トゥモロウ・スピーチ

音羽夏生

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14章

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 しかし、志貴に執着する男は一流のスパイであり、その整った顔に甘い微笑み以外を見出すことはできなかった。

「早くデザートポストレを食わせろよ」

 いつもなら、一等書記官室ここで昼食を摂る時には食べながら『スペイン語』の話をするのに、珍しく無言だったテオバルドが、食べ終わるなり口づけを強請る。何か含むところがあるのかと目線だけで確認したが、その様子は普段の駄犬と変わりない。
 行儀のなっていない犬には躾が必要だ。いつまで経っても「待て」を覚えない出来の悪い犬に、志貴は冷ややかに言い渡す。

「歯を磨いてからだ」
「あんたとキスするために歯ブラシを持ち歩く可愛い男に、早くキスしてやりたいだろ」

 にやついた顔を突き出され、志貴はその額を指で勢いよく弾いてやった。キャウンと大型犬が悲鳴を上げるような振りで身を引く色男は、可愛く見えないこともない。

(駄犬の飼い主が身についてきたな……)

 テオバルドが志貴の飼い犬になって、五ヵ月が経った。
 表向き、二人の関係は変わっていない。殆ど毎日顔を合わせ、しばらく話をして別れる。その別れ際、テオバルドに唇を強請られることだけが、唯一の変化だ。
 テオバルドは、欲望の気配に敏感だった。これまでスパイとして、あらゆる欲望を取引材料に、目を付けた人物を情報提供者に仕立て上げ、必要な情報を引き出してきたのだろう。彼らに要求されるものが金銭でも、彼の愛情や肉体でも、惜しげもなく彼らの鼻先にぶら下げ、唆して――。
 その手管に、志貴はすっかり嵌められている。もう彼は、志貴が名を呼ぶのを待つことはない。欲しい時に欲しいだけ、口づけを奪っていく。それを志貴が密かに望んでいるからだ。

 だからさきほどの軽い口づけも、食後の『ポストレ』も、志貴が望んだことなのだ。――溜め込んだ鬱屈をひととき忘れ、極秘帰国の噂に動揺する自分を慰めるために。忠犬は、飼い主の欲望に従っただけだ。
 テオバルドの欲望に巻き込まれた振りをして、自分の欲に彼を搦めとっている。彼は無関係な心の乱れの解消に、彼の欲望を使っている。
 身勝手な自分の狡猾さに、志貴は慄いた。

 あの夏の日まで、あやういながらもテオバルドとの距離を保てていたのは、自身の内に潜む欲に気づかなかったからなのかもしれない。彼との取引材料となる欲望――ピラールの存在で目覚めさせられた独占欲に。
 かつて、触れられることなく乾いた唇の上に乗せられた密やかな囁きは、今、濃厚な口づけに濡れた唇に被せるように、甘い求愛の言葉として語られる。頑なな飼い主を懐柔し、完全に籠絡するように。
 彼の欲望は明らかだ。立ったまま壁に押し付けられて唇を奪われる時、テオバルドは時折、これ見よがしに硬くなった股間を押し当ててくる。志貴の肉体に欲情していることを隠そうともしない。ラテン男の本領を発揮し、むせるような色気を滴らせて迫る相手を退けるのは、困難になりつつあった。それほどに、危険な男がもたらす蜜は――極上の男に愛され求められているという事実は、甘い。
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