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春風小路二番町胡桃堂こぼれ話
御新造と湯 其の一
しおりを挟む「くるみ、湯が沸いたよ。手伝いはいるかい?」
襖を開け、夫がひょこっと顔を出した。額に汗の浮いた足の顔を見て、くるみは笑顔になると、浴衣姿でゆるく頭を振った。とうに髷は足の手でほどかれ、首の後ろに束ねられている。
「そうかい。じゃ、何かあれば大きい物音でもたてておくれ。すっとんでいくからね!」
うん、と頷いて、くるみは手ぬぐい片手に立ち上がった。足の横を通って部屋を出……ようとして、止まる。
「ん? どうしたんだい」
不思議そうな足の正面に立つと、腕を伸ばし、片手に持った手ぬぐいで夫の額の汗を拭く。
ぽん、ぽん、ぽん。
こするのではなく、優しく布を押しつけ汗を拭けば、足はとろけそうな笑顔になった。
「ありがとうよ、くるみは優しいねえ。さ、ゆっくりお湯に浸かっておいで」
◇
胡桃堂の店主が妻に首ったけなのは周知の事実であるが、その溺愛ぶりは水回りにも及んでいる。望んだときに使えるようにと、寝起きする部屋のそばに風呂があるのだ。
最近、据風呂を持つ家も出はじめたとはいえ、やはりほとんどの者は湯屋へ行く。湯屋は社交の場でもあるが、口のきけぬ妻が心配、というのは夫の建前だ。湯上がりに肌を桜色に染め、しどけない姿で妻に出歩いてほしくないのが本音である。
くるみはそこまでわからない。
「ねえ、くるみ。誰もが使うからね、湯屋の湯は朝一番に行かないときれいじゃないんだよ」
うん。
「誰もが来るから、当然、柄の悪い人間もいるし」
うん。
「男湯と女湯で分かれているから、俺も一緒にはついてあげられない」
うん。
「だからねえ。心配なんだよ。どうしても行くなら、祖母様に頼んで連れて行ってもらいなさい」
言い聞かされたくるみは、足が据風呂を置いてくれたことだし、そこまでしなくていい、と、今のところ湯屋に行かずにいる。
足が据えてくれたのは、江戸風の鉄砲風呂である。
上方風の五右衛門風呂は、風呂自体が大きな鋳鉄の釜だ。江戸風は木の風呂桶の端に、薪などの燃料をくべて湯を沸かす、鋳鉄製の筒がついている。この筒を「鉄砲」 と呼ぶのが名の由来になっていた。
蓋を外せば、もうもうと湯気が上がる。
風呂の湯を汚さぬように髪をくくり直したくるみは、体を洗い流してから湯に浸かる。体をゆっくり沈めれば、熱すぎずぬるすぎず、ちょうどいい。
ほう、とため息が出る。
女が長い髪を洗うのは、半日がかりの大仕事になるものだ。普通なら、七日に一度はいいほうで、場合によっては月に一、二度。湯屋は洗髪禁止だから、女たちはたらいに湯を張って肩脱ぎになり、家の裏や土間などで洗うことになる。
「そんなことしてたら風邪をひいちまうよ! どうせなら、ゆっくり風呂に入って頭も洗えばいいよ」
と、足はどこまでも妻に甘い。
この風呂の水を汲むのも薪を運ぶのも、足は使用人に頼まない。自分なら濡れ手ぬぐいで体を拭く程度で十分だと言う足は、くるみのためなら嬉々として湯を沸かす。
今日のようにくるみが髪も洗うときなど、乾かすのも大変だろうと、仕事を早く片付け手伝いにくるのだ。
自分は午後から帳場から外れるし、足まで追いかけるように店から抜ける。大丈夫なのだろうかと、以前くるみは番頭の源蔵に、筆談できいてみたことがあるのだが。
「いえね。そういう日の旦那様は、奥様を手伝うのだと、仕事も決断も手早くなられます。お優しいかたでしょう? これをすると誰々が忙しくなる、なんて、普段ならお悩みになり結論が出ないことでも、この日はすぱっとお決めになる。奥様はもう、毎日でも御髪を洗われたらよろしいですよ」
と、穏やかに笑われてしまった。
とりあえず、困ったことはないようだ。
しばらく温まってから、たらいに湯をくみ出して頭を洗おう、なんて考えていると、ちいちい、と笑い声が聞こえた。顔をあげて上を向く。
日も高いうちから旦那をあごで使って、のんびり風呂たあ、お大尽だねえ。
戸口のうえから顔を出して、福鼠がこちらを見ていた。からかうように笑う。
失礼ね、あごで使ってなんかない。足は優しいひとなの。あんただって知ってるでしょう?
言いながら、くるみは手桶に湯を少し入れ、ちょいちょいと鼠を指で手招きする。
おお、そんならご相伴にあずかろうかな!
ちい福は嬉々として降りてくると、くるみの差し出した手のひらへ乗った。くるみは金の毛並みの福鼠を、そのまま手桶の中へ入れてやる。
ほふ~。いい湯だねえ。
手桶の中に尻をつき、金の毛を湯にふよふよさせるちい福は、なんだかんだで風呂好きなのである。普通の鼠なら体の油がとれて具合が悪くなるだろうが、ちい福は福鼠だ。湯に浸かる気持ちよさをおぼえて以来、なんだかんだと憎まれ口を叩きつつ、こうして入れてもらいにくる。
なんだかんだと図々しいが、なんだかんだと憎めない鼠だ。
座敷童、いつもこうやって早めに湯を使やぁいいのに。火の始末の後じゃなきゃ、かまど様も怒るまいよ。
湯にふよふよと浮かび、ゆっくり回る手桶の中で福鼠は目を細めた。くるみは答えずに、小さく肩をすくめる。
風呂はこうして沸かした湯へ浸かるより、汲みあげて体を流したり、拭いたりするのに使う方が多い。
たいていは夜更けだ。
それも、足と睦み合った後ともなれば、火じまいはとうに終わっている。火の始末を終え、かまど神に挨拶をした後に沸かすのだ、どうしたってかまど様は不機嫌な顔をする。火男の口は尖りっぱなしだ。
それでも、夜のうちに体が清められればまだいい方で、足にたっぷり可愛がられた身のまま眠ってしまえば、朝湯となってしまう……。
褒められた話ではない、朝寝・朝酒・朝湯で身上潰すと言うではないか。座敷童が家を傾けるなど笑い話にもならない。
湯の回数を減らそうか。それとも……。と、くるみが身を縮め考え込んだ拍子に波が立ち、小さな桶の回りが早くなる。
わはー、回る回るー。
どうしようか、でも沸かしてくれるのは足だし、せっかくしてくれるのを断るのも……。
ねえねえー。おいらちょっと回りすぎじゃないー?
桶と一緒に回る福鼠そっちのけで考えつつも、やっぱり湯は気持ちいいのだった。
◇
「おや、あがったね。ささ、ここへおいで。湯冷ましをおあがりよ」
悩んでも結論は出ず、ほかほかと体から湯気をたてながら部屋へ戻れば、足が笑顔で迎えてくれた。言われたとおりに座れば湯呑みを持たされ、湯冷ましを飲んでいる間に髪を拭かれる。
長くたっぷりとした黒髪は、なかなか乾くものではない。足は大きな手で布を使い、濡れて重い髪から雫を取る。
「ああ、烏の濡れ羽、黒々きれいな髪だねえ。女の命だ、大事にしなきゃ。痛くないかい?」
優しくきいては、せっせと濡れた髪から水を拭き取る。
布というのはなかなか高いもので、古いぼろでも取っておくのが当たり前。手ぬぐいの一本だって大事に使うのが普通だ。こうして今、くるみの髪を拭っているのは古い男物の浴衣である。くるみと暮らし、濡れ髪始末の大変さに目を丸くした足が出してきたのだ。
「こんなもの、ぼろだからかまやしないよ。むしろ、くるみの髪を拭けるなら、寝巻の果てにぞうきんになるよりゃ出世だね」
慌てて遠慮したくるみに言い聞かせ、以来それを使って甲斐甲斐しく世話をしてくれる。
「女のひとは大変だ。きれいでいるっていうのは本当に、労力のいることだねえ。お前さんが、いつもきれいで可愛くいてくれるのにも、感謝しなくちゃならないよ。ねえ、くるみ」
わざと真面目な様子で冗談を言うものだから、くるみはくすくす笑ってしまう。足の優しい手はあらかた水気を取ると、今度は櫛で髪の流れを整え始めた。目を閉じしばらく身をゆだねたのち、くるみは振り向いてその手に手を重ね、制止する。
「後は自分でするかい? そうかい、わかったよ。じゃあ、ひと風呂浴びてこようかな。風呂上がりのきれいなくるみに、まさか、汚い体じゃ寄り添えないからねえ」
上気していたくるみの頬が、さらにぽっと赤くなった。夫は、未だに初々しさの抜けない妻の様子に笑い声をあげる。
まだもうしばらくは、かまど様の不機嫌な日々が続きそうである。
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