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対面

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 一週間後。永司は病院にきていた。なんと先日のバイトに採用されてしまったのだ。
 昨日バイト帰りにスマートフォンを開くと、一通のメールが届いていた。この前のバイトサイトからだ。そこには採用された旨が書かれていた。
 仕事場として指定されたのは大聖大学病院。彼の目の前にある病院だ。

「うわー……嫌な予感しかしねー」

 永司はたどり着いて少し後悔していた。選ばれたと知った時はそんなことを気にする状態ではなかった。ただただ一〇万円がもらえるチャンスがきたと喜んだ。
 だが目的地の近くにきて初めて冷静さが戻ってきた。病院の建物を見ると嫌でもバイト内容が気になってしまう。新薬の検体や怪しい実験などが想起されたからだ。やはり虫のいい話なんてない。自分は騙されているのだと。
 ここまできた手前、帰るのも躊躇われる。バイト情報を掲載していたのは名のある企業だ。法外な仕事を斡旋するとは思えなかった。

「ま、ヤバくなったら逃げよ」

 そう呟いて永司は病院へと足を踏み入れた。

「遠坂永司さんですか?」

 病院に入るや否や永司は女性に声をかけられた。振り向くとそこにはベストにスカートというオフィスレディのような佇まいの女性がいた。病院の事務仕事を担当している者だろう。

「そうですが……」
「お待ちしておりました。ご案内します」

 女性は返答を待たずに先を歩いていく。永司は仕方なく、彼女の後を追った。不安は山々だが、「ここまできたのだから」と自分に暗示をかける。
 事務員が案内したのは病院の最上階にある個室だった。入院患者用の病室である。
 永司は驚きのあまり目が点になる。薄暗い手術室のような場所で怪しい薬を飲まされるとばかり思っていた。

「依頼主はこの部屋におります。会って直接お話を伺ってください。では」

 女は元きた道を戻っていく。置いてけぼりにされた彼はしばし当惑していた。

「病室って……誰も見舞いにこないから見舞いにきて欲しいってか? 金持ちの考えることはわかんねーな」

 ぼやきながら緑のモッズコートを脱ぐ。
 そういうことなら一回一〇万円が支給されるのも納得がいく。高額を出してでも寂しさを紛らわしたいのだろう。人相がよくも悪くもない自分が選ばれたこともなんとなく納得できた。
 覚悟を決めて、ドアノブを握る。

「失礼します。仕事を受けにきた遠坂ですが——」

 丁寧な言葉尻で挨拶をしながら病室内に入る。だが、次の瞬間に言葉を失ってしまう。

 

 いや厳密に言えば違う。頰は痩せこけ、目は遠くを見つめるように生気がない。儚い印象を受けるせいか、かなり小柄な男性に見える。

「近藤舜一……さん?」

 永司は思わず口走っていた。心当たりがあるとしたら彼以外にいない。つい最近まで時の人だった自分と瓜二つの成功者。その彼が目の前にいる。

「僕のこと……知っているのか。それなら話が早い。君が選ばれた理由も、なんとなく察しがつくだろう?」

 男の言葉は歯切れが悪く、弱々しかった。しかしそれでもなにか強い意思が宿っている。永司と話すことに命を懸けているようだった。

「俺が……あなたに似ているから」
「そうだ。正直……君以外に適任はいなかった」

 舜一がゆっくりと手をかざす。その先を見ると椅子が置かれている。「座ってくれ」と言うだけの気力がないらしい。

「けど似ているだけで選ばれるって……俺になにさせようとしてるんだよ? まさか影武者とかか?」

 椅子に座りながら永司が問う。状況が状況だからか、言葉は自然と荒くなっていた。自分自身と相対してまで敬語を使うのはきまりが悪かった。

「鋭いね」
「マジかよ」

 口があんぐりと開く。

「いやいや! 俺しがない大学生だし! あんたのような経営者になんてなれねーから! 学部も経営とかじゃないし!」

 まくし立てるように言葉を続けた。その日暮らしが精一杯の永司にとって経営者は遠い存在だ。明確な将来の展望などなく、掲げるだけの理念もない。一日の収支を考えることしかわからない。

「そんな構えなくても大丈夫。君の仕事内容は……もっとシンプルだ」
「シンプルって言ったって俺にできることは限りがあるし」
「単刀直入に言おう。僕に……君の体を貸してくれないか?」
「へ?」

 素っ頓狂な声が漏れた。およそ人生で耳にすることはないであろう言葉。永司は一瞬、自分が夢にいるのか現実にいるのかわからなくなった。

「驚かせてすまない。けど君に害はない方法だから安心してくれ」
「いやいやいやいやいや! わけわかんねーって。どういうことだよ、体を貸すって。バカな俺にもわかるように説明してくれよ」
「簡単な話だよ。君の肉体に……僕の意識を移す。僕は君の体を借りて自由を得る。君は眠っているだけで報酬金が得られるってことだ」
「全然飲みこめないわ。そんなことできるのかよ」

 舜一の噛み砕いた説明を永司も理解することはできた。だがそれは『可能なら』という前提条件がつく。人間の意識を他者に移す……そんなSFじみた話を受け入れられなかった。

「できる。だから君を呼んだんだ」

 舜一は断定し、彼の目を見据えていた。

「ここ大聖大学では様々な研究がされている。その内の一つが人間の精神のデータ化だ」
「データ化?」
「そう。人間の脳はコンピュータみたいなものだ。だから意識をデータに変換してほかの人間に移し替えることができるかもしれないと思ったんだ。これが実用化すれば人間の精神は不滅となるだろう。なにより体が不自由な人間の救済手段になる」

 まるで自身がその研究を推進しているかのように舜一が語る。その研究には彼の積年の夢が詰まっているのだろうか。
 ようやく永司もことのあらましを理解した。

「だからそっくりな俺が選ばれた……体の不自由なあんたと入れ替わっても違和感がないから」

 舜一が深く首肯する。

「でも待ってくれよ。こんなの人体実験だろ? 意識を移すって問題とかないのかよ?」

 しかしただで頷くことはできない。なにせ前代未聞の実験に巻きこまれるのだ。自分の肉体に他人の精神を入れる。心配ごとがないわけがない。

「すでに行った実験では問題はなかった。遠坂永司としての自我の安全は保証する。意識を上書きするわけじゃないからね。近藤舜一という人格と記憶の一部を僕の体から抜き出し、君の脳内の使われていない領域に書きこむだけだ。そうすると君は僕と同じように動く。そして近藤舜一として動いた記憶は僕の中に戻すことで、経験にできる」

 置き去りにするように舜一の説明が続く。

「言うなれば二つの意識が一つの体に同居している状態だ。君は一時的に二重人格になるってこと」

 二重人格——その言葉でやっと腑に落ちた。永司という人格が寝ている間、舜一という人格が表立って活動することになるわけだ。

「けどやっぱ怖いっていうか……そんなことしていいのかなって……」

 それでも永司は了承できなかった。今日初めて会った人間を自分の体に同居させる——抵抗があるに決まっていた。
 二重人格と言えば聞こえはいい。だが舜一が体を使っている間は干渉することができない。なにをされるかわからないのだ。

「言い値で構わない」
「え?」
「言い値で構わない。一回あたりの報酬金は君が欲しい額でいいよ」

 ごねる彼に舜一がとどめを刺す。
 しばし永司は放心した。なにを言っているかわからなかった。自分が欲しい金額をもらえる……「それで納得してくれ。譲歩してくれ」と言われているような気がした。

「頼む! 君しかいないんだ!」

 瘦せぎすの男ははっきりと声を上げ、懇願した。
 その様子を見て永司も思うところがあった。彼も好きで不自由な体になったわけじゃないのだろう。
 そんな舜一に体を貸し与え、生きる喜びを味わわせる。それが悪いことなのか永司はわからなかった。
 むしろ善行にすら思える。いいことをして好きなだけお金をもらえるなら願ったり叶ったりじゃないか……と。

「じゃあ……一〇〇万で」
「ああ、構わないとも」

 舜一の返事は心底嬉しそうな声音だった。『体貸し』。二人の間に前代未聞の契約が結ばれた瞬間であった。
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