2 / 5
朝の輪郭
朝は、いつも静かに始まる。
目覚ましが鳴る前に、窓の外から届く鳥の声で目を覚ます。
それは歌というより、何かを呼びかけるような、一定の抑揚を持った音だった。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、部屋の白い壁をうっすらと染めていた。
桜彩は、布団の中でしばらくその光を見つめていた。
すぐに起き上がる理由が、特にあるわけではない。
けれど、横になったままでは、何も始まらないことも知っていた。
そうして、ゆっくりと体を起こす。呼吸を一つ整えて、床に足を下ろす。
小さなキッチンで湯を沸かし、白いカップに紅茶を注ぐ。
その香りは、どこか遠い記憶に触れるようなやわらかさを持っていた。
机に置かれた本の横には、前夜に折りたたんだままの手紙。
出すあてもないまま書かれた文字が、朝の光に照らされている。
身支度を整え、淡いグレーのカーディガンを羽織る。
鏡に映る自分に、そっと微笑んでみる。
誰のためでもなく、今日一日を無事に過ごすための儀式のようなものだった。
⸻
アパートを出ると、空は高く、わずかに雲が漂っていた。
通りを渡り、公園の角を曲がる。足元には、昨日よりわずかに多くの落ち葉が重なっている。
季節が、音を立てずに少しずつ進んでいる。
大学までの道のりは、電車で十五分ほど。
駅までの歩道には小さなパン屋があり、毎朝、バターと小麦の香りが通りに満ちていた。
香りに誘われるように歩きながら、桜彩は今日の講義内容を頭の中でなぞっていく。
何かを楽しみにしているわけではない。けれど、考えるという行為が、心を少しだけ温めてくれる。
電車は時間通りに来て、乗客のざわめきもどこか遠く感じた。
誰もが自分の世界を生きていて、そのなかに自分もいる――そう思うと、ほんの少しだけ安心できた。
⸻
大学のキャンパスに着くと、校舎の前で、いつものように友人たちが談笑していた。
桜彩も軽く手を振り、笑顔を添える。
それは習慣のようなものだった。表情も、声の高さも、心の深いところとは切り離された場所で動いていた。
一限目の講義が終わり、図書館へ向かう途中の中庭で、ふと足を止めた。
ベンチの横に、小さな鳥が一羽、羽を震わせていた。
怪我をしているのだろうか。近づくと、逃げる素振りも見せず、ただじっとこちらを見つめている。
「……大丈夫?」
思わず、声が漏れた。
その声に、自分でも少し驚いた。
感情のこもらない日々の中で、誰かに向けて声をかけたのは、いつ以来だったろう。
そのとき、傍らから影が伸びた。
ベンチの反対側に立っていたのは、見覚えのない男子学生だった。
やわらかな色のシャツに、少し乱れた髪。
どこか眠たげな目をしていて、でもその表情には不思議なあたたかさがあった。
「たぶん、少し休んでるだけですよ」
彼は、そう言って腰をかがめると、鳥と目線を合わせた。
「このあたり、風強かったし。飛ぶの、疲れちゃったのかもな」
その言葉に、桜彩は頷いた。
心のどこかに、小さな何かが触れた気がした。
それが安堵なのか、寂しさなのか、言葉にはできなかったけれど――
久しぶりに、自分の声が誰かに届いたということが、ただ嬉しかった。
鳥はやがて、羽をふるわせて立ち上がると、小さく跳ねるようにして植え込みの中へ消えていった。
二人の間に、少しの沈黙が落ちた。
けれどその静けさは、不思議と心地よかった。
「……また、どこかで」
彼がそう言って、ヒラヒラと手を振りながら笑う。
桜彩も、小さく、うなずいた。
⸻
静かな出会い。
名前も知らないままのやりとり。
けれどその朝の空気のようなひとときが、桜彩の中に、かすかに光を灯した。
忘れていた感情が、少しだけ、息を吹き返す音がした。
目覚ましが鳴る前に、窓の外から届く鳥の声で目を覚ます。
それは歌というより、何かを呼びかけるような、一定の抑揚を持った音だった。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、部屋の白い壁をうっすらと染めていた。
桜彩は、布団の中でしばらくその光を見つめていた。
すぐに起き上がる理由が、特にあるわけではない。
けれど、横になったままでは、何も始まらないことも知っていた。
そうして、ゆっくりと体を起こす。呼吸を一つ整えて、床に足を下ろす。
小さなキッチンで湯を沸かし、白いカップに紅茶を注ぐ。
その香りは、どこか遠い記憶に触れるようなやわらかさを持っていた。
机に置かれた本の横には、前夜に折りたたんだままの手紙。
出すあてもないまま書かれた文字が、朝の光に照らされている。
身支度を整え、淡いグレーのカーディガンを羽織る。
鏡に映る自分に、そっと微笑んでみる。
誰のためでもなく、今日一日を無事に過ごすための儀式のようなものだった。
⸻
アパートを出ると、空は高く、わずかに雲が漂っていた。
通りを渡り、公園の角を曲がる。足元には、昨日よりわずかに多くの落ち葉が重なっている。
季節が、音を立てずに少しずつ進んでいる。
大学までの道のりは、電車で十五分ほど。
駅までの歩道には小さなパン屋があり、毎朝、バターと小麦の香りが通りに満ちていた。
香りに誘われるように歩きながら、桜彩は今日の講義内容を頭の中でなぞっていく。
何かを楽しみにしているわけではない。けれど、考えるという行為が、心を少しだけ温めてくれる。
電車は時間通りに来て、乗客のざわめきもどこか遠く感じた。
誰もが自分の世界を生きていて、そのなかに自分もいる――そう思うと、ほんの少しだけ安心できた。
⸻
大学のキャンパスに着くと、校舎の前で、いつものように友人たちが談笑していた。
桜彩も軽く手を振り、笑顔を添える。
それは習慣のようなものだった。表情も、声の高さも、心の深いところとは切り離された場所で動いていた。
一限目の講義が終わり、図書館へ向かう途中の中庭で、ふと足を止めた。
ベンチの横に、小さな鳥が一羽、羽を震わせていた。
怪我をしているのだろうか。近づくと、逃げる素振りも見せず、ただじっとこちらを見つめている。
「……大丈夫?」
思わず、声が漏れた。
その声に、自分でも少し驚いた。
感情のこもらない日々の中で、誰かに向けて声をかけたのは、いつ以来だったろう。
そのとき、傍らから影が伸びた。
ベンチの反対側に立っていたのは、見覚えのない男子学生だった。
やわらかな色のシャツに、少し乱れた髪。
どこか眠たげな目をしていて、でもその表情には不思議なあたたかさがあった。
「たぶん、少し休んでるだけですよ」
彼は、そう言って腰をかがめると、鳥と目線を合わせた。
「このあたり、風強かったし。飛ぶの、疲れちゃったのかもな」
その言葉に、桜彩は頷いた。
心のどこかに、小さな何かが触れた気がした。
それが安堵なのか、寂しさなのか、言葉にはできなかったけれど――
久しぶりに、自分の声が誰かに届いたということが、ただ嬉しかった。
鳥はやがて、羽をふるわせて立ち上がると、小さく跳ねるようにして植え込みの中へ消えていった。
二人の間に、少しの沈黙が落ちた。
けれどその静けさは、不思議と心地よかった。
「……また、どこかで」
彼がそう言って、ヒラヒラと手を振りながら笑う。
桜彩も、小さく、うなずいた。
⸻
静かな出会い。
名前も知らないままのやりとり。
けれどその朝の空気のようなひとときが、桜彩の中に、かすかに光を灯した。
忘れていた感情が、少しだけ、息を吹き返す音がした。
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
触れられないはずの私が、ただ一人の彼にだけ心も体も許してしまいました
由香
恋愛
男性に触れられると体調を崩す令嬢リリア。
そんな彼女にとって唯一“触れられる”存在は――幼なじみの公爵令息レオンだけだった。
手を取られ、抱き寄せられ、当たり前のように触れられる日々。
それがどれほど特別なことなのか、彼女はまだ知らない。
やがて政略結婚の話が持ち上がり、“触れられない相手との結婚”か、“彼に触れられる人生”かを選ぶことに。
「お前に触れていいのは俺だけだ」
逃げ場のない独占と、甘すぎる溺愛。
これは、触れられないはずの少女が、ただ一人にだけすべてを許していく物語。
一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました
由香
恋愛
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。
ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。
遠い存在になったはずの彼。
けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。
冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
あっ、追放されちゃった…。
satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。
母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。
ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。
そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。