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第三十話 呪い
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頭上に浮いたままの鋏が微かに揺れていた。
「抱きしめながら、素敵過ぎる彼の夢を、黙って聞いていたわ。かっこよすぎる彼のことを、より好きになった。この人は、どれだけ私を夢中にさせるんだろうって。そして、彼の腕が大きく震え出したの、そのまま締め殺されるくらいに、強く抱きしめられた。そこで殺してくれていた方が、今となっては幸せだったんじゃないかって思うの。このまま会えないなら、彼の腕の中で死にたかった……」
しばらく長い沈黙が続いた。息の吸い方が分からなくなりそうで、私は彼女にかける言葉を探していた。
「……彼はね。こっちも震えちゃうくらいに抱きしめていた私を、力強く引き剥がして、両肩を掴んだの」
彼女は鋏を持ったまま、私の両肩を後ろから掴んだ。その手は痙攣するように酷く震えていた。
「そしてね、こう言ったのよ。『本当にごめん。別れよう』って。彼は大袈裟すぎるほどに涙を流していた。こんなに泣いている姿は見たことが無かったけれど、本当は別れたく無いんだって、すぐに分かったの。だから私は彼に抱き付いた。何度も引き剥がされても、駄々をこねる子供のように、嫌だ!って何回も言いながら。そして、彼の赤くなった目を見て、私もあなたの夢に連れて行ってほしいと伝えたの」
掴まれた両肩が、シーツ越しにも熱くなり、気付けば鏡の中の私も泣いていた。
「彼は、『治安の悪い場所も多い。君を危険な目に合わせたくないんだ。それに、儲けなんて考えないし、仕事ですら無い扱いだと思う。ボランティアのようなもので、君を幸せに出来るとは思えないんだ。本当にごめん、僕は最低だ。ずっと君だけのために、生きようと思っていたのに、どうしても、自分が幸せになればなるほど、あの少年を思い出してしまうんだ……』そう今にも死んでしまいそうな、追い詰められた顔で言ったのよ。そして、私が彼を苦しめているんだと思って、身を引いてしまった。彼の素敵な夢を応援しようって、そう自分に言い聞かせ続けていた。何度も、その言葉を思い浮かべて生きてきた。でも、ふと気付いてしまったのよ。彼を苦しめているのは、あの少年なんだって」
彼女のマスカラが、ついに涙で流れ落ちた。目尻から緩やかに黒い曲線を描いていく。その顔は怒りに飲まれて、眉間から走る歪みは、綺麗な鼻筋を縦に割る勢いだった。
「ああ、彼は、あの少年に呪われたんだって。そいつさえ居なければって。思ってしまうのよ。そんなことを考えてしまう自分も嫌になってね。結局、彼を私だけで一杯には出来なかった。私に魅力が無かった。私のせいなんだ。私だけが、彼を救えたかもしれないのに。あのとき、何をしてでも、自分で足を切り落としてでも、彼を引き止めるべきだった。どうして彼を行かせてしまったんだろう。なんて馬鹿なんだろう私は。私のせいだ。そう、自分を憎むしか出来ない、馬鹿で最低な人間。それが私なのよ」
「そんなことないです!」
認めたくなかった。彼女が最低な人間のはずがない。こんなにも魅力的で、置いていかれても、こうして彼の美容院で働いている。その理由は聞かなくても分かった。一瞬の怒りの表情が過ぎた後の、寂しそうに窓の外を眺めて、彼を探す彼女を見れば。
「ううん、最低なのよ私は。この十年間、彼が帰ってきてくれるのを、ずっと待っていたの。毎日、窓の外に彼を探していた。彼が私を選んでくれる日を待っていた。でもね、私は昨日、三十歳になってしまったのよ……。そして、ある人にプロポーズされたの……」
彼女の目が、祈るように彼を探していた。
「抱きしめながら、素敵過ぎる彼の夢を、黙って聞いていたわ。かっこよすぎる彼のことを、より好きになった。この人は、どれだけ私を夢中にさせるんだろうって。そして、彼の腕が大きく震え出したの、そのまま締め殺されるくらいに、強く抱きしめられた。そこで殺してくれていた方が、今となっては幸せだったんじゃないかって思うの。このまま会えないなら、彼の腕の中で死にたかった……」
しばらく長い沈黙が続いた。息の吸い方が分からなくなりそうで、私は彼女にかける言葉を探していた。
「……彼はね。こっちも震えちゃうくらいに抱きしめていた私を、力強く引き剥がして、両肩を掴んだの」
彼女は鋏を持ったまま、私の両肩を後ろから掴んだ。その手は痙攣するように酷く震えていた。
「そしてね、こう言ったのよ。『本当にごめん。別れよう』って。彼は大袈裟すぎるほどに涙を流していた。こんなに泣いている姿は見たことが無かったけれど、本当は別れたく無いんだって、すぐに分かったの。だから私は彼に抱き付いた。何度も引き剥がされても、駄々をこねる子供のように、嫌だ!って何回も言いながら。そして、彼の赤くなった目を見て、私もあなたの夢に連れて行ってほしいと伝えたの」
掴まれた両肩が、シーツ越しにも熱くなり、気付けば鏡の中の私も泣いていた。
「彼は、『治安の悪い場所も多い。君を危険な目に合わせたくないんだ。それに、儲けなんて考えないし、仕事ですら無い扱いだと思う。ボランティアのようなもので、君を幸せに出来るとは思えないんだ。本当にごめん、僕は最低だ。ずっと君だけのために、生きようと思っていたのに、どうしても、自分が幸せになればなるほど、あの少年を思い出してしまうんだ……』そう今にも死んでしまいそうな、追い詰められた顔で言ったのよ。そして、私が彼を苦しめているんだと思って、身を引いてしまった。彼の素敵な夢を応援しようって、そう自分に言い聞かせ続けていた。何度も、その言葉を思い浮かべて生きてきた。でも、ふと気付いてしまったのよ。彼を苦しめているのは、あの少年なんだって」
彼女のマスカラが、ついに涙で流れ落ちた。目尻から緩やかに黒い曲線を描いていく。その顔は怒りに飲まれて、眉間から走る歪みは、綺麗な鼻筋を縦に割る勢いだった。
「ああ、彼は、あの少年に呪われたんだって。そいつさえ居なければって。思ってしまうのよ。そんなことを考えてしまう自分も嫌になってね。結局、彼を私だけで一杯には出来なかった。私に魅力が無かった。私のせいなんだ。私だけが、彼を救えたかもしれないのに。あのとき、何をしてでも、自分で足を切り落としてでも、彼を引き止めるべきだった。どうして彼を行かせてしまったんだろう。なんて馬鹿なんだろう私は。私のせいだ。そう、自分を憎むしか出来ない、馬鹿で最低な人間。それが私なのよ」
「そんなことないです!」
認めたくなかった。彼女が最低な人間のはずがない。こんなにも魅力的で、置いていかれても、こうして彼の美容院で働いている。その理由は聞かなくても分かった。一瞬の怒りの表情が過ぎた後の、寂しそうに窓の外を眺めて、彼を探す彼女を見れば。
「ううん、最低なのよ私は。この十年間、彼が帰ってきてくれるのを、ずっと待っていたの。毎日、窓の外に彼を探していた。彼が私を選んでくれる日を待っていた。でもね、私は昨日、三十歳になってしまったのよ……。そして、ある人にプロポーズされたの……」
彼女の目が、祈るように彼を探していた。
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