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二人の関係

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 金か身の安全か。頭では危険だとわかっていながら、甘い蜜を求めて蜂の巣に手を突っこんでしまう。愚かしい自分自身に嫌気が差しそうだった。
 体を貸し続ける中で意識の覚醒は顕著になり、全ての行動を覗くことができるようになっていた。
 そんな折、永司はある夢を見た。花屋の女性と自分が仲睦まじく手を繋いで、並木道を歩く夢だ。
 落ち葉を踏み締める音がさらさらと聞こえる。銀杏の匂いが鼻腔をくすぐり、乾いた風が二人を包む。
 それでも彼女は気にもせず、こちらの顔を見てクスクスと笑う。なにもしていないのに楽しそうな、二人だけの世界。
 穏やかな雰囲気が胸を打ち、衝動のままに彼女の頬に触れたくなる。けれど……それは決して叶わない。手は虚空を引き裂くだけだった。

「舜一」

 その一言で目を覚ます。
 夢は永司の生きた現実ではない。どんなにリアルな夢でも、女が手を繋いでいたのは自分じゃない。彼なのだ。その事実が矢となり、胸を抉る。
 思えば舜一は花屋の女にしか会いにいっていない。生真面目なことに、それ以外の時間は仕事に回していた。

 ——舜一は俺の体を悪用しようとしていたんじゃないのか?

 疑問の答えはきっと夢に関係ある。永司は解消するためにある決心をした。「あの女性が何者なのか調べよう」と。
 向かった先は花屋だ。何度か舜一が訪れるうちに場所は把握していた。

「いらっしゃいませ。あ、永司さん」

 店内に入るとすぐに件の女性が気さくに話しかけてきた。駆け寄ってくる彼女に戸惑った永司は「ど、どうも」と歯切れ悪く返してしまう。
 女性の名前は来栖川朋未。舜一とのやり取りを聞いているうちに自然と覚えてしまっていた。

「今日は珍しい時間ですね。いつもは昼か六時頃なのに」
「今日はその……休みでして」
「あ、本当ですね! スーツじゃなくてモッズコートだ……最初に気づけばよかった」

 朋未は両手を合わせ、目をしばたたかせた。
 彼女の口調はふわふわと柔らかなもので、天然な性格なのだろう。一挙手一投足が妙に大袈裟で、慌ただしくもある。
 しかしそれでいていつもと違う時間に永司が訪れていることに気づいていた。

「お客さんのことよく把握してらっしゃるんですね」
「あ、いえ……その永司さんは特別と言いますか」
「特別?」

 朋未の言葉が急に尻ごみする。恥ずかしげに顔を逸らしていた。

「はい。似てるんです。私の元カレに」
「……元カレ」

 それが舜一であることをすぐに理解した。あの夢は永司に植えつけられた彼の記憶の残滓だったのだ。

「本当に顔が似てるだけで……背丈も声も違うし。けど、なぜか永司さんと話すと不思議と他人に思えなくて」

 その顔は心なしか寂しげなものだった。
 どうりで自分を舜一と認識しないわけだと永司は得心した。交際関係にあった彼女だからこそ些細な違いに気づき、別人だと認識できるのだ。彼がわざわざ永司の名前を騙ったのもそのためだろう。

「ごめんなさい。変なこと言っちゃいましたよね。今のなしで! 忘れてください」
「忘れたくても忘れられませんよ。そんな口説き文句初めて聞きました」
「口説き文句じゃありませんよ! もう、永司さんって本当は意地悪さんだったんですね。いつもは紳士的なのに」

 朋未が睨みながら膨れっ面を見せる。その行動は無邪気な子どもそのものだった。

「あ、いや。これはその……ごめんなさい、忘れてください。僕も忘れますから」

 楽しくなってしまった永司はつい素の姿を晒してしまう。
 慣れない丁寧語に僕という一人称が煩わしい。なんであんなやつのために取り繕わなきゃいけないのかと憤りたい気分だった。

「お花、買ってくれたら忘れます」
「参ったな……じゃあ、いつものお願いします」
「はい、ありがとうございます!」

 打って変わって天真爛漫な笑みを見せた。その表情があまりにも眩しく、たまらず陳列されている花の方へと目を向ける。
 その後すぐに朋未は白と黄色のチューリップの花束の準備にかかった。永司ははたからその様子を眺める。
 天然のように見えて強かで、ころころと多彩な表情を見せる彼女。なんとなくではあるが、舜一が惹かれる理由がわかった気がした。

 ——だけどなんであいつは朋未さんと別れることになったんだ? そのくせ正体を隠して会いにいってるのはなぜだ?

 二人の関係性が判明したと思った矢先、新たな疑問が生まれる。

「はい、お待たせしました」

 朋未が微笑みながら花束を手渡す。やはり彼女は眩しく、「あ、ありがとう」と素っ気なく言葉を返すことしかできなかった。
 永司は花屋を後にした。『元カレ』という重要な関係性を知れれば充分だった。

 ——それさえわかればいくらでも問い詰められる。

 心の内で静かに反旗の闘志を燃やしていた。向かう先は……病院だ。

「あの花屋の店員、あんたの元カノだったんだな」

 病室に呼び出された永司は要求に応じず、別の話を切り出す。朋未の件だ。

「なんだ、彼女から聞いたのか。探偵ごっこのつもりかい?」
「あんたを追い詰めたいとかこの仕事を降りたいとか……そういうわけじゃねーよ。ただ真実が知りたいだけだ。なにも知らないままあんたに利用されるのは癪だし」
「そうか……まあいいか。良好な関係を築くために話して欲しいと言うなら、話そう」

 舜一が嘆息を漏らした。永司の嘘偽りない言葉と真っ直ぐな眼差しを受けて、腹を括ったようだ。

「朋未は……僕が一方的に振ったんだ。元々病弱だったんだが……手の施しようがないほど病魔におかされていると判明してね。こんな後先ない人間が彼女の人生を縛るのは違うと思ったわけさ。新しい男を見つけて幸せに生きて欲しかった」
「彼女は……知ってるのか?」
「知らないはずだ。少なくとも僕はわけを話していない。言えば彼女は僕のことを忘れないだろう?」
「そんな……そんなことって」

 病気を理由に別れを告げたのだろうということは永司もなんとなく気づいていた。
 だがまさか、わけも話さず一方的に別れを切り出したとは思わなかった。男の強がりにカッコよさは微塵もなく、ただただ悲しい気持ちでいっぱいになる。

「お金にも家族にも人にも恵まれた。不幸という不幸はない人生だったよ。唯一……肉体だけは恵まれなかったけどね。見ての通り、死神が魂を掻っ攫うのを待つ身さ」
「だから俺の肉体を使って朋未さんに会いにいったのか。最後に一目見ようと」
「君の体を借りたのはもちろん仕事のためだ。だが……魔が差してしまったんだ。話せなくても、せめて彼女の顔を見にいきたかった。幸せに暮らしているのか。新しいカレシはいるのかどうか。そしたらいつの間にか常連客になっていたよ。どうやら未練タラタラなようだね、僕は」

 呆れるように舜一が肩を竦めてみせる。うんざりしているような言動だが、口角は緩んで見えた。本当に好きで、別れるのは不本意だったのだろう。

「あー、やば。なんか俺まで悲しくなってきた」
「どうしてだよ。ここは憤るところだろう?」
「こういう話に弱いんだよ。あんたが朋未さんを想って別れたのはわかるし、朋未さんがなにも知らずにいるのもつれぇ」

 たった数回しか会っていないが、見てわかるということもある。朋未という人間からは思慮深さが滲み出ていた。彼女は舜一が病気と知っても想い続けていただろう。

「お人好しだな、君は」

 永司の心境なんてお構いなしに舜一が笑った。

「うっせー! なにも言わずに巻きこんだのはそっちだろ!」
「ははは、それもそうだ」

 行動の真意を知った。朋未のことも仕事のことも。永司を利用するのはあくまで自身の後処理のためだった。舜一の言葉に嘘偽りはない。

「決めた! 最後の瞬間まで俺の体使えよ。俺になにができるかはわかんねーけど、できることは協力する」
「けどお金は要求するんだろう?」
「それはまあ……仕事だし?」
「君は素直だな。わかった。契約はこのまま続けよう。ただし他言無用で頼むよ?」

 永司は彼の言葉に大きく頷いた。雇い主と雇われ者という関係は変わらない。だがそこにささやかな友情が芽生えていた。

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