恋人、はじめました。

桜庭かなめ

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続編

第8話『あの子のバイト先へ-沙綾編-』

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 オムライスを食べ終わった後は、琴宿の街並みを楽しみながら琴宿駅へ向かった。
 琴宿駅から、来た方とは逆のNR東京中央線快速の下り方面の電車に乗る。行き先は高野駅だ。
 行くときと同じで、進行方向に向かって一番前の車両に乗った。ただ、昼過ぎという時間帯だからか、行くときとは違って座席は全て埋まっていた。座れなかったけど、混んでいないし氷織と一緒だから別にいいか。
 琴宿駅から高野駅までは5分。だから、氷織と話していたらあっという間に高野駅に到着した。萩窪駅とは違う路線だけど、東都メトロの地下鉄に乗り換えられる駅なので、萩窪駅と同じくらいに立派だ。
 葉月さんがバイトする書店・有前ゆうぜん堂高野南店が入っている商業ビルに近い南口から高野駅を出た。

「高野に着きましたね!」
「着いたな。これまで数回くらいしか来たことがないけど、3、4日前にここに来たから、何だか馴染みのある景色に思えるよ」
「そうですか。私も沙綾さんと仲良くなってから、高野には何度も来ています。なので、馴染みのある風景ですね。今まで琴宿にいたので、帰ってきた感じがちょっとします。自分の家が近くにあるわけではありませんが」
「ははっ、そっか。ただ、その感覚……何だか分かるな。ゴールデンウィークにドームタウンから帰ってきたとき、電車から笠ヶ谷高校や笠ヶ谷駅の周りの景色が見えたら『帰ってきたなぁ』って思えたから」
「そうだったんですね。では、そろそろ行きましょうか。高野デートのスタートですよ!」

 氷織は楽しそうに言った。葉月さんがバイトしている書店と猫カフェはもちろんのこと、火村さんがバイトしているタピオカドリンク店も高野区にある。だから、高野デートと言ったのだろう。
 俺達は葉月さんのバイトしている書店が入っている商業ビル・高野カクイに向かって歩き始める。
 高野でも、氷織を見てくる人は男性中心にちらほらといる。ただ、男の俺と手を繋いでいるからか、話しかけてくる人はいない。それでも、氷織は超のつくほどの美少女なので、変な人に絡まれたり、襲われたりしないように守らないと。
 南口から近いところにあるため、高野カクイにはすぐに到着した。有前堂高野南店はこの商業施設の5階にある。先日、勉強会のために葉月さんの家に行く途中に、彼女からバイト先として書店を案内されたので、お店までの道順は分かっている。
 高野カクイの中に入り、近くにある上りのエスカレーターに乗って5階を目指す。

「そういえば、俺は初めてだけど、氷織って葉月さんが有前堂でバイトしている姿って見たことがあるのか?」
「1年生のときに2、3回行ったことがあります。2年生になってからは初めてですね」
「へえ、そうなんだ。葉月さんってバイト中ってどんな感じなんだろうなぁ。いつもみたいに『~ッス』って言うのかな」
「私の記憶の限りでは、接客中は普通の敬語でしたよ。私や友人の方が来たら、いつもの口調が混ざることもありましたが」
「なるほどね」

 さすがに接客中は『~ッス』っていう口調にはならないか。ただ、氷織達の前ではいつもの口調が混ざるところは可愛らしい。あと、普通の口調で話している姿が想像できないな。

「普段から快活な方ですから、接客中も自然な笑顔になっていましたね」
「そうなんだ」

 それは想像できるかな。

「行くことは伝えてありますが、お店に着いたら接客しているところをこっそりと見てみましょうか」
「それはいいね」

 葉月さんの普段のバイトの風景を見てみたいし。それに、ゴールデンウィークに俺がバイトしているとき、葉月さんは氷織と火村さんと一緒に、俺が接客している様子をこっそり見ていたからな。今度はこっちの番だ。
 氷織と葉月さんのバイト話をしていたら、有前堂のある5階に到着。
 文房具屋さんやメガネ屋さんなどの専門店の横を通り、有前堂へ。
 氷織の行きつけの書店と同じように、有前堂も広々としており、静かな雰囲気だ。性別や年代を問わずお客さんがおり、中には立ち読みをしている人も。

「ありがとうございました。次の方、こちらのレジへどうぞ」

 少し遠くの方にあるレジから、葉月さんの声が聞こえてきた。
 俺達は葉月さんに気づかれないように、こっそりレジに近づく。
 ある程度近づいたところで、俺達は商品の本が置いてある棚から顔を出し、レジで接客する葉月さんの姿を見る。気づかれないかどうかちょっとドキドキする。葉月さん達が俺のバイトを見ていたときも、こういう気持ちになったのかな。
 葉月さんは襟付きの白いブラウスの上に紺色のエプロンを身につけている。隣のレジを担当するベテランっぽい女性も同じものを着ているので、有前堂の店員の制服なのだろう。
 今、葉月さんは年配の男性の接客をしている。氷織の言うように、彼女は普段と同じ明るい笑顔を見せている。

「合計1500円でございます。カバーをお掛けしますか?」
「お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」

 おぉ、普通に喋っている。きっと、俺や氷織相手なら「1500円になるッス。カバーは掛けるッスか?」とか「了解ッス。少々お待ちくださいッス」みたいに言いそうだ。
 葉月さんは薄茶色のカバーを取り出すと、素早い手つきで会計に出された単行本にカバーを掛けていく。高1の頃からバイトしているから、この作業にも慣れているのだろう。

「1500円ちょうどお預かりします。……レシートと商品のお渡しです」
「あぁ、どうもありがとう」
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 葉月さんは明るい声色でそう言い、レジを後にする年配の男性に頭を下げていた。

「……いい接客だね。1年の頃からやっているだけあって、落ち着いた感じもするし」
「ええ。明斗さんと同じように、学校よりも大人っぽさを感じます」
「バイト中だもんね。口調が違うのも大人っぽさを感じる理由の一つかな」
「ふふっ、確かに。……レジにお客さんがいないので、沙綾さんのところへ行きましょうか」
「そうだね」

 俺達は手を繋いで、葉月さんのいるレジに向かって歩き始める。
 俺達の足音に気づいたのだろうか。歩き始めてすぐに葉月さんはこちらを向き、さっきの接客のとき以上の明るい笑顔を見せてきた。葉月さんが小さく手を振ってきたので、俺達も彼女に手を振った。
 葉月さんは俺達に手を振った直後、隣のレジを担当するベテランっぽい女性店員さんと何やら話している。そして、「ありがとうございます」という声が聞こえると、葉月さんはレジから出てきて、俺達のところにやってきた。……ボトムスは少し長めの黒いスカートか。

「ひおりん、紙透君、こんにちはッス。高校の友達カップルって伝えたら、『ちょっと話してきていい』と少し休憩をもらったッス。お店の外に出て話すッス」
「分かりました」
「分かった」

 静かな店内だと、話していたらお客さんの迷惑になるし、葉月さんの休憩がサボりに見えてしまう可能性があるもんな。
 有前堂を出て、葉月さんの案内で近くにあるベンチへ。

「沙綾さん、ここまでバイトお疲れ様です」
「お疲れ様、葉月さん。年配の男性への接客を氷織と見ていたけど、落ち着いて接客していたね。バイトの制服姿なのもあってか大人っぽく見えるよ」
「どうもッス。接客をたくさんしている紙透君にそう言われると嬉しいッスね。最初はミスも多かったッスけど、先輩達に教えてもらったおかげで今みたいな接客ができるようになったッス」
「そっか」

 俺も最初はミスが多くて、筑紫つくし先輩中心に教わりながら仕事を覚えていったな。そのおかげで、今は接客の仕事を一人で一通りできるようになった。なので、今の葉月さんの話にとても共感できる。

「そういえば、映画はどうだったッスか?」
「とても良かったです。原作漫画の内容を丁寧にアニメ化されていて。評判通りの泣ける映画でした。原作を読んだ私もちょっと泣きました。あと、原作を読まずに観た明斗さんは号泣していました」
「……感動系作品の王道の流れだったけど、凄く泣いちゃったよ。いい作品だった」
「おおっ、そうッスか! 号泣する紙透君を見てみたかったッスね」
「可愛かったですよ」

 楽しそうに笑い合う氷織と葉月さん。
 そういえば、葉月さんって感動系の作品を見て泣くのだろうか。泣くイメージがないな。泣く姿も想像できない。

「映画が凄く良かったから、ここで原作漫画を全巻買うよ」
「おおっ、それは有り難いッス。今月に入ってから、特設コーナーを設けてたくさん置いてあるッスよ」

 それなら、問題なく全巻買うことができそうかな。今日は友人がバイトする書店にお金を落とそう。

「ヒム子のバイト先にはもう行ったッスか?」
「いいえ、まだですよ。沙綾さんと何度か行った猫カフェに行ってから、恭子さんがバイトしているタピオカドリンク店に行くつもりです」
「そうッスか。カクイの近くにある猫カフェでは、おやつをあげることもできるッスよ、紙透君」
「そうなんだ。楽しみだな」

 萩窪デートのときに行った猫カフェでは、おやつをあげる体験はできなかった。あのときとは少し違った形で猫カフェの時間を楽しめそうだ。

「まずはここで原作漫画を買うよ」
「どうもッス。じゃあ、レジはあたしが担当するッス」
「タイミングを見計らって行くよ」

 俺達は3人で有前堂へ戻り、レジの近くで葉月さんとは一旦お別れ。それからは氷織と2人でコミックコーナーへ向かって歩く。
 この有前堂は、氷織の行きつけのよつば書店と同じくらいに品揃えがいいな。雰囲気もいい感じだし。本の好きな葉月さんがここでバイトをしているのも納得だ。

「明斗さん。あそこに映画のポスターが」

 コミックコーナーに近づいたとき、氷織がそう言った。彼女の指さす先を見ると、そこには『空駆ける天使』の映画の告知ポスターが貼られている。
 ポスターの貼ってあるところに向かうと、そこには原作漫画全巻、ノベライズ本、特集が組まれたアニメ系雑誌が平積みで置かれていた。空色のポップもあって、それには『大ヒット公開中! 泣けるラブストーリー!』と可愛らしい文字で書かれている。

「お店で推しているんだね」
「漫画はもちろんのこと、映画もヒットしていますからね」
「なるほどね。よし、買うか」

 俺は原作漫画全巻を1冊ずつ手に取り、氷織と一緒にレジの方へ向かう。
 レジへ行くと、葉月さんはさっきと同じようにベテランっぽい女性店員の隣のレジに立っていた。葉月さんの担当するレジが空いていたので、俺達はそこへ一直線。
 葉月さんの担当するレジに漫画を置くと、彼女は明るい笑みを見せて俺達に軽く頭を下げた。

「いらっしゃいませ。商品をお預かりします」

 店員モードになったようで、葉月さんはいつもと違った口調に。バーコードリーダーを使って、漫画3冊のバーコードを読み取る。

「袋にお入れしますか? 1枚5円になりますが」
「入れてください。お願いします」
「かしこまりました。……合計1985円になります」

 漫画3冊買えば、そのくらいの値段にはなるよな。俺が財布からお金を取り出している間に、葉月さんが手早く袋に漫画3冊を入れている様子が見えた。
 俺はトレイに2000円を出す。

「2000円お預かりします。……15円のお返しになります」

 葉月さんはお釣りの15円とレシートを乗せたトレイを俺の目の前に出した。
 さっき、お店の外で俺達と少し話したからなのか。それとも、隣のレジに他の店員がいるからなのか。接客中はいつもの『ッス』口調は出なかったな。これはこれで新鮮でいいなぁと思いながら、お釣りとレシートを財布の中に入れた。
 俺が財布をジャケットのポケットに入れると、葉月さんは笑顔で漫画が入った袋を渡してくれる。気分がいいな。きっと、葉月さんに接客されるのが好きで、この書店に訪れているお客さんはいるんじゃないだろうか。

「バイト頑張ってくださいね、沙綾さん」
「頑張ってね、葉月さん」
「どうもッス! 元気もらえたッスよ。2人もデートを楽しんできてッス」
「はいっ! また月曜に」
「またね」

 俺達は葉月さんに手を振って、有前堂を後にする。
 ここで購入した『空駆ける天使』の原作漫画は家に帰ってからゆっくりと読もう。映画を思い出して号泣してしまうかもしれないな。漫画の入った袋をバッグに大切にしまった。
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