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春風小路二番町胡桃堂こぼれ話
くるみと足の一年目。
しおりを挟む「覚えていたかい、くるみ。一年前の今日は、ちょうど祝言をあげた日だ」
後ろからすっぽりとくるみを腕に抱きしめ、足はくるみの大好きな、穏やかで柔らかい声で静かに話す。
「くるみ、くるみ。大事なくるみ。可愛い、可愛い、健気なくるみ」
優しい頬ずりに、胸の奥が甘くくすぐったくなる。
「お前さんが、変わらず愛しくてたまらない。これからもずうっと、俺と一緒にいておくれ。ねえ、俺の可愛い天女様。羽衣を見つけたって、天には帰らないでおくれよ?」
愛しているよとささやかれ、くるみは愛しい夫の腕の中、目を閉じてその熱を確かめていた。
今このとき、くるみは間違いなく幸福なのだった。
◇
「じゃあ奥様、今日はこれで下がらせていただきます」
「お休みなさいませ」
洗い物や片付けを一緒に終えると、奥向きを手伝ってくれているお蔦と見習いのおたえはくるみに頭を下げた。くるみもまた頭を下げて見送る。
女手ひとつで育てた娘が嫁に行ったからと、住み込みで働く場所を求めて胡桃堂へ来たお蔦は「肝っ玉かあさん」と言う呼び方がしっくり似合う気のいいひとだ。奉公人の子どもたちからも慕われている。
おたえは静かなまなざしが印象的な賢いむすめで、奉公人の子どもたちでは紅一点だが、ぶつかることもなく上手に過ごしているようだ。
くるみは、台所にひとりになったところで火の始末を確認すると、しゃがみ、かまどに向かって呼びかけた。
かまど様、今日も一日ありがとう。また明日ね。
ふとかまどに、小さな影が現れた。浴衣姿に赤ら顔の、手のひらにのるほど小さな青年がかまどの端に腰掛けている。
また明日っておめえ、これから湯も沸かすし、行灯だって灯ってるだろが。
不満げに口をひん曲げて言う青年の隣には、ふくふくとぽっちゃりした娘が笑顔で寄り添っていた。
火男とおかめ。
夫婦であるこの精は、そろうことでかまど神と呼ばれる。
それも、見ていてくれるでしょう?
くるみの言葉にふん、と彼が鼻を鳴らした拍子に、パチパチッと火花が飛んだ。ちい福なんかはこれが苦手で、大事な毛皮が焦げたら困ると、毎朝顔を出すのもおっかなびっくりなのだという。
小さな青年はつまらなそうに、さっさとかまどへ飛び込んだ。同じように小さな娘も、大丈夫、というようにこちらへ手を振って、かまどに消える。
くるみは、おかめに振りかえした手を下ろし立ち上がった。今度は厠へ向かう。
厠神、お部屋様は自分の場所を綺麗にしてもらっている間は悪さをしないどころか、小さな幸運を授けてくれる。いる場所が限られることをのぞけば、その性質は座敷童に似ているのだ。
胡桃堂が改築でできる前からいる精で、気位が高い。
改築が終わり胡桃堂が開店して、半年と少し。胡桃堂に住むひとならぬものとは割合早くうちとけたし、店の仲間として集まった人々は、個性的ではあるものの仕事熱心で、くるみにも優しいひとたちばかりだった。
それぞれが悩みや困りごとを抱えていたようだったが、胡桃堂に雇われることでほとんどの問題は消えたらしい。雇うときに足が話をして、見舞いをしたり、医者を紹介したりと気を配っていたからだろう。
そもそもが、胡桃堂の条件は破格なのだそうだ。
給料は並、だが望めば仕事を増やし多めに得ることもできる。職人たちなど成人している奉公人には格安で店裏の長屋に住まわせ、面倒を見る。小僧たちがお店に住むのも他と同じだが、食事や寝る時間などはきちんと考えられていた。
世間では、小僧の扱いはあまりよくないらしい。足りない食事、眠る間もないほどの仕事で体を壊し、可哀想に家へ帰される子どもが後を絶たないという。
「だって、育ち盛りだよ。たくさん食べてぐっすり寝なきゃだめだろう」
どうせなら誰も彼も、安心して気持ちよく働いてほしいのだ、という足の意見に、くるみも賛成である。
厠が綺麗なことを確かめてお部屋様に挨拶をし、部屋へ戻る。
職人たちは長屋の方に帰ったが、足はまだ店側で、今日の商いのことなどを番頭の源助や手代の源吉と話している。
足とくるみ以外でこの家で寝起きをしているのは小僧たちと見習いのおたえ、そしてその世話も任されたお蔦である。彼らはくるみたちと中庭を隔てたむこうの部屋を使っている。
くるみたちの部屋や客間などがあるこちらには、用事がない限り来ることはなかった。
きっと今頃、小僧たちは大騒ぎをしながら布団を敷いているだろう。お蔦とおたえはふたりで一室を使うから、襖を隔てて聞こえてくる物音に苦笑しているところだろうか―――。
おーい。
部屋へ戻る薄暗い廊下の途中、天井から福鼠がくるみの肩へ飛び降りてきた。
番頭と手代が帰ってったよ。おいら、鍵を閉める旦那の後について回って確かめたけど、戸締まりは完璧さぁ。
器用に後ろ足で立ち上がり、得意げに言う。ふふん、と胸を張るちい福の小さなお腹を、くるみは指でくすぐった。柔らかくてあったかい。
ありがとう、ちい福。これから寒くなるけど、ほこらの中が寒いようなら、綿を用意するから言ってね。
くるみの指に腹を撫でられ、小さな体が身もだえて、笑い声をこぼす。
うう、くしゅぐったい……。だいじょぶさあ。お山がくれた苔があるから、ぬっくぬくってもんよ。じゃ、おいらも寝るよ。座敷童、また明日。
おやすみなさい、とこたえる間もなく、金の毛並みの鼠は廊下へ飛び降りちょろちょろ走って消えてしまった。
これで一日の仕事も終わりである、くるみは部屋に急ぐ。
そのうちに、今日の仕事を終わらせた足も来るはずだ。早く帳面を書かなければ。
◇
今日のことを思い返しながら、くるみは机に向かい、帳面を埋めていく。
胡桃堂で商いが始まってからこちら、帳面はすぐに埋まってしまうようになった。商売のこと、お客のこと、暮らしのこと。筆にしたい項目が多すぎるのだ。
けれど足は、長くなった文にも嫌な顔ひとつせずゆっくりと見て、くるみに答え、また一緒に考えてくれる。
くるみを後ろからすっぽりと抱きかかえながら話す足の優しい声を聞く時間も、くるみにとってかけがえのないひとときなのだった。
「くるみ、入っていいかい」
廊下から足の声がして、くるみは帳面を閉じた。足早に襖まで行き、そっとあけると目を見開く。
「ああ、ありがとう、助かったよ。両手が塞がっていてね」
襖の向こうには、右手に南部鉄器の鉄瓶を下げ、左手に湯呑みを載せた盆を持ち、にこにこしている足の姿があった。
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