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第65話『About 50 years ago.』
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あれから、僕は家に帰って自分は何が好きなのか。何に興味があるのかを考えて、ノートに書き出してみることに。
すると、国語、日本史、英語、数学、物理、化学、情報、家庭科など好きだと言えるものがたくさん出てきた。趣味の方から考えると小説、漫画、イラスト製作、音楽製作、プログラミング、写真、バイクなど。
好きなものや興味があるもの全然ないよりはいいだろうけれど、ここまで多岐に渡って好きなものがあるとこれはこれで迷ってしまう。この中から特に何が好きか。興味があるか。将来なりたい職業かを考えてみよう。
――プルルッ。
スマートフォンが鳴っているので確認してみると、発信者が『朝霧明日香』となっていた。通話に出るのにも緊張するな。一度、大きく呼吸をして、
「もしもし」
『つーちゃん、こんばんは。体調とか大丈夫? 昨日はあまり元気がなかったように見えたけれど』
明日香の声を聞くだけで安心できるな。心地よいドキドキが全身に伝わってくる。
明日香はもしかしたらずっと僕のことを考えていたのかも。
「心配掛けさせちゃってごめんね。実は昨日ぐらいから進路のことで急に悩んじゃってさ。でも、少しずつ考えを整理できるようになったから大丈夫だよ」
『そうだったんだね。それなら安心したよ。でも、相談したくなったらいつでも連絡してね。何か力になれるかもしれないから』
「うん。あと、今週の土曜日にある桜海川での花火大会なんだけど、今年も一緒に行かないか? 気分転換にいいんじゃないかと思って」
『行く行く! 実は今日、部活中にみなみんとその話もしたんだ』
「……そっか。絶対に行こうね」
『うん。約束だよ。じゃあ、またね』
「うん、またね。部活とか受験勉強頑張ってね」
『ありがとう。つーちゃんは……まずは進路選びか。この時期だけれど、焦らずにゆっくりと考えてね』
「うん、分かった。ありがとう」
僕の方から通話を切った。その瞬間に感じる寂しさと胸の痛みは初めての感覚だった。明日香のことが本当に好きなんだろうな。
「……何が一番いいのかな、僕にとって」
それからもっと深く考えてみるけど、なかなかこれぞいうものに絞り込めず、段々と頭が痛くなってきた。体に熱っぽさを感じた段階で、今日はもう進路について考えるのを止めるのであった。
8月16日、木曜日。
どんよりと広がる雲の所々の切れ間から、青空が見えている。暑さのピークは越えたらしいけど、それでも最高気温は31℃予想で蒸し暑くなるようだ。
勉強はして損はないと思うし、どんな進路を選んでも何かしらの役に立つと信じて今日も咲希と一緒に夏期講習に臨んだ。
まだ進路は決まっていないけれど、勉強は頑張ろうと心に決めたからか昨日よりは集中して講義を受けられ、小テストもそれなりの成績を取ることができた。
午後4時前に受講する予定の全ての講義が終わる。
「さてと、今日も全部終わったか」
「そうだね。何か、今日は普段通りの翼に戻ってきた感じがするよ。安心した」
「……まだ、進路は決まっていないんだけどね。とりあえず、勉強はしっかりとしようと思ったから」
「なるほどね。さすがに1日で決まらないよね。……そうだ、こういうときは人生の大先輩に話を聞きに行くのもいい気がするな」
「人生の大先輩か……」
僕が知っており身近にいる人だと、パッと思いつくのはマスターか。
「それもいいかもね。じゃあ、シー・ブロッサムに行ってみようか。確か、お盆休みも昨日くらいまでだったと思うから」
「うん! そうだね!」
急に眩しい笑みを見せるようになったけれど、本当はシー・ブロッサムに行って甘いものでも食べたかったんじゃないか? ただ、マスターに話を聞くのもいいだろう。お客さんがそこまで多くなかったら話を聞いてみるか。
僕は咲希と一緒にシー・ブロッサムへと行く。予想通り、今日は営業している。
扉を開けるとマスターと鈴音さんの姿が見えた。そして、僕らに気付いた鈴音さんが可愛らしい笑みを浮かべながらこちらにやってきて、
「いらっしゃいませ! あっ、翼君と咲希ちゃん。夏期講習の帰り?」
「はい! 今日は早めに終わったので、たまにはシー・ブロッサムでゆっくりするのもいいかなと思って!」
「ふふっ、そっか。……咲希ちゃんも元気そうで安心した。勉強お疲れ様でした。2名様、ご案内いたします」
今の鈴音さんの言葉からして、咲希は僕にフラれてしまったことを鈴音さんに話したようだ。
鈴音さんによってキッチンのすぐ近くの席に案内される。その際に店内の様子を見てみると、僕らを除いても数人ほどのお客さんしかいなかった。会話を楽しんでいる老夫婦、優雅に読書をしている若い女性とかなので、これならマスターに話を聞けるかな。
「ご注文はお決まりですか?」
「あたし、アイスティーと抹茶パフェで!」
「僕はアイスコーヒーで。あと、マスター……ちょっと相談したいことがあるんですけど、今は大丈夫ですか?」
僕がそう言うと、マスターは穏やかに笑って、
「……ああ、今の時間なら大丈夫だよ。少しの時間だけになってしまうかもしれないが。翼君と咲希君が頼んだメニューをお持ちしたら、その後に話そう」
「ありがとうございます」
「鈴音君。パフェの方を頼むよ。私が飲み物を用意するから」
「はい!」
マスターが相手だからか、相談する時間を設けてくれることになったら急に緊張してきた。何を言われるかがちょっと恐く思ってもいて。それでも、しっかりとマスターに相談しよう。
飲み物とスイーツだけなので、すぐに出来上がりマスターと鈴音さんがこちらにやってくる。
「お待たせいたしました、アイスティーとアイスコーヒーになります」
「抹茶パフェでございます!」
注文したものを僕らのテーブルに置くと、マスターと鈴音さんは隣のテーブルの席に座った。
「それで、翼君。私に相談してほしいことはどんなことかな」
「ええ、進路のことなんですけど……」
僕はアイスコーヒーを一口飲んで、
「一昨日くらいから急に将来のことが見えなくなってしまって。情けない話ですけど、明日香が側にいるっていう理由だけでこれまで歩んできたので。彼女から美術大学に進みたいと言われたとき、途端に自分って何をしていきたいのか分からなくなって。それで、奥様と一緒にお店を開いて、今も現役の店長として働いているマスターに相談したいと思ったんです」
「……なるほど。そういう類の悩みか……」
そうか……とマスターは呟いて腕を組む。こんな僕のことをマスターはどう思うだろうか。
「……恋と未来の悩みか。いいねぇ」
意外にもマスターは朗らかに笑いながらそう言った。
「大学で妻と出会ったときのことを思い出したよ」
「確か、マスターは奥様と一緒にこのお店を開いたんですよね。どういうことがきっかけで、開店まで辿り着いたのですか?」
「……もう50年くらい前の話になるかな。法学部に進学した私は入学してすぐに妻と出会ったんだ。妻は当時からとても美しく、すぐに惹かれた。将来は検察官や裁判官になりたいと志して法学部に進み勉強をしていた。ただ、入学して2ヶ月近く経ったある日、大学の近くにあった喫茶店の中にいるコーヒーを飲む妻の姿を初めて見たとき、もう彼女と一緒に喫茶店で開く未来しか見えなくなっていた。そして、そのことに根拠はないがとてつもない自信があった」
「そのとき、奥様とは……」
「一緒に講義を受けるようになって、少しずつ他愛のない会話もするようになってきたくらいだよ。ただ、コーヒーを美味しそうに飲む妻の姿を見た瞬間、本気で惚れたよ。気付けば、喫茶店の中に入っていて、妻の目の前に立ち……彼女にコーヒーと紅茶と、何よりもあなたが好きだと変な告白をしていたよ」
ははっ、とマスターは照れ笑い。マスターっていつも冷静だから、そんな大胆なことをするような人だとは思わなかった。奥様とも少しずつ親交を深めていって告白したのだと。
「意外にも行動派なんですね、マスターさんは。ちなみに、そのとき、奥さんはどのような返事をしたんですか?」
「凄く気になります! マスター!」
恋愛話ということもあってか、咲希と鈴音さんは凄く食らいついている。
「……妻はふふっと笑って、私のことをとても面白い人だと言ってくれた。そして、何だか、あなたとなら楽しい人生を送ることができそうな気がしたって言ってくれたよ。私の勘はよく当たるって。だから、あなたさえ良ければずっと一緒にいましょうかと」
「凄いですね、鈴音先輩」
「うんうん!」
2人はより興奮しているな。
「妻からずっと一緒にいようと言われ、気持ちが舞い上がった私は、それなら2人で喫茶店を開かないかと勢いで言ったんだ。コーヒーも紅茶も、料理も好きだからと。そうしたら、妻は『そのためにはこれから色々と勉強をしないといけないね』って言ってくれたんだ」
「……じゃあ、奥様はマスターの提案に反論することは……」
「……なかったよ、一度も」
それだけ、奥様の『勘』が鋭かったんだろうな。2018年になった今もこうしてシー・ブロッサムは営業しているのだから。
「妻の両親と私の母親は賛成してくれたが、父親だけは猛反対されてね。勝手にやれ、自分は知らないと勘当とも言える関係になってしまった。それでも、店を開きたいという気持ちは変わらなかった。調理師の免許はもちろん、商学部や経営学部の友人などに頼んで営業についても勉強した。そして、卒業してすぐに妻と2人でこの桜海市でシー・ブロッサムを開店したんだ」
「そうだったんですね。ただ、以前聞いた話ですと、開店してすぐのときはあまり上手くいかなかったと……」
「ああ。このお店を開店したときに、桜海市にやってきたこともあってか……なかなかお客さんが入らなかった。開店直後は赤字になる月が当たり前でね。試行錯誤を繰り返したよ。報われない努力の方が圧倒的に多いとそのときに初めて分かった。そんな状況だから妻とは入籍はしたが、お金があまりないから結婚式も挙げることができなくてね。来てくれたお客様には精一杯のおもてなしをして。それで何とか常連客も増えて、軌道に乗っていった。妻と出会ってから10年近く経ってようやく結婚式を挙げることができてね。そのときは常連のお客様がたくさん出席してくれて、私の父親にもようやく認めてもらえた。そのときに見せた妻の笑顔が一番好きだな。あと、家族も増えていったよ」
そして、それから長い間、シー・ブロッサムは、桜海市の中でも指折りの喫茶店にまでに成長したのか。僕の両親も明日香の両親も若いときには、デートのときに寄ったと聞いたことがある。
「法学部に進学したことも、妻と一緒にこのシー・ブロッサムを始めたのも、どちらもきっっかけはそれがとても好きだという気持ちからだった。これならやっていけるという勘だった。もしかしたら、既に誰かからアドバイスを受けているかもしれないけども、まずは好きなことや興味があることは何なのかを考えてみてはどうだろう。そして、その中からきっとこれだって思えることが見つかるだろう」
「……そうですか」
マスターの考えも咲希や羽村とさほど変わらないんだな。きっと、生きていたら奥様も同じようなことを言った気がする。
「翼君なら好きなこと、興味があることに一生懸命になれると信じているよ。少なくとも、ここでバイトをしている翼君はそうだったと私は思っている。だからこそ、最後に鈴音君への指導をお願いしたんだ」
「そうだったんですね」
「しかし、翼君から将来のことで人生相談をされるとは。小さい頃から君を知っているから、私はとても嬉しいよ」
「……2年以上バイトをさせてもらって、マスターなら何かアドバイスをいただけると思って相談をしました。好きなこと、興味があること、将来のこと……考えてみます。話してくださってありがとうございます」
僕はマスターに向かって頭を下げた。
すると、マスターは優しい笑みを浮かべながら右手を肩に乗せる。
「たくさん悩んで、そして進んでみるといい。失敗してしまったら、同じような失敗をまたしないように心がけて、再挑戦すればいいと私は思うよ。2人とも受験を頑張りなさい。鈴音君、そろそろ戻ろうか」
「はい」
マスターと鈴音さんはキッチンの方へと戻っていった。
「素敵な話を聞けたなぁ」
「うん。あと、咲希や羽村のアドバイスとほとんど同じだったね」
「そうだね。マスターの場合は結婚とかお店の話でもあったけれど。……翼もこれだって思えるものが見つかるといいね」
「……ああ」
土曜日までに見つけることができるのだろうか。少なくとも、こういうことを大学や専門学校で勉強したい、と思えるものを何個でもいいからはっきりとさせたい。
アイスコーヒーを飲むと普段よりも苦く、そして味わい深く感じられるのであった。
すると、国語、日本史、英語、数学、物理、化学、情報、家庭科など好きだと言えるものがたくさん出てきた。趣味の方から考えると小説、漫画、イラスト製作、音楽製作、プログラミング、写真、バイクなど。
好きなものや興味があるもの全然ないよりはいいだろうけれど、ここまで多岐に渡って好きなものがあるとこれはこれで迷ってしまう。この中から特に何が好きか。興味があるか。将来なりたい職業かを考えてみよう。
――プルルッ。
スマートフォンが鳴っているので確認してみると、発信者が『朝霧明日香』となっていた。通話に出るのにも緊張するな。一度、大きく呼吸をして、
「もしもし」
『つーちゃん、こんばんは。体調とか大丈夫? 昨日はあまり元気がなかったように見えたけれど』
明日香の声を聞くだけで安心できるな。心地よいドキドキが全身に伝わってくる。
明日香はもしかしたらずっと僕のことを考えていたのかも。
「心配掛けさせちゃってごめんね。実は昨日ぐらいから進路のことで急に悩んじゃってさ。でも、少しずつ考えを整理できるようになったから大丈夫だよ」
『そうだったんだね。それなら安心したよ。でも、相談したくなったらいつでも連絡してね。何か力になれるかもしれないから』
「うん。あと、今週の土曜日にある桜海川での花火大会なんだけど、今年も一緒に行かないか? 気分転換にいいんじゃないかと思って」
『行く行く! 実は今日、部活中にみなみんとその話もしたんだ』
「……そっか。絶対に行こうね」
『うん。約束だよ。じゃあ、またね』
「うん、またね。部活とか受験勉強頑張ってね」
『ありがとう。つーちゃんは……まずは進路選びか。この時期だけれど、焦らずにゆっくりと考えてね』
「うん、分かった。ありがとう」
僕の方から通話を切った。その瞬間に感じる寂しさと胸の痛みは初めての感覚だった。明日香のことが本当に好きなんだろうな。
「……何が一番いいのかな、僕にとって」
それからもっと深く考えてみるけど、なかなかこれぞいうものに絞り込めず、段々と頭が痛くなってきた。体に熱っぽさを感じた段階で、今日はもう進路について考えるのを止めるのであった。
8月16日、木曜日。
どんよりと広がる雲の所々の切れ間から、青空が見えている。暑さのピークは越えたらしいけど、それでも最高気温は31℃予想で蒸し暑くなるようだ。
勉強はして損はないと思うし、どんな進路を選んでも何かしらの役に立つと信じて今日も咲希と一緒に夏期講習に臨んだ。
まだ進路は決まっていないけれど、勉強は頑張ろうと心に決めたからか昨日よりは集中して講義を受けられ、小テストもそれなりの成績を取ることができた。
午後4時前に受講する予定の全ての講義が終わる。
「さてと、今日も全部終わったか」
「そうだね。何か、今日は普段通りの翼に戻ってきた感じがするよ。安心した」
「……まだ、進路は決まっていないんだけどね。とりあえず、勉強はしっかりとしようと思ったから」
「なるほどね。さすがに1日で決まらないよね。……そうだ、こういうときは人生の大先輩に話を聞きに行くのもいい気がするな」
「人生の大先輩か……」
僕が知っており身近にいる人だと、パッと思いつくのはマスターか。
「それもいいかもね。じゃあ、シー・ブロッサムに行ってみようか。確か、お盆休みも昨日くらいまでだったと思うから」
「うん! そうだね!」
急に眩しい笑みを見せるようになったけれど、本当はシー・ブロッサムに行って甘いものでも食べたかったんじゃないか? ただ、マスターに話を聞くのもいいだろう。お客さんがそこまで多くなかったら話を聞いてみるか。
僕は咲希と一緒にシー・ブロッサムへと行く。予想通り、今日は営業している。
扉を開けるとマスターと鈴音さんの姿が見えた。そして、僕らに気付いた鈴音さんが可愛らしい笑みを浮かべながらこちらにやってきて、
「いらっしゃいませ! あっ、翼君と咲希ちゃん。夏期講習の帰り?」
「はい! 今日は早めに終わったので、たまにはシー・ブロッサムでゆっくりするのもいいかなと思って!」
「ふふっ、そっか。……咲希ちゃんも元気そうで安心した。勉強お疲れ様でした。2名様、ご案内いたします」
今の鈴音さんの言葉からして、咲希は僕にフラれてしまったことを鈴音さんに話したようだ。
鈴音さんによってキッチンのすぐ近くの席に案内される。その際に店内の様子を見てみると、僕らを除いても数人ほどのお客さんしかいなかった。会話を楽しんでいる老夫婦、優雅に読書をしている若い女性とかなので、これならマスターに話を聞けるかな。
「ご注文はお決まりですか?」
「あたし、アイスティーと抹茶パフェで!」
「僕はアイスコーヒーで。あと、マスター……ちょっと相談したいことがあるんですけど、今は大丈夫ですか?」
僕がそう言うと、マスターは穏やかに笑って、
「……ああ、今の時間なら大丈夫だよ。少しの時間だけになってしまうかもしれないが。翼君と咲希君が頼んだメニューをお持ちしたら、その後に話そう」
「ありがとうございます」
「鈴音君。パフェの方を頼むよ。私が飲み物を用意するから」
「はい!」
マスターが相手だからか、相談する時間を設けてくれることになったら急に緊張してきた。何を言われるかがちょっと恐く思ってもいて。それでも、しっかりとマスターに相談しよう。
飲み物とスイーツだけなので、すぐに出来上がりマスターと鈴音さんがこちらにやってくる。
「お待たせいたしました、アイスティーとアイスコーヒーになります」
「抹茶パフェでございます!」
注文したものを僕らのテーブルに置くと、マスターと鈴音さんは隣のテーブルの席に座った。
「それで、翼君。私に相談してほしいことはどんなことかな」
「ええ、進路のことなんですけど……」
僕はアイスコーヒーを一口飲んで、
「一昨日くらいから急に将来のことが見えなくなってしまって。情けない話ですけど、明日香が側にいるっていう理由だけでこれまで歩んできたので。彼女から美術大学に進みたいと言われたとき、途端に自分って何をしていきたいのか分からなくなって。それで、奥様と一緒にお店を開いて、今も現役の店長として働いているマスターに相談したいと思ったんです」
「……なるほど。そういう類の悩みか……」
そうか……とマスターは呟いて腕を組む。こんな僕のことをマスターはどう思うだろうか。
「……恋と未来の悩みか。いいねぇ」
意外にもマスターは朗らかに笑いながらそう言った。
「大学で妻と出会ったときのことを思い出したよ」
「確か、マスターは奥様と一緒にこのお店を開いたんですよね。どういうことがきっかけで、開店まで辿り着いたのですか?」
「……もう50年くらい前の話になるかな。法学部に進学した私は入学してすぐに妻と出会ったんだ。妻は当時からとても美しく、すぐに惹かれた。将来は検察官や裁判官になりたいと志して法学部に進み勉強をしていた。ただ、入学して2ヶ月近く経ったある日、大学の近くにあった喫茶店の中にいるコーヒーを飲む妻の姿を初めて見たとき、もう彼女と一緒に喫茶店で開く未来しか見えなくなっていた。そして、そのことに根拠はないがとてつもない自信があった」
「そのとき、奥様とは……」
「一緒に講義を受けるようになって、少しずつ他愛のない会話もするようになってきたくらいだよ。ただ、コーヒーを美味しそうに飲む妻の姿を見た瞬間、本気で惚れたよ。気付けば、喫茶店の中に入っていて、妻の目の前に立ち……彼女にコーヒーと紅茶と、何よりもあなたが好きだと変な告白をしていたよ」
ははっ、とマスターは照れ笑い。マスターっていつも冷静だから、そんな大胆なことをするような人だとは思わなかった。奥様とも少しずつ親交を深めていって告白したのだと。
「意外にも行動派なんですね、マスターさんは。ちなみに、そのとき、奥さんはどのような返事をしたんですか?」
「凄く気になります! マスター!」
恋愛話ということもあってか、咲希と鈴音さんは凄く食らいついている。
「……妻はふふっと笑って、私のことをとても面白い人だと言ってくれた。そして、何だか、あなたとなら楽しい人生を送ることができそうな気がしたって言ってくれたよ。私の勘はよく当たるって。だから、あなたさえ良ければずっと一緒にいましょうかと」
「凄いですね、鈴音先輩」
「うんうん!」
2人はより興奮しているな。
「妻からずっと一緒にいようと言われ、気持ちが舞い上がった私は、それなら2人で喫茶店を開かないかと勢いで言ったんだ。コーヒーも紅茶も、料理も好きだからと。そうしたら、妻は『そのためにはこれから色々と勉強をしないといけないね』って言ってくれたんだ」
「……じゃあ、奥様はマスターの提案に反論することは……」
「……なかったよ、一度も」
それだけ、奥様の『勘』が鋭かったんだろうな。2018年になった今もこうしてシー・ブロッサムは営業しているのだから。
「妻の両親と私の母親は賛成してくれたが、父親だけは猛反対されてね。勝手にやれ、自分は知らないと勘当とも言える関係になってしまった。それでも、店を開きたいという気持ちは変わらなかった。調理師の免許はもちろん、商学部や経営学部の友人などに頼んで営業についても勉強した。そして、卒業してすぐに妻と2人でこの桜海市でシー・ブロッサムを開店したんだ」
「そうだったんですね。ただ、以前聞いた話ですと、開店してすぐのときはあまり上手くいかなかったと……」
「ああ。このお店を開店したときに、桜海市にやってきたこともあってか……なかなかお客さんが入らなかった。開店直後は赤字になる月が当たり前でね。試行錯誤を繰り返したよ。報われない努力の方が圧倒的に多いとそのときに初めて分かった。そんな状況だから妻とは入籍はしたが、お金があまりないから結婚式も挙げることができなくてね。来てくれたお客様には精一杯のおもてなしをして。それで何とか常連客も増えて、軌道に乗っていった。妻と出会ってから10年近く経ってようやく結婚式を挙げることができてね。そのときは常連のお客様がたくさん出席してくれて、私の父親にもようやく認めてもらえた。そのときに見せた妻の笑顔が一番好きだな。あと、家族も増えていったよ」
そして、それから長い間、シー・ブロッサムは、桜海市の中でも指折りの喫茶店にまでに成長したのか。僕の両親も明日香の両親も若いときには、デートのときに寄ったと聞いたことがある。
「法学部に進学したことも、妻と一緒にこのシー・ブロッサムを始めたのも、どちらもきっっかけはそれがとても好きだという気持ちからだった。これならやっていけるという勘だった。もしかしたら、既に誰かからアドバイスを受けているかもしれないけども、まずは好きなことや興味があることは何なのかを考えてみてはどうだろう。そして、その中からきっとこれだって思えることが見つかるだろう」
「……そうですか」
マスターの考えも咲希や羽村とさほど変わらないんだな。きっと、生きていたら奥様も同じようなことを言った気がする。
「翼君なら好きなこと、興味があることに一生懸命になれると信じているよ。少なくとも、ここでバイトをしている翼君はそうだったと私は思っている。だからこそ、最後に鈴音君への指導をお願いしたんだ」
「そうだったんですね」
「しかし、翼君から将来のことで人生相談をされるとは。小さい頃から君を知っているから、私はとても嬉しいよ」
「……2年以上バイトをさせてもらって、マスターなら何かアドバイスをいただけると思って相談をしました。好きなこと、興味があること、将来のこと……考えてみます。話してくださってありがとうございます」
僕はマスターに向かって頭を下げた。
すると、マスターは優しい笑みを浮かべながら右手を肩に乗せる。
「たくさん悩んで、そして進んでみるといい。失敗してしまったら、同じような失敗をまたしないように心がけて、再挑戦すればいいと私は思うよ。2人とも受験を頑張りなさい。鈴音君、そろそろ戻ろうか」
「はい」
マスターと鈴音さんはキッチンの方へと戻っていった。
「素敵な話を聞けたなぁ」
「うん。あと、咲希や羽村のアドバイスとほとんど同じだったね」
「そうだね。マスターの場合は結婚とかお店の話でもあったけれど。……翼もこれだって思えるものが見つかるといいね」
「……ああ」
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