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「前に進め」
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現場というのは廃工場だった。
街灯が少なく、夜間には真っ暗になる地域だ。
工場越しに川が見えた。月を照らし返す川面がキラキラと煌めいている。不似合いにも美しい光景だった。
「よし、着いたぞ。おりろ」
「うううー」
シートと一体化したくせに、おりろと言われても。
カッターを片手に、橋本は乱暴にテープを引き裂いた。助手席のドアを開け、芋虫状態のぼくを引きずり出した。尻と背中をしたたかに打つ。腿と足首を拘束されているため歩くことができない。
「足首のテープだけ解く。前に進め」
制服の襟首を掴まれ、後ろから押される。抗って首を左右に振ってみた。視界の隅、右側数メートル先にセダンがとまっていた。誰か助けてくれ。願いは叶わず、車中は真っ暗だった。シルバーグレーのボディ。見覚えがあった。
下村先輩のスマホの中で見た車。猫バンバンでブチきれたオヤジの車。それはまさにあの車ではないか。
腿をテープで縛られているため、タイトスカートをはいた女性のようにちょこちょことしか歩けない。走って逃げるのは無理そうだ。
橋本は規制テープをカッターで裂いた。わずかな星明かりの下、草むらがざわめいている。足を踏み入れると、一瞬だけ虫の声が消える。まるで侵入者を非難するかのように。
「遠慮せず、中にどうぞ。妻が寝ていたところへ」
廃工場の内部に押し込まれた。ぽっかりと空いた広大な構内。シンと冷えた空間。生産を忘れた廃墟。黒々とした怪物の胃の中。
ぼくは鼻から大きく息を吸い込み、思い切り強く吐き出した。
「ぶは!」
口に貼りついていたガムテープが床に落ちる。ぺちゃと嫌な音がした。粘着力を弱めるために、ここに来るまでの間、ずっと舐めていたのだ。命がけのディープキス。
「橋本さん、話を聞いてください」
「ここで大声を上げても無駄だよ。近隣には住居がないからな」
「違います。話を聞いてほしいだけです」
説得するチャンスは今しかない。
「ぼくは犯人ではありません。だからぼくが必ず真犯人を見つけ出します」
「なんだって?」
「あ、あの、ぼくができなくても、できる人がいます。ぼくの友人に優れた能力を持った男がいます。ささいなことから真実を見抜きます。奥さんを殺した犯人を、彼なら絶対につきとめられます」
「ふん」
「彼に相談してみませんか。彼なら奥さんの本当の愛人を見つけられるだろうし、真相も暴けるはずです。天才探偵なんです。ぼくを信じてください。復讐したい気持ちはわかりますが、相手を間違っていては、なくなった奥様も浮かばれませんよ」
「あんたを殺せば、充分なんだ」
「捨てばちはよくないです。ぼくも昔、彼女に浮気されたり家族に見捨てられたりしたことがあります。裏切られた辛さはわかります。でも自暴自棄になってはいけません。希望はあります。警察も容疑者を絞り込んでいるって言ってますし」
「だからよ」
「だから?」
「あんたが真犯人になるんだ。愛人だったあんたは別れ話でもめて妻を殺した。何食わぬ顔で日常生活を送っていたが、今日、殺した愛人の家に配達に行かなけれならなかった。夫に荷物を手渡したときに、とうとう良心の呵責に耐えきれず、仕事中に逃走。遺棄現場で首を吊る。よくあるシナリオだろう」
ぼくは一瞬意味がわからなかった。間抜けな顔をしていたことだろう。「なにを、なんで、ぼくが……」
殺されて、犯人に仕立てられるなんて、冗談じゃない。
この男は狂っている。
「自殺を偽装するにしたって、難しいですよ。ここからどうやって帰るんです。配達車両は使えないし、歩いて帰ると大変ですよ。この時間だとタクシーつかまりにくいですよ。そういえば、よくここまでまっすぐ来れましたね。途中の道には一方通行が多いのに」一息にまくしたてた。何か気を引く言葉が言えたらとそれだけを考えていた。「道を知っていたんですね。よく来てたんですか。奥様思い出して?」
目が暗闇になれると工場の壁からむき出しの鉄骨が生えているのが見えた。そこにロープがだらりと垂れ下がっている。一方は床にしなだれ落ちている。もう一方の先端には、丸い輪。
「わたしの車は用意してある。心配してくれてありがとう」
外に停まっていたセダンか。記憶が一致した。初めて橋本に会ったとき、彼が乗っていたのはあのセダンだった。下村が勝手に猫バンバンした車。事件の前から、この付近に停車させていた車。事件が起こる前から付近をうろうろしていたなんて、まるで下調べ──
「あんたが死ねば一件落着なんだ。真相なんて暴かれたら私が困ってしまうんでね」
「まさか……」
ロープが首にかけられた。身体を捻って逃れようとしたが、かえって食い込んだ。
「う」
薄暗がりに小さな稲妻が光る。身体が勝手に跳ねた。
「手間をかけさせるな。大人しくいけ」
「や……め、ろ」
頭部ぐいと上に引っ張られた。ロープが喉を絞める。声が出ない。
「ちゃんと手順は考えているんだ。あんたが息絶えたらロープを固定する。身体に貼りついたテープはあとで綺麗に始末しておく。靴も綺麗に揃えてあげよう。配達の車はドラレコのカードを抜いて、放置しておく」
「う……」
「わたしは自分の車で家に帰る。近所に月極の駐車場を借りている。監視カメラも何もない地味な駐車場だ。誰も気づかない。わたしにはアリバイがあるんだ」
そう言えば橋本さんの家には車庫がなかった。近所の月極に駐めていたのか。もっと早く気づいていれば。丹野は何をしていたんだよ。ぼく自身はなにをしていたんだ。丹野にまかせたつけが回ってきたのか。
冤罪をでっちあげられて、あげくに殺されるなんて。
もうだめだ。意識が遠のく。もう死ぬのか。
街灯が少なく、夜間には真っ暗になる地域だ。
工場越しに川が見えた。月を照らし返す川面がキラキラと煌めいている。不似合いにも美しい光景だった。
「よし、着いたぞ。おりろ」
「うううー」
シートと一体化したくせに、おりろと言われても。
カッターを片手に、橋本は乱暴にテープを引き裂いた。助手席のドアを開け、芋虫状態のぼくを引きずり出した。尻と背中をしたたかに打つ。腿と足首を拘束されているため歩くことができない。
「足首のテープだけ解く。前に進め」
制服の襟首を掴まれ、後ろから押される。抗って首を左右に振ってみた。視界の隅、右側数メートル先にセダンがとまっていた。誰か助けてくれ。願いは叶わず、車中は真っ暗だった。シルバーグレーのボディ。見覚えがあった。
下村先輩のスマホの中で見た車。猫バンバンでブチきれたオヤジの車。それはまさにあの車ではないか。
腿をテープで縛られているため、タイトスカートをはいた女性のようにちょこちょことしか歩けない。走って逃げるのは無理そうだ。
橋本は規制テープをカッターで裂いた。わずかな星明かりの下、草むらがざわめいている。足を踏み入れると、一瞬だけ虫の声が消える。まるで侵入者を非難するかのように。
「遠慮せず、中にどうぞ。妻が寝ていたところへ」
廃工場の内部に押し込まれた。ぽっかりと空いた広大な構内。シンと冷えた空間。生産を忘れた廃墟。黒々とした怪物の胃の中。
ぼくは鼻から大きく息を吸い込み、思い切り強く吐き出した。
「ぶは!」
口に貼りついていたガムテープが床に落ちる。ぺちゃと嫌な音がした。粘着力を弱めるために、ここに来るまでの間、ずっと舐めていたのだ。命がけのディープキス。
「橋本さん、話を聞いてください」
「ここで大声を上げても無駄だよ。近隣には住居がないからな」
「違います。話を聞いてほしいだけです」
説得するチャンスは今しかない。
「ぼくは犯人ではありません。だからぼくが必ず真犯人を見つけ出します」
「なんだって?」
「あ、あの、ぼくができなくても、できる人がいます。ぼくの友人に優れた能力を持った男がいます。ささいなことから真実を見抜きます。奥さんを殺した犯人を、彼なら絶対につきとめられます」
「ふん」
「彼に相談してみませんか。彼なら奥さんの本当の愛人を見つけられるだろうし、真相も暴けるはずです。天才探偵なんです。ぼくを信じてください。復讐したい気持ちはわかりますが、相手を間違っていては、なくなった奥様も浮かばれませんよ」
「あんたを殺せば、充分なんだ」
「捨てばちはよくないです。ぼくも昔、彼女に浮気されたり家族に見捨てられたりしたことがあります。裏切られた辛さはわかります。でも自暴自棄になってはいけません。希望はあります。警察も容疑者を絞り込んでいるって言ってますし」
「だからよ」
「だから?」
「あんたが真犯人になるんだ。愛人だったあんたは別れ話でもめて妻を殺した。何食わぬ顔で日常生活を送っていたが、今日、殺した愛人の家に配達に行かなけれならなかった。夫に荷物を手渡したときに、とうとう良心の呵責に耐えきれず、仕事中に逃走。遺棄現場で首を吊る。よくあるシナリオだろう」
ぼくは一瞬意味がわからなかった。間抜けな顔をしていたことだろう。「なにを、なんで、ぼくが……」
殺されて、犯人に仕立てられるなんて、冗談じゃない。
この男は狂っている。
「自殺を偽装するにしたって、難しいですよ。ここからどうやって帰るんです。配達車両は使えないし、歩いて帰ると大変ですよ。この時間だとタクシーつかまりにくいですよ。そういえば、よくここまでまっすぐ来れましたね。途中の道には一方通行が多いのに」一息にまくしたてた。何か気を引く言葉が言えたらとそれだけを考えていた。「道を知っていたんですね。よく来てたんですか。奥様思い出して?」
目が暗闇になれると工場の壁からむき出しの鉄骨が生えているのが見えた。そこにロープがだらりと垂れ下がっている。一方は床にしなだれ落ちている。もう一方の先端には、丸い輪。
「わたしの車は用意してある。心配してくれてありがとう」
外に停まっていたセダンか。記憶が一致した。初めて橋本に会ったとき、彼が乗っていたのはあのセダンだった。下村が勝手に猫バンバンした車。事件の前から、この付近に停車させていた車。事件が起こる前から付近をうろうろしていたなんて、まるで下調べ──
「あんたが死ねば一件落着なんだ。真相なんて暴かれたら私が困ってしまうんでね」
「まさか……」
ロープが首にかけられた。身体を捻って逃れようとしたが、かえって食い込んだ。
「う」
薄暗がりに小さな稲妻が光る。身体が勝手に跳ねた。
「手間をかけさせるな。大人しくいけ」
「や……め、ろ」
頭部ぐいと上に引っ張られた。ロープが喉を絞める。声が出ない。
「ちゃんと手順は考えているんだ。あんたが息絶えたらロープを固定する。身体に貼りついたテープはあとで綺麗に始末しておく。靴も綺麗に揃えてあげよう。配達の車はドラレコのカードを抜いて、放置しておく」
「う……」
「わたしは自分の車で家に帰る。近所に月極の駐車場を借りている。監視カメラも何もない地味な駐車場だ。誰も気づかない。わたしにはアリバイがあるんだ」
そう言えば橋本さんの家には車庫がなかった。近所の月極に駐めていたのか。もっと早く気づいていれば。丹野は何をしていたんだよ。ぼく自身はなにをしていたんだ。丹野にまかせたつけが回ってきたのか。
冤罪をでっちあげられて、あげくに殺されるなんて。
もうだめだ。意識が遠のく。もう死ぬのか。
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