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授かりもの顛末
御新造と御新造 其の一
しおりを挟む「……あんた、胡桃堂の女将だね?」
淡い縞が入った白い絽の着物を粋に着こなしたひとは、くるみを見降ろして目を細めた。丸髷の櫛も簪も簡素で、潔ささえ感じさせるいなせな美人だ。
「あたしは成鐘屋のお久美さ、あんたの旦那に袖にされた元許婚だよ」
そうしてそのひとは、きれいに塗ったくちびるの片端をあげてにっ、と笑った。
◇
暖簾の内側に入った途端、くるみの夏の日差しに慣れた目がくらんだ。一拍遅れて、明るい声がかかる。
「胡桃堂の御新造さん、いらっしゃいまし! 今日も可愛らしいお供連れですねぇ。さ、どうぞこちらへ」
働き者の甘味処の女将さんは、くるみと付き添いのおたえを流れるように素早く席まで案内してくれた。入り口でまごまごする暇などありはしない。
「奥様、どうぞ。気をつけてお座りください」
働き者の娘が腰掛けを座りやすいよう動かしてくれる。伝えられない礼の代わりににっこり笑って、くるみはそっと腰掛けた。それを確かめてから、おたえも向かいに座る。
土間の机と腰掛けは、大きなお腹のくるみにはありがたい。この体で小上がりはあがりにくいのだ。
「今日もお暑うございますねぇ。何になさいます?」
黒繻子の襟、縞の着物を涼しげな浅葱の紐でたすき掛けした女将は、声の出せないくるみのために品書きを差し出す。
「白玉もわらび餅も、冷たーい井戸水で冷えてますよ、とおすすめしたいところですが。胡桃堂の御新造さんには、お団子の方がいいでしょうかねえ……あ、いらっしゃいまし!」
話している途中で訪れた客へ声をかけると、女将は「また参りますね」と笑顔を残して席を離れる。店は涼を求めるひとで盛況だ。
この湊町に来た当初、足に連れてきてもらった甘味処は、くるみの行きつけになっていた。最近はこうして散歩の合間に寄ることが多い。
どんなに店が忙しくても、ここの女将はくるみを気遣ってくれる。優しい足の周りのひとも、やっぱり優しいひとたちばかりだ。大変ありがたい。
自分は本当に恵まれているとくるみは思う。
気遣いといえば。
身ごもって以来、足に何くれと気を配られて、くるみはほとんど仕事らしい仕事をさせてもらえなかった。
「くるみ、くるみ、いとしいくるみ。無理はしないでおくれ、お前さんが心配なんだよ。みんながいてくれるから、今は甘えておこうよ、ね?」
くるみの手をなでながら足が真面目な顔でそう諭すので、うん、と頷いたものの、胡桃堂ができてから毎日忙しくしてきた座敷童には退屈な日が続いた。
小さなおさよの世話といっても、あの子は役に立とうと懸命で手がかからないし、あとはおむつや産着を縫ったり、帳簿を確かめるくらいだ。大変ものたりない。働き者が大好きな座敷童は、おのれも何かせずには落ち着かないのだ。
久しぶりに見舞いに来てくれたおふくさんは、そんな様子をすぐに察したらしい。
「家に閉じ込めて何もさせないってのはどういう了見だい。あんまり動かさないでいると、難産になるよ!」
「ひえっ!?」
祖母の言葉に足は飛び上がった。
無理をしないという約束で、中庭の畑仕事も散歩も解禁になり、くるみは時折こうして誰かに付き添ってもらいながら、湊町を歩いている。嬉しいことに、足が一緒の時もある。
「奥様、何になさいます? 今日は水羊羹もあるみたいですよ!」
数えで十のおたえは、品書きを見ながら華やいだ声を出した。
足がおさよを連れてくるまで、下働きの子どもの中では紅一点だった娘は、朗らかでしっかり者だ。影法師などの子守の精もとうにいない。
きっと、安心して離れていったことだろう。兄弟が多いというから、下の子へ移っていったのかもしれない。
「あんまり冷たいものはよくないって言いますけど、こんなに暑いんじゃ、少しは体冷やした方がよくないですか」
妊婦は体を冷やしてはいけない、冷たいものもよくない、というのはよく知られているところだが、おたえはくるみが暑さに負けるのを心配してくれているようだ。
「うちの母も、身重の夏は『暑い暑い』って、よく井戸で冷やしたもの食べてましたよ」
なるほど、少しくらいはいいかもしれない。くるみは白玉の字を指さすと、品書きをおたえへ押す。
「えっ、あたしはいいです! そんな、こないだも、ところてんをいただいたのに。今度おさよちゃんを連れてきてあげてください」
小さな奉公人仲間への優しさを見せながら、おたえは手を振って断る。
くだんのおさよは、今の時間、寺子屋で下の年の子に混じりながら懸命に字をさらっていることだろう。あの子にも、何か甘いものを持って帰ってあげよう。
くるみは首をかしげながら、おたえが注文を決めるのを待つ。
「いえ、その、本当にけっこうで、ああっ!?」
おたえが手を大きく振った拍子に、ひらりと品書きが飛んだ。ひらりひらりと宙で揺れた紙は、くるみの足元へ滑りこむように落ちる。
「ごめんなさい奥様、拾いますからっ」
慌てる娘を手で制し、くるみはゆっくりと屈み込んだ。大きなお腹で動きにくいが、くるみの方が紙へ近い。体をひねり手を伸ばし、ようやく掴む。
机へ片手をついて身を起こそうとした瞬間、どん、と肩に衝撃を感じた。
目の前いっぱいに趣味のいい絽の着物。どうやら、通路を歩いていた女のひとの脚にぶつかってしまったらしい。慌てて起き上がり、申し訳ないと頭を下げる。
すみません! とおたえが代わりに謝ってくれるのが聞こえた。
「なんだいご挨拶だねぇ。ぶつかったのは自分なのに、奉公人に謝らせるのかい。とんだ奥様だね!」
不機嫌な声は、若い女性の割に伝法である。気圧されたか、「違うんです!」とこたえるおたえの声が悲鳴に近い。
「うちの奥様は、言葉が出ないんです」
「言葉が出ない?」
不審げに言われ、くるみは顔をあげた。
供を連れて席の横に立っているのは、とてもきれいな女性だった。気の強そうな切れ長の目、淡い縞が入った白い絽の着物を着こなした姿は、どこかの女将といった雰囲気。丸髷の櫛も簪も簡素なのに粋だ。小股の切れ上がったいい女、というのはこういうひとを言うのだろう。
素敵なひとだ。
「若い商家の御新造、言葉が出ない、しかも身重だ。間違いないね」
そのひとは、くるみを見降ろして目を細める。
「……あんた、胡桃堂の女将だね?」
どうして知っているのだろう、どこかで会っただろうか。不思議に思いながらくるみは頷く。
「あたしは成鐘屋のお久美さ、あんたの旦那に袖にされた元許婚だよ」
……え?
一瞬、何を言われたのかわからなかった。おたえが息をのむのが聞こえる。
いいなずけ?
このひとが。
お山でくるみと会ったとき、足にはすでに許婚がいた。婿入りが決まり、祝言をあげる直前だったという。それを反古にして、方々へ不義理を重ねながら、足はくるみを妻にした。
優しい足はくるみに、そのことについて詳しく話さない。
優しい回りのひとは、くるみは全く悪くない、としか言わない。
ああ、ああ、でも。
私が。
私がこのひとから足を取ったのだ。
すうっと、くるみの血の気が引いていく。
そのひとは、まるでくるみの動揺を楽しむように、きれいに塗ったくちびるの片端をあげてにっ、と笑った。
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