそうじゃなくて自分のことばかり考えて、心は子どものまま、子どもを作ったものの、そのうち子どものことなんてどうでも良くなってしまった大人が施設に入ってきます。養育義務遂行制度は有効です。ただ1か0かのご決断をしてほしいわけではありません。負の部分を減らす調整をお願いしたいのです」
沖一華は口をつぐんだ。お茶に口をつけ、目を伏せる。
「----みな、政治、まつりごとといいますと、イメージするのは『統治』の傾向が強いのですが、実際、そういう地位に立って俯瞰で見ると、我々ができることは『調整』だけなのですよね。今里さんは、養育費市場は大きくなりすぎた、と仰いましたが、大きくなりすぎたのは、人口が減り続けるこの国自体なのですよ。歴史を重ねて、知識も思想も増えて、もう統治などままならない、調整すら追いつかなくなってしまった」
多様化だなんだ、と人々を肯定し続けて、何においても否定することは禁忌になってしまった。逆に悪事は徹底的に弾糾され、でもそれは感情論に左右される。
ショートブレッドに手をつけない自分を見て、お気になさらず召し上がってください、と促した。
バターが濃厚で、贅沢な味がする。
「元・刑務官となると、前科はないとして、今里さんは実は何か物を盗んだり、逆に盗まれたりしたことはおありですか」
学生時代に筆記具を友人に貸して、でも返ってこなかったことはあるが、ここで被害歴として挙げるには小さすぎる。
「いいえ」
「私は公立学校に通っていたころに、髪留めを級友に盗まれたことがあるんですよ。でも盗みたくなるほどの洒落たものではありませんでした。養育義務遂行制度が整うずっと前の話です。沖謙太が案じていたような貧困したシングル家庭の子です。しかも小汚くて、生活は荒れていたと思います。なんやかんやあって、彼女が犯人と分かって、これがそんなに欲しかったか、と訊くと、いらない、と言われました。じゃあ盗らないでよ泥棒、と言うと掴み掛ってきたんですよ。後日彼女は髪留めなどつけてはこなかった。可笑しいでしょう」
仕事で女性同士の取っ組み合いは何度も視てきた。光景が想像できる。盗んだ級友が叱られて意地を張った可能性もあるが、利益目的でない窃盗は精神不安の衝動によるものが多い。
そういえば、「我が子のため----」と万引きを常習していた母親の相談者を思い出した。盗んだのは食物だけでなく石鹸や文房具なども多く盗っていた。余った石鹸や文房具はいずれ子どものためのものになるだろうが、差し迫ったがゆえの窃盗ではなかったのだ。
「先生は笑い飛ばしてほしいのでしょうが、笑いはしません」
「色々な人の生活をなぞって視てきたあなたは、そうなのでしょうね」
沖一華はお茶に口をつけて低い窓の外を見た。
「健全な精神は健全な肉体に宿ります。でもそんな健全さは、満たされた胃袋と適量の愛によってなりたつ自尊心があってこそです。余裕がなければ、善悪の基準なんて簡単に忘れるし、逆に基準が歪み苦しい思いをしてしまう。親ができることはせっせと養分を運んで、『あなたは私がせっせと養分を運ぶ価値がある存在だ』と思い知らせることだと思います。それがしっかり定着したとき、子は、また他の子もその親にとってそういう大事な存在なのだと気づくのでしょう」
沖謙太の沖一華への応援演説。私は一華に、人として、また政治家として、私が持ちうるすべてを叩き込みました。だが、まだ一華はこの国の幸せのために、国民の皆様とともに学ぶことが多くあるでしょう。
また武道は人格の形成が目的のひとつでもある。そこに夫婦や子どもへの対応、家庭という概念はないだろうが、
「親と子はもっとも原始的な人と人の関係です。だから美化されやすい」
特に母と子はそうだ。楓はしきりにお腹の子に語りかけた。外の空気を吸う前に関係が成り立ってしまっている。
「産まれてようやく、兄弟、友人、師弟、先輩後輩や上司部下といった主従関係といった他の関係を知り、揉まれていきます。今日、今里さんのお話を受けて、じゃあ即座に私が何かできるわけではありません。江戸時代において盗みは死罪でしたが、それでも盗みは絶えなかった。厳罰化は抑止力にはなりません。----ちょっとパノプティコンを強行してみましょうか」
「----施設をどうするおつもりですか?」
「いいえ、相互監視社会という意味でのパノプティコンです。私とあなたの頭の中は今視えているものだけ視て、凝り固まっている。放送局に圧をかけて養育義務遂行制度に絡んだ犯罪はなるべく多く大きく報道します。で、そのうち、色々な意見が、私や沖謙太の浅慮へのヘイトとともに出るでしょう。皆、何かを視ていて、その更に深いところを視たがっていて、物申したくてたまらない。昔より国民は自己を肯定し、容認するようになりましたが、まだ人々は同調圧力を気にして人目が気になってたまらない。だからこそ動かしやすく動かしにくいのですが----この国は資本主義でありながら民主主義国家です。これからどんな加速をしていくかわかりませんが、少なくとも『親が子を食わせるために強盗殺人をしました』というのは違う。親が子に適切な償いをするのを邪魔するのもまた違う。『親が子のため』と御涙頂戴な話でも寛刑化してはいけないし、『親が子のため』という親心に付け込んだ犯罪は厳罰化すべきだ、という意見を様々な分野の何人かに協力してもらって織り交ぜていきます。その場合、今よりもっと養育義務遂行施設が刑務所に近づく可能性がありますが」
情報操作からのガスライティング。沖謙太が男性被害者の事件を大きく扱い、男性保護シェルターの確立、セクシャルハラスメントの男性用窓口を設立し、それを非難する女性を、高い声で吠える弱者とし、相反する生き物を同じく弱いと定義づけるまでに「男女平等弱者説」に至ったあの流れだ。男尊女卑という思考の偏りを揉み解し失くした、といえば聞こえはいいが、沖謙太の施策を陰謀論、洗脳だ、という意見は沖謙太が前線を退き、沖一華政権になってから、思い出したように方々から訴えかけられた。
親が子への償いを邪魔する外部の人間は刑務所に任せるとして、子のためと道を更に踏み外した親を収監していくことになるかもしれない。養育関係の法律が大きく形を変えることだろう。
「あなたはこれから、あなたが体験したことのない多くの不幸を視るでしょう。でも時間がかかっても今里担当官や同じことを感じている方々の不安は取り除いていきます。相互監視社会は報道やSNSが機能する前、近代社会、太平洋戦争後の地域づきあいから始まっていますが、養育義務遂行制度は、それこそまだ5歳の子なのです。養育義務遂行制度はあなたの子ではないから、辛いなら逃げても構いません。ただ信じてくれるというのであれば5歳の子が大人になるまでの時間、見守って支えてはくれませんか」
「わかりました。よろしくお願いします」
「----いえ、こちらこそお話ができて良かったです。あの、参考までに。今里担当官はお子さんがいらっしゃるのですよね」
指輪はつけている。実の結婚指輪だ。とはいえ挨拶で、そんな情報をやり取りしただろうか。
「はい、ああ、施設長からお聞きになりましたか」
「いや、顔を見ればわかります。ファッションリングフィンガーという人種もいますけど、私、人の顔を見て、だいたいお相手がいるかいないか、結婚しているかいないか、それが戸籍婚でも事実婚でもわかるんですよ。子どもがいるかいないかも。人数まではまだ修行足らずでわかりませんが、とりあえずお嬢さんでしょう」
妻や相澤担当官のような女性なら実際に顔つきは変わったし、妊娠において、男の子なら険しく、女の子なら柔らかくなるという都市伝説は聞くが、苛立ちを隠しきれていない近日なら顔は険しくなっているはずだ。
「子どもを持って良かったと思います?」
「はい」
即答した。これについては訊かれるたびに同じように答えている。
「だから娘が傷つくようなことは、娘自身が望むことでも許したくはありません。娘が反出生主義を信じても、その思想も受け止めて一緒に食事をしたいと思います」
そして言うたびに毒々しいかな、と後悔するのだ。でもそれもまた親が、親だからできることかもしれない。
「これから結婚・子育てをする若い世代に伝えたいことはあります?」
「結婚はできる条件とタイミングがあれば、結婚することを勧めますが。子どもを持つことは正直、布教というか勧奨はしません。制度が整って子どもを持つことが得になることになったとしても、子育てに向いている人間もいればそうじゃない人間もいるし、育てやすい子もいれば育てにくい子もいます。ただ、人生が鮮やかになることもあるけれど、子どもも自分も壊れる覚悟をしろ、と釘を刺すだけです」
人の親でないこの人は、あらゆる人に視られながら溢れんばかりの問題を抱えて、親ができること、親がやってはならないことを学ぶのだろう。雛鳥のように口を開けて待つのではなく、こんなお願いをした以上、自分も学んで答えをひとつひとつ提供しなくてはいけない。一職員として、一国民として、ひとりの親として、私はまだまだ妻から、娘から、施設から、親の成れの果てを視てなぞって、ひとつに絞れない多くの答えを得なければならない。
養育費未払シングル家庭が男女合わせて3割まで減少している今、養育義務遂行制度は評価を得ている。評価を得ていると言っても本当に評価を得るのは入所者0人で、養育費未払シングル家庭が男女合わせて絶滅するときだ。
飢えさせないこと、暴力を振るわず諭すこと、清潔な服を着させること、鳶の子は鷹にならないと過大な期待を押しつけず見守ること。枚挙に暇がない。
とりあえず、不幸でない子ども、不幸を選ばない子供が増えるといい。そういう子が増えて、自分がお払い箱になったとき、燃え尽き症候群や空の巣症候群のような喪失感は感じずに、満たされる日がくるだろう。
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