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契約の終わりと始まり

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 数日後、舜一が珍しく「病院の中庭へ散歩にいこう」と誘ってきた。仕事ではない。今までなかったことで困惑したが、永司は素直に応じることにした。
 中庭に着くと車椅子を止め、永司は並ぶように近くのベンチに腰をかけた。肌寒い風が吹いているが日差しは強く、春の陽気のようで心地よかった。

「なあ、永司。君も……朋未のことが好きなんだろう?」

 車椅子に座った彼がぽつりと尋ねた。その言葉を聞いて息が詰まる。

「どうして……それを?」
「君の意識が徐々に顕在化したように、体を借りるたびに僕も君の意思を感じられるようになったんだ。だから君の気持ちくらいわかるよ」

 あの日からずっと心の靄が晴れなかった。好意と友情のジレンマ。好意が強くなればなるほど「朋未は今も舜一のことを想っている」という事実を伝えられなくなっていたのだ。

「だったらなんだよ……釣り合わないから俺に諦めろって言うのか!? そもそもあんたがあんな記憶を俺に植えつけなきゃ……!」

 舜一は大事な雇い主であり、協力すると誓った友人だ。けれど、自分の気持ちに目を背けることができなかった。
 永司は剥き出しの感情を吐き出し、隣の男を睥睨した。「あんたに体を貸さなければこんな気持ちを抱かずに済んだのに」と恨むように。

「落ち着いてくれ。そんなこと言ってないだろう」
「あんたといると自分が嫌になる! 同じ顔のはずなのに、俺にはなにもない! 富も地位も名声も! 想いも通じない! 挙句、あんたからおこぼれをもらって惨めに生きてる! 俺にないものを全部! あんたが持ってる!」

 あの日感じた虚しさはだった。
 どんなに自分が金を得て、舜一に近づいても勝てない。朋未が自分に好意を向けることはない。
 言いようのない敗北感が胸に残った。永司はあの日知った真実を奥へとしまい、封じこむことにした。自分だけが事実を知っている優越感。それが彼の劣等感を抑える役割を果たしていたからだ。

「そんなことはない……君の方が僕よりもずっとスタイルがいい。お洒落のセンスだっていいじゃないか」
「おちょくってるのか?」

 抑揚のない声で呟く舜一に苛立ちをぶつける。乾いた笑いすら出てきそうだった。

「本心だよ。なにより……僕には時間がない。それが一番羨ましい。君が望むなら近藤舜一としての人生をあげたっていい。代わりに君の人生をくれるならね」
「なんだよそれ……」
「欲しいものを手に入れるために死ね……って言われて応じるわけもないよな。どんなに欲しても、結局人間は我が身が可愛いんだ。わかっただろう? 君にないものを僕が持っているのと同様に、僕にないものを君も持っている。僕からしたら君は恵まれた人間なんだ」

 永司はなにも言えない。よく知っているはずだった。舜一は一番欲しいものが手に入らない人間だと。自身の矮小さに嫌気が差す。

「『隣の芝生は青く見える』ってよく言うだろう? そういうことだよ。君の芝生も僕の芝生も遠くから見たらきっと青いんだ。けど……。自分が恵まれていることに気づけない。いや……見えないのかもしれないな」

 舜一が達観したように青空を眺める。どこまでも続いていく快晴の空。永司にとっての舜一、舜一にとっての永司……互いの存在はあの空のように澄んで綺麗に見えていたのだろう。

「他人だからこそ相手のよさがわかる……ってことか?」
「ああ。仕事を依頼するにつれ、僕は君のよさを知った。素直で人間臭いは信頼できる人間だと……僕は思っている。どんなにお金を受け取っても、頑なにそのモッズコートを買い替えなかっただろ? 君はよいものより愛着を優先する人間なんだろうな」
「それは……」

 図星だった。今着ているモッズコートを手放せない理由。それは苦労して稼いだ金で買ったものだったからだ。安物でも欲しくてたまらなかったものに違いはない。お気に入りだった。

「僕からもらった報酬でやったことなんて大したことないんだろう? 友人と遊んで、美味しいものを食べて、いいところに住んで……ってところか」
「どうしてわかるんだよ」
「豪遊してたらもっと金を要求するだろう? 普通はさ」
「あ……」

 ボロアパートから引越した。欲しかったものや美味い飯には金を惜しまなかった。けれど実際は大したことない出費だ。
 この契約がいつまで続くかわからない。そう考えると永司は湯水のように金を使うことはできなかった。

「話がだいぶ逸れてしまったな。実は……今日は君に契約の満了を告げようと思ったんだ」
「あんた……まさか」

 嫌な予感がし、胸が騒つく。

「ああ、そのまさかさ。今日、診察で言われたよ。僕の命は保って一ヶ月らしい」

 予感は的中した。永司の察していた通りだった。仕事ではなく話すために呼び出したとなれば、理由は数える程度しかない。

「あの装置を使えば……あんたの意識はこの世に残るんじゃないのか? 意識が残ればほかの体に宿ることだってできるんじゃないのか?」
「確かに可能かもしれない。クローンを作って意識を移せば、僕は再びこの世に生まれ出ることができるかもしれない。体が不自由な人の魂を解放するためにあの装置に出資したわけだからね」
「じゃあ死なない……のか?」

 一縷の望みにすがるように永司は恐る恐る尋ねた。

「いや……意識を保存できたとしても、それが実現化するのは何十年も先だ。法整備もしなくちゃいけないし、確実にできるようになる保証はない。僕自身はこの世から去ることを……受け入れるしかないだろう」
「だったら俺の体に——」
「それはできない」

 舜一がきっぱりと言葉を遮った。生気が失われつつあるにもかかわらず、そのまなじりには強い意思が宿っていた。

「お互いの意識の顕在化は僕たちの意識が一つになりかけている証拠だ。今までは抜き出すことで意識の混濁を避けてきたが、永遠に君の体に居座れば……きっと近藤舜一でも遠坂永司でもない別の誰かになってしまう。それは僕の望みじゃない。言っただろう? 隣の芝生は青く見えるって。僕よりも永司がこの世界で生きるべきだ」

 意識の顕在化に記憶の混在。これ以上続ければ自我が危うくなるのは永司自身も理解していた。互いの気持ちを理解し、夢として記憶を垣間見るこの状況は……普通じゃない。

「だけど……だけど!」

 駄々をこねる子どものように言葉を繰り返す。なにも持っていない自分ではなにもしてやれない。最後の希望であった自分の体を貸すことも拒絶されてしまった。

「それにあの研究に出資したのは自分が助かるためじゃない。体の不自由な人たちのためだ。それが……人生の使命だと思ったからね。僕が助からなくても、研究が滞りなく続いて日の目を見れば……それでいいんだ」

 舜一がどうしてそこまで仕事を頑張るのか、やっと腑に落ちた。
 永司の体を借りてまで仕事を続けたのは、体の不自由な人を救済するという使命を最期まで全うするためだった。彼は生き残ることなんて最初から考えていなかったのだ。
 それでも一つだけ永司には疑問があった。

「朋未さんに未練はないのかよ。あんなにタラタラだったのに……あんた、このまま黙って死ぬのかよ!」

 あんなに彼女の未来を案じていた男がどうして急に割り切れるのか。問い詰めざるを得なかった。

「そうだ。僕はこの体のまま、残り一ヶ月の余生を送る。けど……君と別の契約を結びたい」
「別の契約……?」
「君に……全部あげようと思う。お金も地位も……僕の想いも全部。君が僕の分まで生きてくれ。だから……朋未を頼む。今日はこれを伝えたかったんだ」

 舜一の言葉とともに静けさが訪れる。まるで二人の時間が停止したかのように。
 真っ先に永司の気持ちを尋ねたのはこのためだった。舜一は全部託すつもりだったのだ。だからこの世に未練がない。

「違う。違うんだ、舜一。俺が欲しかったのは……そうじゃないんだ」

 欲しかったものが手に入る。なのに永司は咄嗟に否定してしまう。
 ただの憧れだった。芝生が青く見えただけ。少しでも近づきたい、勝りたいと思っただけなのだ。『代わり』になりたかったわけじゃない。

「俺はあんたにはなれない……無理だ」

 ——俺は舜一の『代わり』にはなれない。朋未さんが想っているのは俺じゃないんだ。

 舜一は目先の幸せではなく、誰かの幸せのために自分の人生を賭していた。そんな信念のある男だから朋未も惹かれたのだろう。
 永司は痛感する。自分とはあまりにも違い過ぎると。埋まらない差は如実に現れ、手が届かない。

「君にしか頼めない」

 芯の通った瞳が射抜く。永司は逃れるように視線を地面に落とした。

 ——余命わずかな相手に俺は嫉妬していた。

 自己嫌悪が心を苛んだ。引き受ける資格がない。そんな罪悪感で胸がいっぱいだった。

「考えさせてくれ……」

 それでも否定はできなかった。もし舜一の最期になにかできることがあるとしたら……きっとこの『依頼』を受けることなのではないかと思ってしまったのだ。

「そうか……わかった。さて……病室に戻ろうか。ちょっと……無茶し過ぎたらしい」

 舜一は冗談めかすように微笑みを向けていた。まるで『友達』と他愛のない話をしていたかのように。
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