僕たちは芝生の青さに気づけない

鴨志田千紘

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体貸し

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「早速仕事を頼みたい」

 永司は舜一の車椅子を押して病院の一室へと向かった。そこは手術室のような内装をしていたが、手術台らしきものはない。代わりに巨大な人工物が部屋を占拠していた。
 中には研究員が数人おり、彼らはみな舜一にお辞儀をしている。

「これが意識データ転送装置だ。僕たちがやることは単純だ。ただそこに座ればいい。あとは研究員が動かしてくれる」

 真ん中の機械を挟むように椅子が二つ離れて並んでいる。その上にはパーマをかけるためのヘアスチーマーような器具が備えつけられていた。そのうちの一つに舜一が腰掛ける。
 永司も心を決め、席に座る。研究員はその行為を了承と判断したのか、頭の上から覆いが降りてきた。

「それでは意識データ転送を開始します」

 最後に聞いたのは研究員の事務的な声だった。その後すぐに意識が遠退いた。
 意識が出ていく……というより沈んでいく感覚。まるで別のなにかに押しこめられたようだ。
 そのなにかは紛れもなく舜一の意識であった。
 永司が目を覚ますとそこは先ほどと寸分違わぬ光景だった。意識を押し沈められた場所——装置のある研究室だ。
 しかし体にはしっかり疲れが溜まっていた。意識を移されて疲れたというわけではない。
 隣を見ると舜一の姿がなかった。いるのは研究員たちだけだ。

「お目覚めになりましたか、遠坂さん」
「あ、はい」
「これは近藤様からお預かりしたものです。報酬の一〇〇万円が入っております」

 研究員から手渡されたのはブクブクに太った茶封筒だった。奪うように慌てて手に取る。パラパラとめくって中身を確認すると、厚さだけの偽物でないことがわかった。一万円が確かに一〇〇枚あったのだ。
 永司は呆然となってしまう。自分がなにかしたわけではない。ただ意識を眠らせていただけ。それだけで一〇〇万円がもらえるとは夢のようだった。

「こちらからは以上です。お帰りはあちらからどうぞ」

 研究員が扉を指し示すように手を向けた。

「ありがとうございました。近藤さんにも……そうお伝えください」
「いえいえ。こちらとしてもデータ取集は重要ですので、お互い様ですよ。近藤様にもお伝えしておきます」

 会釈をして永司はその場を後にした。
 帰り道、街中を歩いても夢見心地が抜けなかった。本当に現実なのだろうかと思い、顔をつねる。痛みを普通に感じたことでようやく実感した。
 スマホの待ち受け画面で時間を確認する。時刻は午後九時になるところだった。昼頃に病院を訪れたことを考えると丸々八時間は体を貸していたことになる。

「どうりで疲れるわけだ。しかも腹減ったしな」

 彼は懐にしまった茶封筒を取り出し、眺める。見ているだけでにやけが止まらなかった。
 舜一が痛々しい体を離れてまで仕事をする理由はわからない。だがそれはどうだっていい。永司にとっては都合のいい雇い主に違いないのだ。

「さて……記念すべき最初の出費はやっぱり飯かね」

 視線の先にあったのはステーキハウスだった。脂がこれでもかと乗った肉の写真が看板に描かれている。
 ふと最後に食べたステーキを思い出そうとしたが、記憶の奥底から引き出せなかった。それくらい長い間、ご馳走にありつけていなかったのだ。
 永司は掴んだ夢を片手にステーキ屋へと足を踏み入れる。これからなにに金を使おうかと浮き足立つのが止まらなかった。


 永司はそれから何度も体を貸した。その度に金は増え、窮屈だった生活が嘘だったかのように豊かになった。
 食事に不自由はないし、住む場所だって快適になった。思い返すとあんなボロアパートでよく我慢できたなと不思議に感じたくらいだ。
 加えて苦労して対価を得る必要もなくなった。バイトは二回目の体貸しをした後にすぐやめた。店長やバイト仲間には惜しまれ苦心したが、やはり重労働から解放されたいという思いの方が強かったのだ。
 大学もやめてやろうかと考えていたが、それは踏みとどまった。友達がいたからだ。彼が欲しかったのは友達と遊ぶための金であって、大学までやめてしまったら本末転倒になる。それに大学卒業の実績は持っておいて損はないはずだと思った。

 そうして一ヶ月が過ぎた。永司が体を貸すのは週に一、二回程度。だいたい決まった曜日、決まった時間だった。
 この日もいつも体を貸す曜日だった。だから呼ばれたわけでもないのに、彼の足は病院へと向かっていた。
 寒さは未だに衰えることなく体を襲う。寒いのが嫌なら上着を新調すればいいじゃないかと永司自身も思ったが、なぜかこの緑のモッズコートだけは未だに手放せなかった。

「おっす。今日も使うんだろ?」

 病室に入り、舜一に気さくに声をかける。だいぶ時間が経ったからか、出会った頃よりラフな話し方になっていた。

「ああ。連絡しなくてもきてくれて助かるよ」

 ベッドから起き上がった舜一が車椅子に乗り換える。
 それまでの間、永司は所在なさげに病室を見渡した。いくらかある私物といつの間に増えていた花瓶に生けた花が目に映る。

「じゃあ、いこうか」
「ああ」

 二人はいつものように装置のある部屋へと赴く。
 今日も眠っていれば金がもらえる。永司は軽い気持ちで足を運んでいた。

 意識が戻った時に彼が見た光景は病院の一室ではなかった。目の前に見えるのは色とりどりの花々。そして、店員と思しき一人の女性。
 周囲を見渡そうとしても体が自由に動かない。永司は音や感覚で状況を判断するしかなかった。
 雑踏が聞こえるあたり、オフィス街か繁華街に近いのだろう。暖かい日差しを感じるため、まだ夕方にはなっていないようだ。

「そうなんですか。また戻ってお仕事に?」
「ええ。昼休憩で外に出ただけですから」

 自分の意識とは別の意識が口を動かしていた。今、体の主導権を握っているのは舜一の方だった。

「今日も買っていかれますか?」

 店員が笑顔で尋ねてくる。線の整った綺麗な顔としな垂れて肩にかかる茶髪の三つ編み。清純な印象を受けたせいか、エプロンとロングスカートという佇まいが花屋の店員として様になって見えた。

「ええ、いつものを」
「かしこまりました」

 店員ははにかんで笑顔を見せると、すぐに作業へと移った。ほかになにか聞くこともなく、まるで全てわかっているようだ。

「お待たせしました。はい、これ」
「ありがとうございます」

 数分後、数本の白と黄色のチューリップの花束ができあがる。

「またいらしてくださいね、永司さん」

 会計を済ませ、店を出ようとしたその時……彼女は確かに『永司』と言った。

 ——どうして舜一は自分の名前ではなく、俺の名前を騙っているんだ?

 一抹の不信感が永司の心に巣食った。
 そこで意識がブラックアウトする。覗けたのはほんの一瞬の行動だけだった。
 体の主導権が戻ったのは装置で舜一の意識を吸い出した後だった。隣を見やると、彼も同時に起きたようだ。永司は車椅子に乗った舜一に近づく。

「俺が運びますよ」

 病室まで運ぼうとした研究員にそう伝え、代わってもらう。いつもならこのまま帰るところだが、今日はすぐに帰れなかった。どうしても彼に聞かなければいけないことがある。

「それにしても珍しいね。君がすぐに帰らず、病室まで送ってくれるなんて」

 ベッドに戻った舜一が朗らかな口調で問いかける。その様子を見て永司は「さぞ楽しかったんだろうな」と小声で独り言ちた。

「あんたに聞かなきゃいけないことがある。あんた……俺の体をなにに使ってるんだ?」

 不躾に問い詰める。自分の体を使って女を口説いていたなら、たまったもんじゃない。知らないうちに修羅場ができあがっていたなんてごめんだ。

「なにって……仕事の処理だよ。社長を退陣するにも色々やることがあってね。今後の研究への出資の根回しもしておかなきゃだし」
「とぼけんな。昼休憩の時、花屋にいってただろ? この花がその証拠だ。俺の名前を使って常連客にでもなったのか? 最期にやりたいことって女かよ!」
「なんだ。覚醒していたのか。想定外のケースだ……どうやらまだ改良の余地がありそうだな」
「お前……!! 俺の体をなんだと思ってんだよ!」

 永司は反射的に彼の胸ぐらを掴んでしまう。やはり実験体として自分を利用しようとしていたのかと憤りに駆られていた。

「じゃあ、やめるかい? 無理だろ。今さら君が元の生活に戻れるわけがない」

 しかし舜一は暴力に物怖じすることなく、まじまじと目を見つめ返す。

 ——「君の弱みは知っている」。

 舜一の声が脳裏を過る。掴んだ手を離さざるを得なかった。
 彼と手を切れば、自分は貧しい生活に逆戻り。遊ぶ自由もなく、なんの面白味もない。また毎週毎週ルーティンをこなすことになる。それだけは嫌だった。
 永司はそれ以上なにも言い返せず、病室を後にした。
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