33 / 55
南街区へ行こう
しおりを挟む
「最低だ、最悪だ。うわー、気持ち悪い」
李医師はずぶ濡れの犬のように全身をぶるぶると震わせている。今、二人がいるのは街区のはずれにある寺院の墓地である。かたわらには棺桶。蓋がずれて若い男の遺骸が覗いている。
「ごめんなさい。肥櫃を運び出すのが夜だなんて知らなかったのよ」
小月が考えたのは、煌びやかな後宮の人間だって排泄はする、という現実である。牢房に排泄用の壺があったように、平寧宮にも排泄場所に便壺が備えてある。座って用を足せるように穴が開いた板の覆いがついていた。こまめに交換されているようで、常に綺麗な状態だったが、排泄物は肥櫃に溜めて必ず外に運び出すはずだ。その肥櫃の一つに紛れ込んで、こっそりと脱出しようと目論んだのだが、屎尿馬車の往来は人目を避けて夜間に限られていることがわかった。小月が諦めかけ、李医師が安堵したとき、馬の嘶きが聞こえてきた。別の馬車が今まさに出発しようとしていた。
「本来なら死者の運び出しは夜間にするみたいね。疫病を恐れて、一刻も早く後宮から出したかったんでしょうね。幸運だわ、私たち」
「何が幸運だ。棺桶に隠れるなんて、最悪な脱出方法だ」
「宦官さんには窮屈な思いをさせて申し訳なかったわ。でも李医師はお医者さんなのだから死体にはなれているでしょう?」
二人は名前も知らない死体に抱きついて狭い棺桶に隠れていたのだ。
何も知らない御者は目的地である寺院の墓場で馬車を停めた。棺桶の蓋ががたがた動くのに気付いた彼は、荷台から棺桶を蹴り落して逃げてしまった。怪異だと思ったのだろう。死んだ宦官には気の毒だが、御者はいずれ埋葬人夫をつれて戻ってくるはずだ。小月はそっと手を合わせた。
棺桶から目を背けながら李医師が嘯く。「俺は死体が嫌いだから、死なせないように頑張ってるんだよ!」
「私たち、病気で亡くなった遺体に抱きついたわけだけど、伝染ると思う?」
「多分大丈夫だろう」
「どうして大丈夫だと言えるの?」
「俺は何十人もの病者に触れたが、接触が原因で伝染ったことがないんだ」
「え、本当に?」
「もちろん、俺も過去に何度か罹ったことがある。病者との接触が原因なら発症までの日数に規則性がないことになる。だが流行り病には規則性があるものなんだ」
「規則性……」
「そう、お嬢ちゃんに言われるまで考えてなかったけどな、なんせ珍しくない病だったし、どうやって伝染るかなんてわからない。運が悪いなと思ったくらいだ。……そういや、一人で山の中をうろうろしてた時にも罹ったことがあったな。山小屋で薬草作りに夢中になってて何日間も誰とも会わなかったのに、なんで発症したんだろう」
「山で動物に噛まれたとか、腐ったものを食べたとか?」
「いやあ、ないな。そういや聞いた話だと西のほうでは鼠が疫病を運ぶことがあるらしいな。鼠みたいにそこらにありふれてるもんが媒介してたら厄介だな。えーと、南街区はどっちかな」
鼠が疫病を撒き散らかす。恐ろしい話だと小月は思った。宦官と藩貴妃に接点がなくても、鼠が媒介したとしたら合点がいく。後宮では鼠を見かけなかったが、一匹もいないとは言い切れないだろう。
二人は街区を目指して歩いた。小月はきょろきょろと見回した。皇都の街中を歩くのは初めてだったので凡その見当を立ててみた。「えーと、下層民が多く住んでるって聞いたから、おそらく宮廷から遠い端っこじゃないかしら。南街区だから、……南はあっちね」
「人が多くなってきたな」
通りをいくつか横切り、市場や商店が目立つようになるにつれ、人が活発に行きかうようになった。道幅の広い目抜き通りがまっすぐに伸びている。ここが皇都の中心なのかもしれない、と小月は目を瞠った。道の両側には三階建て以上の立派な屋楼がずらりと並んでいる。
「水が原因ではなかったんですよね?」
「栄の町と皇都では水源が違う。腐った水を飲んでおっ死ぬことはあるが、症状が違う。そういう単純なもんじゃねえ。さすが皇都、色気のある建物が多いねえ。しかもどこも賑わっている。疫病とは無縁に見えるな」
李医師は油を売る店を見つけると、店主に南街区の場所を尋ねた。店主は客が持参した容器に油を移している最中だったが愛想のいい人物だった。せわしない皇都の繁華街で、ここだけはゆったりとした時間が流れているように見えた。
「何故、口の細い容器を使っているの。漏斗を使うから余計に時間がかかってしまうんじゃない?」
小月の素朴な疑問に、店主が笑って答えた。「口の細い容器には利点があるんだ。倒しても多量は零れない」
客は苦笑した。「油は高価だからな。大きくて口の広い瓶を持ってくる客は金持ちだけだよ」
なるほどと腑に落ちた。植物を絞って作った油はさらりとしているが、とても高価なのだそうだ。後宮では植物油をふんだんに使った料理を食べている。後宮の厨房にある油壺はさぞ大きいことだろう。
「ずっとずっとずっとまっすぐ行ったどん詰まりの南側だよ」
小月と李医師は店主に礼を言って店を出た。
「距離がありそうだな」
李医師は手庇をして目を細めた。並んで歩きながら小月は疫病について考えた。
「さっき、接触で伝染らないって言ってたけど、もし、例えばの話なんだけど、唇と唇を合わせたせいで伝染ったとか……ないかしら?」
「なんだ、それ」
「例えばの話よ」
「うーん、考えにくいな」
「え、本当?」
小月の脳裏には藩貴妃に口移しで水を飲ませた映像が浮かび、霧散した。
「栄の町に、病者の口から疫神を吸い出すインチキ呪術師がいたんだけど、伝染らなかったからね」
「だとしたら、むしろどうやったら伝染るの──? 李医師?」
李医師は三階建ての真っ赤な屋楼を見るや、すたすたと歩み寄る。
李医師はずぶ濡れの犬のように全身をぶるぶると震わせている。今、二人がいるのは街区のはずれにある寺院の墓地である。かたわらには棺桶。蓋がずれて若い男の遺骸が覗いている。
「ごめんなさい。肥櫃を運び出すのが夜だなんて知らなかったのよ」
小月が考えたのは、煌びやかな後宮の人間だって排泄はする、という現実である。牢房に排泄用の壺があったように、平寧宮にも排泄場所に便壺が備えてある。座って用を足せるように穴が開いた板の覆いがついていた。こまめに交換されているようで、常に綺麗な状態だったが、排泄物は肥櫃に溜めて必ず外に運び出すはずだ。その肥櫃の一つに紛れ込んで、こっそりと脱出しようと目論んだのだが、屎尿馬車の往来は人目を避けて夜間に限られていることがわかった。小月が諦めかけ、李医師が安堵したとき、馬の嘶きが聞こえてきた。別の馬車が今まさに出発しようとしていた。
「本来なら死者の運び出しは夜間にするみたいね。疫病を恐れて、一刻も早く後宮から出したかったんでしょうね。幸運だわ、私たち」
「何が幸運だ。棺桶に隠れるなんて、最悪な脱出方法だ」
「宦官さんには窮屈な思いをさせて申し訳なかったわ。でも李医師はお医者さんなのだから死体にはなれているでしょう?」
二人は名前も知らない死体に抱きついて狭い棺桶に隠れていたのだ。
何も知らない御者は目的地である寺院の墓場で馬車を停めた。棺桶の蓋ががたがた動くのに気付いた彼は、荷台から棺桶を蹴り落して逃げてしまった。怪異だと思ったのだろう。死んだ宦官には気の毒だが、御者はいずれ埋葬人夫をつれて戻ってくるはずだ。小月はそっと手を合わせた。
棺桶から目を背けながら李医師が嘯く。「俺は死体が嫌いだから、死なせないように頑張ってるんだよ!」
「私たち、病気で亡くなった遺体に抱きついたわけだけど、伝染ると思う?」
「多分大丈夫だろう」
「どうして大丈夫だと言えるの?」
「俺は何十人もの病者に触れたが、接触が原因で伝染ったことがないんだ」
「え、本当に?」
「もちろん、俺も過去に何度か罹ったことがある。病者との接触が原因なら発症までの日数に規則性がないことになる。だが流行り病には規則性があるものなんだ」
「規則性……」
「そう、お嬢ちゃんに言われるまで考えてなかったけどな、なんせ珍しくない病だったし、どうやって伝染るかなんてわからない。運が悪いなと思ったくらいだ。……そういや、一人で山の中をうろうろしてた時にも罹ったことがあったな。山小屋で薬草作りに夢中になってて何日間も誰とも会わなかったのに、なんで発症したんだろう」
「山で動物に噛まれたとか、腐ったものを食べたとか?」
「いやあ、ないな。そういや聞いた話だと西のほうでは鼠が疫病を運ぶことがあるらしいな。鼠みたいにそこらにありふれてるもんが媒介してたら厄介だな。えーと、南街区はどっちかな」
鼠が疫病を撒き散らかす。恐ろしい話だと小月は思った。宦官と藩貴妃に接点がなくても、鼠が媒介したとしたら合点がいく。後宮では鼠を見かけなかったが、一匹もいないとは言い切れないだろう。
二人は街区を目指して歩いた。小月はきょろきょろと見回した。皇都の街中を歩くのは初めてだったので凡その見当を立ててみた。「えーと、下層民が多く住んでるって聞いたから、おそらく宮廷から遠い端っこじゃないかしら。南街区だから、……南はあっちね」
「人が多くなってきたな」
通りをいくつか横切り、市場や商店が目立つようになるにつれ、人が活発に行きかうようになった。道幅の広い目抜き通りがまっすぐに伸びている。ここが皇都の中心なのかもしれない、と小月は目を瞠った。道の両側には三階建て以上の立派な屋楼がずらりと並んでいる。
「水が原因ではなかったんですよね?」
「栄の町と皇都では水源が違う。腐った水を飲んでおっ死ぬことはあるが、症状が違う。そういう単純なもんじゃねえ。さすが皇都、色気のある建物が多いねえ。しかもどこも賑わっている。疫病とは無縁に見えるな」
李医師は油を売る店を見つけると、店主に南街区の場所を尋ねた。店主は客が持参した容器に油を移している最中だったが愛想のいい人物だった。せわしない皇都の繁華街で、ここだけはゆったりとした時間が流れているように見えた。
「何故、口の細い容器を使っているの。漏斗を使うから余計に時間がかかってしまうんじゃない?」
小月の素朴な疑問に、店主が笑って答えた。「口の細い容器には利点があるんだ。倒しても多量は零れない」
客は苦笑した。「油は高価だからな。大きくて口の広い瓶を持ってくる客は金持ちだけだよ」
なるほどと腑に落ちた。植物を絞って作った油はさらりとしているが、とても高価なのだそうだ。後宮では植物油をふんだんに使った料理を食べている。後宮の厨房にある油壺はさぞ大きいことだろう。
「ずっとずっとずっとまっすぐ行ったどん詰まりの南側だよ」
小月と李医師は店主に礼を言って店を出た。
「距離がありそうだな」
李医師は手庇をして目を細めた。並んで歩きながら小月は疫病について考えた。
「さっき、接触で伝染らないって言ってたけど、もし、例えばの話なんだけど、唇と唇を合わせたせいで伝染ったとか……ないかしら?」
「なんだ、それ」
「例えばの話よ」
「うーん、考えにくいな」
「え、本当?」
小月の脳裏には藩貴妃に口移しで水を飲ませた映像が浮かび、霧散した。
「栄の町に、病者の口から疫神を吸い出すインチキ呪術師がいたんだけど、伝染らなかったからね」
「だとしたら、むしろどうやったら伝染るの──? 李医師?」
李医師は三階建ての真っ赤な屋楼を見るや、すたすたと歩み寄る。
0
あなたにおすすめの小説
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。
結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
女性が少ない世界に転生した控えめ伯爵令嬢、なぜか五人の婚約候補に選ばれて少しずつ恋を知っていきます
ノッポ
恋愛
女性が極端に少ない異世界に転生した私は、気づけば伯爵令嬢になっていた。
前世は日本で普通に生きていたせいか、貴族令嬢らしい強気な振る舞いがどうしても苦手。
社交界デビューを迎えても、「どうして私が選ばれるの?」と戸惑うばかりだった。
けれど今年デビューする高位令嬢はわずか三人。
家同士の思惑も重なり、騎士団長家の息子、宰相子息、魔術師団長の息子、幼なじみの侯爵子息、そして英雄騎士――
五人の若きエリートとのお見合いが次々と始まってしまう。
遠慮がちで控えめな性格は、この世界では珍しく、気づけば少しずつ距離を縮めていく彼ら。
異世界での恋愛に戸惑う日々。けれど出会いを重ねるたびに、私は少しずつ変わっていく――。
女性希少世界で、自分の幸せを選べるようになるまでの逆ハーレム恋愛ファンタジー。
なんか、異世界行ったら愛重めの溺愛してくる奴らに囲われた
いに。
恋愛
"佐久良 麗"
これが私の名前。
名前の"麗"(れい)は綺麗に真っ直ぐ育ちますようになんて思いでつけられた、、、らしい。
両親は他界
好きなものも特にない
将来の夢なんてない
好きな人なんてもっといない
本当になにも持っていない。
0(れい)な人間。
これを見越してつけたの?なんてそんなことは言わないがそれ程になにもない人生。
そんな人生だったはずだ。
「ここ、、どこ?」
瞬きをしただけ、ただそれだけで世界が変わってしまった。
_______________....
「レイ、何をしている早くいくぞ」
「れーいちゃん!僕が抱っこしてあげよっか?」
「いや、れいちゃんは俺と手を繋ぐんだもんねー?」
「、、茶番か。あ、おいそこの段差気をつけろ」
えっと……?
なんか気づいたら周り囲まれてるんですけどなにが起こったんだろう?
※ただ主人公が愛でられる物語です
※シリアスたまにあり
※周りめちゃ愛重い溺愛ルート確です
※ど素人作品です、温かい目で見てください
どうぞよろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる