上 下
53 / 89

53

しおりを挟む
「でもアシュリーが妊娠していたのはたしかなことだわ。ここを出て、子供の本当の父親のもとに向かったのならいいけれど」

(妊娠を利用する詐欺……人の善意や好意を嘲笑っているようで不快だわ。優しくあらねばならないって偽善を演じていた自分まで映し出してしまうんだもの)

 サラは重い溜息をついた。

「結婚詐欺師を心配するのはやめましょう」ポールは一枚の紙を示した。「おじさんとおばさんが病院に行っていた間に、土地の売買のことで話し合いをさせてもらったんですがね」

 サラは紙に並んでいる数字を見て息を飲んだ。思っていたよりも桁が多い。

「あの、ダンディー……いえ、ミスター・レオノール。やり手弁護士二人に騙されていませんこと?」

「はっはっは。いえいえ、そんなことは」

 レオノールの笑い声は思ったよりも若々しい。

「新大陸の人間は歴史や文化に弱いのです。これを機会に公爵家の方とお近づきになりたいという欲も多少はあります。が、この数字は、まあ妥当だと思いますよ」

「サラおばさん、世界中と交易しているレオノール氏は桁違いの金持ちなんですよ。極東の島国はもちろん世界一高い山を経て砂漠をラクダで越えピーちゃんの故郷の大陸まで冒険した探検家でもあるんですから」

 サラは溜息をついた。世界なんてサラにとっては概念にすぎない。世界のことを思考に上らせたことなど一度もないのだ。

(わたくしなんて、ピーちゃんの故郷がどんなところかさえ想像できないわ)

「ところで、どうするんですか。サラおばさん」

「え、わたくしに訊かれても困るわ。荘園の売買は公爵に訊いてちょうだい」

「そうじゃありませんよ。アシュリーが撤退した今もまだ離婚を望んでるんですか」

「……離婚」

 サラははたと気づいた。トール、ポール、ガイ、レイン、レオノール。紳士五人がサラを凝視している。圧がすごい。

「離婚調停が不要なら、僕はここらあたりで退場しないといけませんね」

 レインは少し残念そうな表情になった。

「慰謝料の多寡に関係がなくなるなら俺も売買に首を突っ込む必要はない」

 ガイは探るような目でサラを見た。

「ああ、なるほど、そうね」サラは一瞬言葉に詰まった。

 関係の修復を望むかと訊ねられたら、一言では答えられない。離婚することのメリットとデメリットを天秤にかけているわけではない。愛人がいなくなれば、元通りの夫婦関係に戻れるかときかれたら──答えはノーだ。
 関係の修復ではなく、新しい関係の構築が必要になる。それはとても難しいのではないだろうか。
 サラの心の形が変わってしまったからだ。

 おそらく、公爵も変わってしまっただろう。
 今まで目を瞑っていたものや、目を瞑らされていたものに気づいてしまったら。なにも知らなかった時代には帰ることはできないのだから。
しおりを挟む

処理中です...