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10.鎮守の沼にも蛇は棲むⅡ
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「ねえ」
澄み渡る青空が広がり、草花はそよ風に楽しげに揺れている。
イヴはいつもどおり、屋敷からほど近い場所にある花畑で友人と話をしていた。
そんな、ありふれた午後のことだ。
「『ちえのきのあくま』ってどんなひとなの?」
イヴの問いに、それまで笑顔で花冠を作っていた少女は動きを止めた。
イヴの顔を凝視したまま、顔を真っ青にし、桃色の髪の少女はどこかぎこちなく口角を吊り上げている。
昨日アダムに『知恵の木の悪魔』の話をされてから、イヴの脳裏には、その名が呪いのようにこびりついて離れなかった。
気になったので今朝アダムに再度聞いてはみたのだが、返事は振るわない。
むしろ彼の地雷を踏んでしまったようで、あからさまに不機嫌をあらわにするアダムから逃げるようにしてこの場へとやってきたのだが、友人の反応もアダムと似たようなものだった。
イヴの目には気まずそうに目を逸らす友人は、一刻も早く話を切り上げたいと念じているようにすら見える。
「ど、どこでそのお話を?」
「アダムからきいたの。きのう、どうしてちかづいちゃいけないの? ってきいたら、おしえてくれたわ」
「……左様でございますか」
どこか安堵するかのように、少女は胸に片手をあて、ほうと息を吐いた。
「なにか、まずいことをいった?」
「いえいえ!イヴ様がお気になさることではございませんわ。さあさあイヴ様、完成いたしましたわよ。……まあ! とってもお似合いですわ!」
出来上がったシロツメクサの冠をイヴへと被せてやりながら、少女は紛らわすように、わざとらしく笑む。
しかしこれくらいで濁されてやるほど、イヴは甘くはなかった。
「ラビ」
懐疑的な眼差しで睨み付ければ、ラビは気まずげに視線を逸らした。
そのまま、無言になった少女を諦めることなく睨み続ける。
ラビはしばし口をもごもごとさせ必死に堪えているようだったが、やがて根負けしたのか、諦めたように深く溜息を吐くと、大人しく『知恵の木の悪魔』についての説明を始めた。
「……とても恐ろしい男なのです。狡猾で、残忍で、執念深くて……! ああ! 口に出すのもおぞましい!」
「……そんなにこわいひとが、らくえんにいるとはおもえないんだけど」
並べ立てられた言葉の意味を正確に把握してはいなくとも、決して誉めているわけではないということだけは察することができた。
楽園は王により守られた地だ。
そんな場所に、悪人が住んでいるとは到底考えられなかった。
「イヴ様は何も知らないからそのようなことを言えるのです!」
びくり、と肩を震わせる。
ラビがここまで激昂した姿を、いままでイヴは見たことがなかった。
うさぎの長であるラビは、普段はとても穏やかでおっとりとしている。
歳も、実際は彼女の方がかなりの上にあたるのだが、外見だけなら比較的に近いことから、楽園に暮らすものたちの仲ではもっとも長い時間接してきたと言っても過言ではない。
それに関しては「うさぎならまあいいだろう」と、過干渉気味のアダムに容認されていることも大きいのだが、イヴにとっては姉のような人なのだ。
そんな見知った彼女が、ぜえはあと息を荒げている。
「いいですか! 蛇は本当に恐ろしい生き――」
はっと、少女は口を押さえ固まった。
赤くなったり青くなったり忙しいことこの上ない。
「へび?」
「あああああ!! わ、忘れてください! 今の話はなかったことに……!」
スカートの裾を握りしめ、ラビは深々とイヴに対し頭を下げた。
よく見れば、少女の腕は小刻みに震えている。
下を向いたまま顔を上げようとしないラビは、何かを恐れているようだった。
「そうね。へんなことをきいてごめんなさい」
「……いえ、イヴ様が謝るようなことでは」
「とりあえず、かおをあげてよ」
促せば、ラビは恐る恐る顔を上げた。
「わたしはなにもきいてない。だからだれにもいったりしないわ。ほんとうよ?」
静かに微笑めば、ラビの目には涙がにじむ。
声を上げわんわんと泣き始めたラビの背をさすってやりながら、イヴの脳裏は別の考えに支配されていた。
何がそこまで、ラビを恐れさせるのか。
本人の意図せぬところで、イヴの興味はますます『知恵の木の悪魔』へと向いていた。
「おとうさま」
屋敷に戻ってすぐ、イヴは父の部屋の扉を開けた。
幸い、今日アダムは仕事で部屋に缶詰状態だ。話を遮られることはない。
「ききたいことがあるんだけど、いい?」
扉の隙間から、イヴは王の顔色を伺った。
「ああ! もちろんだよ! なんでも! このお父様に聞いていいからね!」
昨日逃げられたショックからはもう立ち直ったのか、父は相変わらずハートマークを周囲に撒き散らしながら、熱烈にイヴを歓迎している。
いつもこの調子なので、イヴはこの人が王だということを時折忘れそうになるのだ。
父に読んでもらう絵本の中に登場する王様は、背をのけぞらせ、いつも王冠をかぶっている。
真っ白な髭を蓄えた、威厳に満ちた老人。
そんな姿をイメージするのだが、父には全くと言っていいほど近付きがたい雰囲気はない。
実際の年齢はともかく、見た目だけならアダムと同じか、それどころか少し歳下にすら映る。
二十代後半、盛っても三十代前半が関の山といったところか。
髪色も白ではなく黒、顔立ちも厳つくはない。むしろ柔らかな印象を受けるほどであり、十人に聞けば十人が「いい人そう」と答えるであろう程度には善人顔だ。
見た目があてにならない場所ではあるのだが、もう少し威厳のある顔をするべきなのではないだろうか。
アダムの仏頂面を脳内に浮かべながら、イヴは扉をそっと閉ざし自身を招き入れた父の顔を凝視していた。
「それで? 聞きたいことというのは何かな?」
王として崇められているはずの男は、背を屈め、地面に片膝を付き、平和ボケした笑顔を浮かべた。
「『ちえのきのあくま』って、なに?」
ぎょっと目を見開き、父の顔が固まる。
まさかその名前を娘の口から聞くことになるとは思わなかったと言わんばかりの形相で、王はしばしうろたえの色を見せた。
「その呼び方は、あまり好きではないかな。ひどく差別的だからね」
苦笑いを浮かべ、父はイヴの頭を静かに撫でた。
「『さべつてき』?」
「その人のことをよく知りもしないのに、勝手に悪い人だって思い込んでしまうこと、と言えば伝わるかな?」
頷けば、父は説明を続けた。
「知恵の木には、蛇の長が住んでいる。彼は少し変わり者でね、知恵の木に一人で暮らしているんだよ。蛇はとても賢い生き物で……その賢さ故に、嫌われている」
話すにつれ、父の声のトーンは下がっていく。
「どうして? かしこいなら、いろんなことをおしえてもらえばいいじゃない」
純粋に、イヴは首をもたげた。
自分の知らないことを知っているものがいるというのなら、その知識を分けて貰えばいい。
むしろ尊敬に値すべきだ。そんな理由で恐れるというのはおかしな話である。
「そうだね。みんながイヴみたいに考えてくれたのなら、『悪魔』なんて単語は生まれなかったのかもしれない。……でも、そんなに単純な問題でもないんだよ」
「……よくわからないわ」
「世の中には、いい人ばかりではないってことだよ」
「ふーん」
今の説明だけでは、結局蛇がどういう存在なのかということは理解できなかった。
ただ、理不尽に嫌われているという断片的な情報が分かっただけである。
ますます興味深い。
イヴにとって、ここまで冒険心が刺激される存在は初めてだった。
(あした、あいにいってみよう)
誰に咎められても、すでにイヴは知恵の木を訪れる決意を固めていた。
単純に知りたかったのだ。
そこまでしてアダムが遠ざけようとしていた存在を。
皆が恐れているものの正体を。恐るるに足る者であるのかを。
「難しい問題なんだよ。……でも、そうだね。会いたいというのなら、僕はそれを咎めはしないよ」
イヴの心境を察してか、王はそんなことを呟いた。
驚きに目を見開けば、父は真面目な様子で静かに声を漏らす。
「いいの?」
「ああ、いいとも。――ただ」
父の指が、すとんとイヴの胸をさす。
「決して、その心までは蝕まれてしまわないように」
ちょうど心臓の真上を指し示しながら、珍しく怖い顔をする王を、イヴは奇異の目で見つめていた。
顔を深く覗き込み、内緒話をするかのように耳元へと囁きかける父の声は、ひたすらに静かなものだった。
ただならぬ気迫を感じ、イヴは恐る恐るといった様子で父へと尋ねかけた。
「おとうさま……?」
「……なんでもないよ。さあ! 質問は終わりかな?」
父は立ち上がり、腰に両腕を当ててみせる。
わざとらしいまでににっと歯を見せて笑った父に、イヴは小さく首を縦に振った。
これ以上聞いてはいけない。父には父の事情があるのだと、イヴは無理やりに自分を納得させた。
窓の外には、美しい赤が広がっている。
夕日の赤に照らされた扉の外、舌打ちをこぼし足早に去っていく影に、ついぞイヴが気付くことはなかった。
澄み渡る青空が広がり、草花はそよ風に楽しげに揺れている。
イヴはいつもどおり、屋敷からほど近い場所にある花畑で友人と話をしていた。
そんな、ありふれた午後のことだ。
「『ちえのきのあくま』ってどんなひとなの?」
イヴの問いに、それまで笑顔で花冠を作っていた少女は動きを止めた。
イヴの顔を凝視したまま、顔を真っ青にし、桃色の髪の少女はどこかぎこちなく口角を吊り上げている。
昨日アダムに『知恵の木の悪魔』の話をされてから、イヴの脳裏には、その名が呪いのようにこびりついて離れなかった。
気になったので今朝アダムに再度聞いてはみたのだが、返事は振るわない。
むしろ彼の地雷を踏んでしまったようで、あからさまに不機嫌をあらわにするアダムから逃げるようにしてこの場へとやってきたのだが、友人の反応もアダムと似たようなものだった。
イヴの目には気まずそうに目を逸らす友人は、一刻も早く話を切り上げたいと念じているようにすら見える。
「ど、どこでそのお話を?」
「アダムからきいたの。きのう、どうしてちかづいちゃいけないの? ってきいたら、おしえてくれたわ」
「……左様でございますか」
どこか安堵するかのように、少女は胸に片手をあて、ほうと息を吐いた。
「なにか、まずいことをいった?」
「いえいえ!イヴ様がお気になさることではございませんわ。さあさあイヴ様、完成いたしましたわよ。……まあ! とってもお似合いですわ!」
出来上がったシロツメクサの冠をイヴへと被せてやりながら、少女は紛らわすように、わざとらしく笑む。
しかしこれくらいで濁されてやるほど、イヴは甘くはなかった。
「ラビ」
懐疑的な眼差しで睨み付ければ、ラビは気まずげに視線を逸らした。
そのまま、無言になった少女を諦めることなく睨み続ける。
ラビはしばし口をもごもごとさせ必死に堪えているようだったが、やがて根負けしたのか、諦めたように深く溜息を吐くと、大人しく『知恵の木の悪魔』についての説明を始めた。
「……とても恐ろしい男なのです。狡猾で、残忍で、執念深くて……! ああ! 口に出すのもおぞましい!」
「……そんなにこわいひとが、らくえんにいるとはおもえないんだけど」
並べ立てられた言葉の意味を正確に把握してはいなくとも、決して誉めているわけではないということだけは察することができた。
楽園は王により守られた地だ。
そんな場所に、悪人が住んでいるとは到底考えられなかった。
「イヴ様は何も知らないからそのようなことを言えるのです!」
びくり、と肩を震わせる。
ラビがここまで激昂した姿を、いままでイヴは見たことがなかった。
うさぎの長であるラビは、普段はとても穏やかでおっとりとしている。
歳も、実際は彼女の方がかなりの上にあたるのだが、外見だけなら比較的に近いことから、楽園に暮らすものたちの仲ではもっとも長い時間接してきたと言っても過言ではない。
それに関しては「うさぎならまあいいだろう」と、過干渉気味のアダムに容認されていることも大きいのだが、イヴにとっては姉のような人なのだ。
そんな見知った彼女が、ぜえはあと息を荒げている。
「いいですか! 蛇は本当に恐ろしい生き――」
はっと、少女は口を押さえ固まった。
赤くなったり青くなったり忙しいことこの上ない。
「へび?」
「あああああ!! わ、忘れてください! 今の話はなかったことに……!」
スカートの裾を握りしめ、ラビは深々とイヴに対し頭を下げた。
よく見れば、少女の腕は小刻みに震えている。
下を向いたまま顔を上げようとしないラビは、何かを恐れているようだった。
「そうね。へんなことをきいてごめんなさい」
「……いえ、イヴ様が謝るようなことでは」
「とりあえず、かおをあげてよ」
促せば、ラビは恐る恐る顔を上げた。
「わたしはなにもきいてない。だからだれにもいったりしないわ。ほんとうよ?」
静かに微笑めば、ラビの目には涙がにじむ。
声を上げわんわんと泣き始めたラビの背をさすってやりながら、イヴの脳裏は別の考えに支配されていた。
何がそこまで、ラビを恐れさせるのか。
本人の意図せぬところで、イヴの興味はますます『知恵の木の悪魔』へと向いていた。
「おとうさま」
屋敷に戻ってすぐ、イヴは父の部屋の扉を開けた。
幸い、今日アダムは仕事で部屋に缶詰状態だ。話を遮られることはない。
「ききたいことがあるんだけど、いい?」
扉の隙間から、イヴは王の顔色を伺った。
「ああ! もちろんだよ! なんでも! このお父様に聞いていいからね!」
昨日逃げられたショックからはもう立ち直ったのか、父は相変わらずハートマークを周囲に撒き散らしながら、熱烈にイヴを歓迎している。
いつもこの調子なので、イヴはこの人が王だということを時折忘れそうになるのだ。
父に読んでもらう絵本の中に登場する王様は、背をのけぞらせ、いつも王冠をかぶっている。
真っ白な髭を蓄えた、威厳に満ちた老人。
そんな姿をイメージするのだが、父には全くと言っていいほど近付きがたい雰囲気はない。
実際の年齢はともかく、見た目だけならアダムと同じか、それどころか少し歳下にすら映る。
二十代後半、盛っても三十代前半が関の山といったところか。
髪色も白ではなく黒、顔立ちも厳つくはない。むしろ柔らかな印象を受けるほどであり、十人に聞けば十人が「いい人そう」と答えるであろう程度には善人顔だ。
見た目があてにならない場所ではあるのだが、もう少し威厳のある顔をするべきなのではないだろうか。
アダムの仏頂面を脳内に浮かべながら、イヴは扉をそっと閉ざし自身を招き入れた父の顔を凝視していた。
「それで? 聞きたいことというのは何かな?」
王として崇められているはずの男は、背を屈め、地面に片膝を付き、平和ボケした笑顔を浮かべた。
「『ちえのきのあくま』って、なに?」
ぎょっと目を見開き、父の顔が固まる。
まさかその名前を娘の口から聞くことになるとは思わなかったと言わんばかりの形相で、王はしばしうろたえの色を見せた。
「その呼び方は、あまり好きではないかな。ひどく差別的だからね」
苦笑いを浮かべ、父はイヴの頭を静かに撫でた。
「『さべつてき』?」
「その人のことをよく知りもしないのに、勝手に悪い人だって思い込んでしまうこと、と言えば伝わるかな?」
頷けば、父は説明を続けた。
「知恵の木には、蛇の長が住んでいる。彼は少し変わり者でね、知恵の木に一人で暮らしているんだよ。蛇はとても賢い生き物で……その賢さ故に、嫌われている」
話すにつれ、父の声のトーンは下がっていく。
「どうして? かしこいなら、いろんなことをおしえてもらえばいいじゃない」
純粋に、イヴは首をもたげた。
自分の知らないことを知っているものがいるというのなら、その知識を分けて貰えばいい。
むしろ尊敬に値すべきだ。そんな理由で恐れるというのはおかしな話である。
「そうだね。みんながイヴみたいに考えてくれたのなら、『悪魔』なんて単語は生まれなかったのかもしれない。……でも、そんなに単純な問題でもないんだよ」
「……よくわからないわ」
「世の中には、いい人ばかりではないってことだよ」
「ふーん」
今の説明だけでは、結局蛇がどういう存在なのかということは理解できなかった。
ただ、理不尽に嫌われているという断片的な情報が分かっただけである。
ますます興味深い。
イヴにとって、ここまで冒険心が刺激される存在は初めてだった。
(あした、あいにいってみよう)
誰に咎められても、すでにイヴは知恵の木を訪れる決意を固めていた。
単純に知りたかったのだ。
そこまでしてアダムが遠ざけようとしていた存在を。
皆が恐れているものの正体を。恐るるに足る者であるのかを。
「難しい問題なんだよ。……でも、そうだね。会いたいというのなら、僕はそれを咎めはしないよ」
イヴの心境を察してか、王はそんなことを呟いた。
驚きに目を見開けば、父は真面目な様子で静かに声を漏らす。
「いいの?」
「ああ、いいとも。――ただ」
父の指が、すとんとイヴの胸をさす。
「決して、その心までは蝕まれてしまわないように」
ちょうど心臓の真上を指し示しながら、珍しく怖い顔をする王を、イヴは奇異の目で見つめていた。
顔を深く覗き込み、内緒話をするかのように耳元へと囁きかける父の声は、ひたすらに静かなものだった。
ただならぬ気迫を感じ、イヴは恐る恐るといった様子で父へと尋ねかけた。
「おとうさま……?」
「……なんでもないよ。さあ! 質問は終わりかな?」
父は立ち上がり、腰に両腕を当ててみせる。
わざとらしいまでににっと歯を見せて笑った父に、イヴは小さく首を縦に振った。
これ以上聞いてはいけない。父には父の事情があるのだと、イヴは無理やりに自分を納得させた。
窓の外には、美しい赤が広がっている。
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