健康優良男子が不健康女子に片思い中です。

法花鳥屋銭丸

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中学編

中三・小寒の末候③

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 ちゃぷちゃぷと、小さな水音。

 1階の奥、トイレ近くにある小さなアルミ製の流し台で、イコは顔を洗っていた。薄暗い中、蛍光灯の明かりも淡く寂しい場所だ。俺は屈む小さな背中へ近づく。

 そんな寒い場所で、長々冷たい水を触って。
 熱が出るぞ、イコ。

 蛇口をしめて頭をあげ、濡れた顔にハンカチを当てたイコは、俺に気がついて動きを止めた。拭ききれなかった雫が、いくつもいくつも肌を転がり落ちていく。
 俺はその雫をぬぐい、右手をイコの頬を包むように添える。冷たい。

「ありがとう」

 赤くなった目を閉じて、イコは俺にされるがままになる。病弱で人の手を借りるのが当たり前だったイコは、他人の手を拒絶することを知らない。
 その、かすかに上げられた、噛んでしまって傷ついた唇を、俺がどんな目で見つめているかもわからずに。

「ごめんね、岩並君」

 弱々しい声。

「たくさん岩並君にお勉強教えてもらってたのに、高校生になりたくないなんて、私、最低だね」

 言葉を紡ぐほどに、それが涙声に変わっていく。

「受験前に寝込まないように、たくさん気を配ってくれたのに。岩並君の憧れてた学校なのに。一緒に受かって喜んでくれたのに。可愛い御守だってくれたのに」

 閉じた目に、再び涙がたまりはじめた。

「ごめんね、ごめ」

 謝罪なんかもう聞きたくない。頬に添えたままの右手、その親指で、動く途中の唇を押さえて止めた。その柔らかさと呼気に泣きたくなる。こんなに柔らかくて傷つきやすい場所を、自分で噛んだのか。

「謝るな」

 下唇の傷を親指の腹でなぞる。この傷が俺に移ればどんなにいいだろう。自分の身にはたいしたことのない傷でも、それがイコの体にあるというだけで耐えられない。
 自分を傷つけたりしないでくれ、イコ。ただでさえ病弱で、壊れそうに細い体なんだから……。

「俺が気を配ったり、勉強を教えたり、御守渡したりしたのは、嫌だったか?」
「ううん。嬉しかった……」

 小さな唇の動きを指に感じて切なくなりながら、俺は質問を続ける。

「俺と一緒の高校に受かったのは、嫌だったか?」
「嬉しかった。嬉しかったけど、たださよならが嫌で怖くて、辛いの」
「じゃあ、いい。いいんだ。謝るな」
「でも、岩並君に、私」
「遠慮なんかいらない。本音を聞かせてくれイコ、それが一番嬉しい。俺にとって嫌なものでも構わないから。やせ我慢して、耐えきれなくて、他で泣くなんてやめてくれ」

 この唇から出る言葉の全てが、俺にとって宝物だから。それに傷つけられようと、イコの声が届かぬ場所にいるよりよほどいいから。

「お願いだ、約束してくれ、イコ」
「うん……。約束、する」

 俺はイコから手を離し、横から流しを使いハンカチを濡らした。水がたれないよう強く絞って、イコに向き直る。
 赤い目、腫れた目元。けれど変わらぬ、深く深く濃い瞳。途方に暮れたように立ち尽くしてイコは俺を見つめる。

「ほら、目元を冷やせ。そのまま帰ったら、俺がイコをいじめたと思われるだろう」
「岩並君はそんなことしないよ、ママも知ってる」
「うちの女性陣に責められる……。ほら、目を閉じてくれ、冷やせない」

 細長く畳んだ濡れハンカチでイコの目元を覆う。どこまでも素直に、従順に身をゆだねてくるイコがいじらしくて可愛い。

「さよならするのは辛いな、一気に環境が変わるのも。辛くて悲しいのは、それだけ今の環境を大切に思ってるってことだろう? 伊井先生はああ言ったけど、俺は泣いてもいいと思うんだ」

 泣いてもいい、辛いと口にしていいんだ。
 だけど。

「この先、イコを大事にしてくれるひとたちと出会えるかもしれないだろう? この、塾の先生たちと出会えたように。怖いかもしれないけど、これから先を嫌がらないでほしいんだ。それに」

 そして俺は、ちょっと胸を張れない事実を口にする。

「イコ、将来の事なんて、俺も決められてないんだ。空手がやりたいだけで学舎を選んだから。ただの空手馬鹿だ」
「岩並君は馬鹿じゃない」

 きっぱりと否定され、苦笑する。

「ありがとう。でも進学についてはそうだったんだ。空手以外考えなかった」

 空手で身を立てるつもりはない。ただ、大好きな空手へ熱中できる、一番の環境が欲しかったのだ。学舎に行きたかったのはそのためだ。
 未来の事なんてまだ、何も決められていない。お前と同じだ。
 だから。

「これからいろんな所へ行こう。行けなかった夏祭りも、初詣も、塞ノ神も全部行こう。そうして、いろんなひとと会おう。いいひとも嫌なひともいるだろうけど、接しているうちに、自分がなりたいものも見つかるんじゃないかと思う」

 イコの目元、ハンカチをそっと取りのける。
 繊細なまぶたが、まつげが震え、ゆっくり目が開かれる。
 俺を見上げる、潤んだ深い深い色。瞳孔も虹彩も際が分からないほどに濃い瞳。

 世渡イコ。
 大事な大事なお姫様。
 か弱く華奢で小さな体と、世界を楽しむ感性と、傷つきやすい心を持った、俺の大好きな女の子。

「一緒に、なりたい自分を探そう」

 そうして、お前の未来に俺を加えてくれよ、イコ。


 ◇


 まるで門出を祝うように、四方に薔薇が咲き乱れている。いつも夢で見るつる薔薇。柔らかな色使い、ピンクとクリームのグラデーションが続く。

 さあ鳥籠の残骸は、と探すと、崩れ落ちていた天蓋や柵も全て植物に覆われ、銀色なんてどこにもなくなっている。ただ、土台と、白いサテンのクッションだけが元の姿を留めていた。
 クッションの前に膝をつく。

「イコ」

 こびとのように小さな体に、ピンク色のワンピース、髪に毛糸の花飾り。
 こちらに背を向けて、ちょこんと座っていたイコは、ゆっくりと俺の方へ振り向く。

「迎えに来た、イコ」

 俺は右手を差し伸べ、イコへ呼びかける。

「いろんなところに行こう、いろんなひとに会おう。そうして、イコが好きだと、素敵だと思えるものをたくさん探そう」

 イコはじっと俺を見上げている。無垢な幼子のように、ひたすらまっすぐに。

「一緒に、これからの未来を見よう。なりたい自分を探そう。誰にも譲れない大切なものだって、見つかるかもしれない」

 少なくとも俺はひとつ見つけた。大事な大事な女の子。大好きなイコ。
 お前を。

「俺と一緒に行かないか、イコ」

 俺を見つめるイコの顔、その唇がきゅっとひき結ばれた。俺の小指より細い腕が上がる。小さな小さな手が、差し伸べた手に伸ばされる。

 ざあっ。

 強い風が吹いた。巻き上げられた薔薇の花びらに襲われて目が開けない。それでもイコの楯になろうと耐える。

「岩並君」

 風が止んだと同時、イコの声に目を開く。
 俺の手に小さな手を重ねて、本当の大きさのイコが俺の前にいた。
 ピンク色の、お姫様みたいなワンピース。ふわふわの髪には毛糸で編まれた白い花。大好きな深い色の眼差しが、真っ直ぐ俺に向けられる。
 俺はその小さな手をつかみ、支えながら一緒に立ち上がる。


 イコが、はにかんだように笑った。

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