トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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5章

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「その牛はすぐに解体されて、売られるという話だったな?」
「次の日には肉屋に並ぶが……何を言いたいんだ」
「どうせもらえるなら、食べられる部位の方がありがたいだろうにと思って」
「……食べたら、栄誉の証がなくなるだろうが」
「文化と考え方の相違だから争う気はないし、否定する気もないよ。私の感覚では、干からびた牛の耳や尻尾が家の中に増えていくのは嫌だなというだけで」

 正直に思うところを述べると、テオバルドは一瞬沈黙し、哀れむように志貴を見た。

「志貴、あんた、水族館で魚を見ながら『美味そう』と思うタイプだろう」
「日本人の大半はそう思いながら魚を見るよ。あれは刺身にすると美味いとか、塩焼きにして日本酒がいいなとか」
「……あんたの意外性は、その可愛さと柔道だけにしといてくれ」

 ナヴァスが手配してくれた席は、正面の一階最前列バレラにあった。日陰ソンブラの一等席に、テオバルドがフンと鼻を鳴らす。

「これであの夜を挽回できたと思ってないだろうな、あいつ」
「ここは人気席なのか」
「いわゆる砂かぶりってやつだ。熱心な愛好家や金持ちが年間通し券アボノを買い占めてるし、たまに売りに出されればすぐ売り切れるだけあって、迫力が違うぞ」

 それほど熱狂的なファンを持つ国技には、どんな魅力があるのだろう。ルーツを辿れば宗教儀式に行き着く伝統を持つものでも、日本人の価値観で言えば、牛を嬲り殺す過程を楽しむ、残酷で野蛮な見せ物ということになる。その中に観客は何を見出し、歓喜するのだろうか。

(自身に眠る原始的な残虐性を解放して興奮するのだとしたら、シンプルに悪趣味極まりないが)

 そう単純なことではないのだろうが、これから起こるスペクタクルへの期待にすでに薄い興奮状態ある周囲の雰囲気は、初めての志貴には奇異に感じられる。劇場で開演を待つ間の期待と昂揚感に似ているが、やはり少し異様だ。
 劇場では、どれほど凄惨な悲劇が演じられても最後は全員揃ってカーテン・コールを迎えるが、闘技場では確実な死が――時には闘牛士の死すらも見世物になるからだろうか。神事がルーツの芸能は数多いが、これほど確実に犠牲を伴うものが現代までよく残ったものだと思う。少々の畏怖を覚えながら、テオバルドから受け取ったクッションを敷いて席につき、始まりの時を待つ。
 試合開始は十七時。ラテン時間で、十分や二十分は遅れるだろうと踏んでいたが、ちょうどぴったりにラッパクラリンの音が鳴り響いた。

 華やかな二拍子のパソ・ドブレの調べに乗って、万雷の拍手の中、入場行進パセイリョが始まる。
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