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人の和
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アマンニ公爵邸の広間はまさに金で作られた芸術そのものだった。
天井から吊り下げられた数百のクリスタルが太陽を地上に引きずり下ろしたかのような輝きを放ち、着飾った貴族の宝石を妖しく照らし出す。空気には高価な香料とどこか腐ったような欲望の匂いが混じり合っているように感じられた。
(……人の和とは、よく言ったものね)
私はナタリアという偽名の、地方から出てきたばかりの無名の令嬢という触れ込みで会場の片隅に立っていた。精巧な仮面の魔法とその応用によって、切れ上がった瞳も、透き通るような白い肌も、今は凡庸などこにでもいる格好の貴族の娘に偽装されている。
視線を走らせると会場の要所要所にドッターが送り込んだ警備兵達が立っていた。彼らは軍人のように微動だにしなかったが、視線は貴族達の顔ではなく常に会場の出口と死角を監視していた。
「あちらをご覧になって。今夜の主役だわ」
周囲の令嬢達が扇子で口元を隠しながら囁き合う。
ホールの中心にひときわ眩い光を浴びて現れたのはハイベルクとランダ・イリサールだった。ランダは淡いオランジュカラーのドレスを纏い、まるで天から降りてきた女神のように微笑んでいる。その腕をしっかりと掴んでいるハイベルクはもはや彼女以外何も目に入っていない様子だった。
(……滑稽ね。今日何のために呼び集められたのかも知らずに、可哀想な人達)
私はシャンパングラスを軽く傾け、周囲の状況を観察していく。アマンニ公爵が帝国派の重鎮達と密談を交わしている。
彼らの視線は時折ハイベルクに向けられる。その目は敬愛する主君を見るものではない。屠殺場へ送る直前の肥えた家畜を吟味する肉屋のそれだ。
ランダの背後には彼女の腹心である執事が控えている。彼の懐には先ほどドッターが言っていた誓約書の原本、あるいはそれに類する致命的な証拠が収められているはずだ。
「ナタリア様、お飲み物はいかがですか?」
給仕に扮したドッターの部下が私に近づき低い声で囁いた。
「……外周の封鎖が完了しました。アマンニの手飼いの傭兵共は現在食事休憩の名目で別室に隔離。扉の鍵は内側から溶接しました」
「順調ね……ランダの周辺は?」
「執事の動きをマークしています。彼女が合図を送れば奴が書類を殿下のポケットに忍ばせる手はずでしょう……売国の証拠を持ったまま、ハイベルクが拘束されるシナリオです」
「そうはさせないわ……いい、合図は私がホールの中央に立った瞬間。それまではどれほど彼らが愉快に踊っていても手を出さないで」
部下は小さく頷き人混みに消えていった。
宴が深まるにつれ音楽はより情熱的により激しくなっていく。
ハイベルクはランダの甘い囁きに酔いしれ、自分が立っている足元がどれほど脆い氷の上であるか気づいていない。
ランダの瞳には時折冷酷な光が宿る。彼女は知っているのだ。この舞踏会が終わる頃ハイベルクは異国の血を引く売国奴として地下牢へ送られ、自分は帝国の恩人としてより高い地位へと昇り詰めることを。
そしてそれすら自分の策の一環であることも。ハイベルクを救出するシナリオも計画済みなのだ。最終的に私がやろうとしていることを先にやるのである。
私は会場の柱の影に身を潜めながら心拍数を一定に保つ。没落した伯爵家の教えは常に私の中にあった。
人の和とは信頼によって成るものではない。利害の一致と畏怖のバランスによって成るものである。
今この会場にあるのは偽りの信頼と剥き出しの利害だけだ。
ならばそこに真実の恐怖を一つ投げ込めばこの歪な和は一瞬で崩壊する。
私は仮面の魔法の出力を調整した。指先、首元に隠した魔導触媒に触れる。
(さあ準備はいいかしら。ランダ・イリサール……
貴女の用意した『パペット・ショー』。その脚本を今から私が書き換えて差し上げますわ)
アマンニ公爵が中央の壇上に立った。
彼の手には乾杯のための金の杯が握られている。それがクーデター開始の合図であることを私は知っている。公爵が口を開こうとしたその瞬間私は静かに、確実な足取りで光の溢れるホールの中央へと歩み出した。
周囲の貴族達が怪訝そうな顔で私を見る。
「誰だあの娘は?」
「あんな令嬢見たことがないぞ」
ひそひそ話が波のように広がる。ハイベルクとランダがダンスを止め振り返る。
ランダの眉が一瞬だけ不快そうに跳ねると、ハイベルクは私の瞳の奥にある何かに気づいたのかわずかに顔を強張らせた。
私は彼らの目の前で深々とカーテシーをした。
「アマンニ公爵……お話の途中に失礼いたしますわ」
私の声は魔導の加護を受けていないはずなのに広い会場の隅々まで鈴を転がすような静謐《せいひつ》さで響き渡った。
(今夜の舞踏会……あまりに素晴らしくて、私も一つ演出を加えたくなってしまいましたの)
アマンニ公爵の顔が怒りと当惑で赤黒く染まっていく。
「何を……!警備兵!この無礼な娘を連れ出せ!」
だが警備兵——ドッターの仲間たちは一歩も動かない。
会場に言いようのない不穏な空気が満ちていく。
私は顔に手を当て仮面の魔法を霧散させた。
露わになったのはナタリアの素顔。没落したはずの伯爵家の誇り高き花。
「……レーウ!?なぜ君がここに!!」
ハイベルクが叫ぶ。
私は彼には視線を向けずただランダの瞳をじっと見つめた。
「ランダ様……貴女のステップは少しばかり先を急ぎすぎているようですわ」
私は右手を高く掲げた。それがドッターへの合図。
光に満ちた楽園が奈落の底へと突き落とされるまでの、最後の秒読みが始まった。
天井から吊り下げられた数百のクリスタルが太陽を地上に引きずり下ろしたかのような輝きを放ち、着飾った貴族の宝石を妖しく照らし出す。空気には高価な香料とどこか腐ったような欲望の匂いが混じり合っているように感じられた。
(……人の和とは、よく言ったものね)
私はナタリアという偽名の、地方から出てきたばかりの無名の令嬢という触れ込みで会場の片隅に立っていた。精巧な仮面の魔法とその応用によって、切れ上がった瞳も、透き通るような白い肌も、今は凡庸などこにでもいる格好の貴族の娘に偽装されている。
視線を走らせると会場の要所要所にドッターが送り込んだ警備兵達が立っていた。彼らは軍人のように微動だにしなかったが、視線は貴族達の顔ではなく常に会場の出口と死角を監視していた。
「あちらをご覧になって。今夜の主役だわ」
周囲の令嬢達が扇子で口元を隠しながら囁き合う。
ホールの中心にひときわ眩い光を浴びて現れたのはハイベルクとランダ・イリサールだった。ランダは淡いオランジュカラーのドレスを纏い、まるで天から降りてきた女神のように微笑んでいる。その腕をしっかりと掴んでいるハイベルクはもはや彼女以外何も目に入っていない様子だった。
(……滑稽ね。今日何のために呼び集められたのかも知らずに、可哀想な人達)
私はシャンパングラスを軽く傾け、周囲の状況を観察していく。アマンニ公爵が帝国派の重鎮達と密談を交わしている。
彼らの視線は時折ハイベルクに向けられる。その目は敬愛する主君を見るものではない。屠殺場へ送る直前の肥えた家畜を吟味する肉屋のそれだ。
ランダの背後には彼女の腹心である執事が控えている。彼の懐には先ほどドッターが言っていた誓約書の原本、あるいはそれに類する致命的な証拠が収められているはずだ。
「ナタリア様、お飲み物はいかがですか?」
給仕に扮したドッターの部下が私に近づき低い声で囁いた。
「……外周の封鎖が完了しました。アマンニの手飼いの傭兵共は現在食事休憩の名目で別室に隔離。扉の鍵は内側から溶接しました」
「順調ね……ランダの周辺は?」
「執事の動きをマークしています。彼女が合図を送れば奴が書類を殿下のポケットに忍ばせる手はずでしょう……売国の証拠を持ったまま、ハイベルクが拘束されるシナリオです」
「そうはさせないわ……いい、合図は私がホールの中央に立った瞬間。それまではどれほど彼らが愉快に踊っていても手を出さないで」
部下は小さく頷き人混みに消えていった。
宴が深まるにつれ音楽はより情熱的により激しくなっていく。
ハイベルクはランダの甘い囁きに酔いしれ、自分が立っている足元がどれほど脆い氷の上であるか気づいていない。
ランダの瞳には時折冷酷な光が宿る。彼女は知っているのだ。この舞踏会が終わる頃ハイベルクは異国の血を引く売国奴として地下牢へ送られ、自分は帝国の恩人としてより高い地位へと昇り詰めることを。
そしてそれすら自分の策の一環であることも。ハイベルクを救出するシナリオも計画済みなのだ。最終的に私がやろうとしていることを先にやるのである。
私は会場の柱の影に身を潜めながら心拍数を一定に保つ。没落した伯爵家の教えは常に私の中にあった。
人の和とは信頼によって成るものではない。利害の一致と畏怖のバランスによって成るものである。
今この会場にあるのは偽りの信頼と剥き出しの利害だけだ。
ならばそこに真実の恐怖を一つ投げ込めばこの歪な和は一瞬で崩壊する。
私は仮面の魔法の出力を調整した。指先、首元に隠した魔導触媒に触れる。
(さあ準備はいいかしら。ランダ・イリサール……
貴女の用意した『パペット・ショー』。その脚本を今から私が書き換えて差し上げますわ)
アマンニ公爵が中央の壇上に立った。
彼の手には乾杯のための金の杯が握られている。それがクーデター開始の合図であることを私は知っている。公爵が口を開こうとしたその瞬間私は静かに、確実な足取りで光の溢れるホールの中央へと歩み出した。
周囲の貴族達が怪訝そうな顔で私を見る。
「誰だあの娘は?」
「あんな令嬢見たことがないぞ」
ひそひそ話が波のように広がる。ハイベルクとランダがダンスを止め振り返る。
ランダの眉が一瞬だけ不快そうに跳ねると、ハイベルクは私の瞳の奥にある何かに気づいたのかわずかに顔を強張らせた。
私は彼らの目の前で深々とカーテシーをした。
「アマンニ公爵……お話の途中に失礼いたしますわ」
私の声は魔導の加護を受けていないはずなのに広い会場の隅々まで鈴を転がすような静謐《せいひつ》さで響き渡った。
(今夜の舞踏会……あまりに素晴らしくて、私も一つ演出を加えたくなってしまいましたの)
アマンニ公爵の顔が怒りと当惑で赤黒く染まっていく。
「何を……!警備兵!この無礼な娘を連れ出せ!」
だが警備兵——ドッターの仲間たちは一歩も動かない。
会場に言いようのない不穏な空気が満ちていく。
私は顔に手を当て仮面の魔法を霧散させた。
露わになったのはナタリアの素顔。没落したはずの伯爵家の誇り高き花。
「……レーウ!?なぜ君がここに!!」
ハイベルクが叫ぶ。
私は彼には視線を向けずただランダの瞳をじっと見つめた。
「ランダ様……貴女のステップは少しばかり先を急ぎすぎているようですわ」
私は右手を高く掲げた。それがドッターへの合図。
光に満ちた楽園が奈落の底へと突き落とされるまでの、最後の秒読みが始まった。
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