209 / 237
18章
1
しおりを挟む
マドリードに戻った時、日はとっくに街の稜線の向こうへ落ち、夕食時を過ぎていた。途中有名な古都に寄り、のんびり旧市街を見て回ったせいで、すっかり遅くなってしまったのだ。
あの小さな山村から日常に戻るまで、それだけの時間が必要だった。あの地で──愛着のある生まれ故郷で両親を殺されたテオバルドが何もなかったように振る舞うなら、志貴もそうするしかない。
そのためには、惨劇の場所も日常からも遠い見知らぬ街で、心の状態を平らかにする必要があった。外交官という仕事柄、普段であれば得意な作業はかつてなく難しいものとなり、その分時間が掛かったのだ。
勿論、初めて訪れる史跡を巡りながら交わす何気ない会話、穏やかな時間が心地好く、離れがたかったことは否めない。飼い犬にせがまれた散歩だったが、心を乱されることはあったにせよ──そしてそれは今も胸にわだかまっているにせよ──、振り返ってみれば悪くない休日だった。
「楽しいデートもとうとう終わりか」
朝迎えに来た時と同じように、テオバルドは志貴の住む共同住宅の正面に車を停めた。その横顔が疲れを見せず、穏やかなことにほっとする。
「今日はありがとう。楽しかった──思いがけず」
「最後の一言は余計だな」
ニッといつものようにテオバルドが笑みを浮かべる。
口の端を吊り上げ目元を緩めただけなのに、愛嬌の中にも色気が滲んでひどく魅力的なそれは、『スペイン語』の時間に何度も繰り返されてきた。
はじめは軽薄で胡散臭いばかりだったのに、今では目にするたびに鼓動が小さく跳ねる。懲りずにまた魅了されながらも、志貴は面には出さずに続けた。
「君の運転もなかなかだった。公使館の運転手の具合が悪い時は、代理を頼むかもしれない」
「犬を褒める時は、もっと素直にわかりやすくご褒美をくれよ」
「……今日はあげすぎた、反省してる。当分控えることにするよ。──じゃあ、おやすみ」
会話があやうい方向に傾き、慌てて別れの言葉を口にする。
いつまでも二人きりの狭い車内にいるのは危険だ。昼間散々求められた口づけを、別れ際にもねだろうという飼い犬の甘えを感じる。そしてその甘えを退けるのは、昨日よりも難しくなっている。
二人の間の線を引き直すように、志貴は車から降りようとする。それを制止したテオバルドが、先に外に出てドアを開けようとし──しかし、一足先に助手席に近づく者があった。
玄関の灯りを背に、車窓を覆うような人影。それが一洋だと気づき、志貴は体を強張らせた。
今日は用事があると、確かに伝言した。
武官宛の、しかも志貴からの言付けを、武官府の人間が伝え忘れるはずがない。
それなのに、こんな時間に──テオバルドと二人で帰ってくるところに居合わせるなど、一洋は何故、今この場にいるのか。
「外出するとは聞いていたが、随分遅いお帰りだな」
ドアを開けて掛けられた言葉は、志貴に向いているようでテオバルドを質すものだった。
受けて立つように、テオバルドが一洋に向き直る。
あの小さな山村から日常に戻るまで、それだけの時間が必要だった。あの地で──愛着のある生まれ故郷で両親を殺されたテオバルドが何もなかったように振る舞うなら、志貴もそうするしかない。
そのためには、惨劇の場所も日常からも遠い見知らぬ街で、心の状態を平らかにする必要があった。外交官という仕事柄、普段であれば得意な作業はかつてなく難しいものとなり、その分時間が掛かったのだ。
勿論、初めて訪れる史跡を巡りながら交わす何気ない会話、穏やかな時間が心地好く、離れがたかったことは否めない。飼い犬にせがまれた散歩だったが、心を乱されることはあったにせよ──そしてそれは今も胸にわだかまっているにせよ──、振り返ってみれば悪くない休日だった。
「楽しいデートもとうとう終わりか」
朝迎えに来た時と同じように、テオバルドは志貴の住む共同住宅の正面に車を停めた。その横顔が疲れを見せず、穏やかなことにほっとする。
「今日はありがとう。楽しかった──思いがけず」
「最後の一言は余計だな」
ニッといつものようにテオバルドが笑みを浮かべる。
口の端を吊り上げ目元を緩めただけなのに、愛嬌の中にも色気が滲んでひどく魅力的なそれは、『スペイン語』の時間に何度も繰り返されてきた。
はじめは軽薄で胡散臭いばかりだったのに、今では目にするたびに鼓動が小さく跳ねる。懲りずにまた魅了されながらも、志貴は面には出さずに続けた。
「君の運転もなかなかだった。公使館の運転手の具合が悪い時は、代理を頼むかもしれない」
「犬を褒める時は、もっと素直にわかりやすくご褒美をくれよ」
「……今日はあげすぎた、反省してる。当分控えることにするよ。──じゃあ、おやすみ」
会話があやうい方向に傾き、慌てて別れの言葉を口にする。
いつまでも二人きりの狭い車内にいるのは危険だ。昼間散々求められた口づけを、別れ際にもねだろうという飼い犬の甘えを感じる。そしてその甘えを退けるのは、昨日よりも難しくなっている。
二人の間の線を引き直すように、志貴は車から降りようとする。それを制止したテオバルドが、先に外に出てドアを開けようとし──しかし、一足先に助手席に近づく者があった。
玄関の灯りを背に、車窓を覆うような人影。それが一洋だと気づき、志貴は体を強張らせた。
今日は用事があると、確かに伝言した。
武官宛の、しかも志貴からの言付けを、武官府の人間が伝え忘れるはずがない。
それなのに、こんな時間に──テオバルドと二人で帰ってくるところに居合わせるなど、一洋は何故、今この場にいるのか。
「外出するとは聞いていたが、随分遅いお帰りだな」
ドアを開けて掛けられた言葉は、志貴に向いているようでテオバルドを質すものだった。
受けて立つように、テオバルドが一洋に向き直る。
30
あなたにおすすめの小説
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる