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その夜に残ったもの
夜になっても、鳥の姿は脳裏に残っていた。
風の中に置き去りにされたその小さな体が、自分と重なって見えたのかもしれない。 守りたいと思ったわけではない。ただ、そこに「いた」。それだけで、胸の奥に、かすかに波紋が広がった。
部屋の灯りを落とすと、静けさが一層濃く感じられた。 天井の模様や壁の影が、いつもよりも輪郭を持って見える。 ベッドに背を預けながら天井を見つめていると、不意に、彼の顔が浮かんだ。
といってもしっかり覚えている訳ではなく、靄がかかったような浮かび方であった。
今日、図書館へ向かう途中の中庭で、ほんの数分交わした会話。 名前すら知らないその人の姿が、なぜか胸の奥に残っていた。 鳥の目線にしゃがみ込んで、何も押しつけず、ただそこに「在る」ことを選んだ佇まい。 風に乱れた前髪を無造作にかきあげたあの指先。
そのひとつひとつが、不思議と色褪せず記憶にとどまっている。 自由で、軽やかで、誰にも縛られず、それでいて人と距離を取るわけでもない。 そういう人に、桜彩はこれまで何度か出会ってきた。そして――失ってきた。
思い返せば、あの人もそうだった。
自分を縛らない人。
どこまでも自由で、誰にでもやさしかった。
けれど、誰かのものには決してならなかった。
だからこそ、惹かれてしまったのかもしれない。 理解されたいと願う前に、理解してくれるような眼差しに。 彼の言葉に、自分の痛みがすでに見透かされているような気がした。 そんなことは、きっとありえない。 けれど、無理に引き出そうとしないその静けさが、ありがたかった。
「たぶん、少し休んでるだけですよ」
何気ないその一言に、どこか安心した。
他人の痛みに踏み込みすぎず、でも無関心ではない。 その眼差しに触れたとき、心の奥にひびが入ったような気がした。
桜彩は、ベッドの上で膝を抱えて座り、薄手のカーディガンの袖を指先でたぐっていた。
無意識にそうしていた手が止まり、ふっと息を吐く。
泣いているわけではない。 でも、胸の奥に小さな熱を感じていた。 それは、凍っていた何かがゆっくりと解けていくような感覚だった。
思えば、自分の心に触れようとすることを、長く避けていた。 感じることも、思い出すことも、どこかで「痛み」と結びついていたから。
だから、心を凍らせていた。自分でも気づかないうちに。
風の音、紅茶の香り、鳥の羽ばたき。 そのすべてとともに、彼の声が、今も耳の奥に残っている。 胸の奥に、少しだけ余白ができた気がした。 無理に閉ざしていたその扉が、ほんの少しだけ、開きかけている。
桜彩は、そっと目を閉じた。 夢の中に彼が現れることはないかもしれない。 けれど、この夜の静けさとともに、彼の記憶はきっと、朝になっても残っている。
そう思えたことが、今は少しだけ嬉しかった。
風の中に置き去りにされたその小さな体が、自分と重なって見えたのかもしれない。 守りたいと思ったわけではない。ただ、そこに「いた」。それだけで、胸の奥に、かすかに波紋が広がった。
部屋の灯りを落とすと、静けさが一層濃く感じられた。 天井の模様や壁の影が、いつもよりも輪郭を持って見える。 ベッドに背を預けながら天井を見つめていると、不意に、彼の顔が浮かんだ。
といってもしっかり覚えている訳ではなく、靄がかかったような浮かび方であった。
今日、図書館へ向かう途中の中庭で、ほんの数分交わした会話。 名前すら知らないその人の姿が、なぜか胸の奥に残っていた。 鳥の目線にしゃがみ込んで、何も押しつけず、ただそこに「在る」ことを選んだ佇まい。 風に乱れた前髪を無造作にかきあげたあの指先。
そのひとつひとつが、不思議と色褪せず記憶にとどまっている。 自由で、軽やかで、誰にも縛られず、それでいて人と距離を取るわけでもない。 そういう人に、桜彩はこれまで何度か出会ってきた。そして――失ってきた。
思い返せば、あの人もそうだった。
自分を縛らない人。
どこまでも自由で、誰にでもやさしかった。
けれど、誰かのものには決してならなかった。
だからこそ、惹かれてしまったのかもしれない。 理解されたいと願う前に、理解してくれるような眼差しに。 彼の言葉に、自分の痛みがすでに見透かされているような気がした。 そんなことは、きっとありえない。 けれど、無理に引き出そうとしないその静けさが、ありがたかった。
「たぶん、少し休んでるだけですよ」
何気ないその一言に、どこか安心した。
他人の痛みに踏み込みすぎず、でも無関心ではない。 その眼差しに触れたとき、心の奥にひびが入ったような気がした。
桜彩は、ベッドの上で膝を抱えて座り、薄手のカーディガンの袖を指先でたぐっていた。
無意識にそうしていた手が止まり、ふっと息を吐く。
泣いているわけではない。 でも、胸の奥に小さな熱を感じていた。 それは、凍っていた何かがゆっくりと解けていくような感覚だった。
思えば、自分の心に触れようとすることを、長く避けていた。 感じることも、思い出すことも、どこかで「痛み」と結びついていたから。
だから、心を凍らせていた。自分でも気づかないうちに。
風の音、紅茶の香り、鳥の羽ばたき。 そのすべてとともに、彼の声が、今も耳の奥に残っている。 胸の奥に、少しだけ余白ができた気がした。 無理に閉ざしていたその扉が、ほんの少しだけ、開きかけている。
桜彩は、そっと目を閉じた。 夢の中に彼が現れることはないかもしれない。 けれど、この夜の静けさとともに、彼の記憶はきっと、朝になっても残っている。
そう思えたことが、今は少しだけ嬉しかった。
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