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六十八、 甘い残り香
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仙助は見るからに落胆していた。背は猫のように丸まり、枯れかけの百合のように垂れた頭はあぐらをかいた股ぐらにいまにも落ちてしまいそうだった。
「あんたには怖い思いをさせちまったな。迷惑をかけた」
お照の顔を見るや、仙助は土下座した。
「本物の高月にも謝りてえが、代わりにあんたが伝えてくれ」
「はあ」
「……どういうことだ。おまえを騙した女が本物ではなかったと気がついたのか」
半兵衛は困惑を表し、鬼頭は深い溜息をついた。
せっかくお照を連れてきたのに意味がなかったとでも言いたそうだ。
「なぜ考えが変わったのですか」
お照が問うと、仙助は深い井戸からわずかな水を掬い上げるように話し出した。
「あのときは、高月を見たら頭に血が上っちまってまともに考えることができなかったが、入牢して頭を冷やしていたら、おかしなことに気づいちまった。まず声が違った。逢瀬で聞いたのはもっと高い声で絡みつくような舌足らずだった」
仙助は花魁道中で見かけた高月しか知らない。呼び出しの花魁はやすやすと口を開かない。大金を支払った客にだって初回は無言を通すのだ。
仙助が高月の声を知らないのは当然のことだった。
「それに匂いも違った。逢い引きした高月はいつもおんなし甘い香りをまとわりつかせていた。髪と吐く息は殊更だった。だけど……おれが匕首をつきつけた高月は違ってた。抱き寄せたときに気づくべきだった。だけどあとから思い出したら怖くなったんだ……おれをノしたでかい女からもうっすらと甘い香りがしたから、安女郎の白粉の匂いだったのかなと……」
甘い香り。
お照は鬼頭を見た。鬼頭は目でうなずき返し、一度その場を去ると火をつけた煙管を持って戻ってきた。
「この香りではなかったか」
「そうだ、この甘ったるい匂い」
鬼頭が煙を吹きかけると、仙助は目をつむって鼻をひくひくとさせた。
阿芙蓉。
不穏な空気を感じ取ったのか、仙助は眉を歪ませた。
「お、おれが会っていたのはいったいだれだったんです。おれの金はどこに行っちまったんです」
返事がないと知ると仙助は上目遣いだった目を伏せてふたたび頭を深く下げた。
「ほんの出来心でした。武士の端くれでありながら護身用の匕首しか持っていなかったことで計画性がなかったってことは、賢明なお役人がたにはわかっていただけるでしょう。さいわい、刃先がちょっと掠っただけで花魁は無事だったんですから。なんといっても五百両もの大金を奪ったのが高月だと信じ込んでましたから、気が昂ぶって抑えがきかなくって……」
今度は同情を買おうと目論んだのだろう。反省し後悔もしているし、ちょっと魔が差しただけだったので武士の情けで許してほしい、と半兵衛と鬼頭に交互に頭を下げる。
お照の胸はすうっと冷えた。
「護身用の匕首しか持っていなかったとおっしゃいましたが、武士の魂である刀は竹光に代わっていたからじゃないんですか。お金が入り用なとき、まず刀を質に入れるのが武士でしょう。計画していたに決まってます。五百両のために辻強盗をしたときも、その匕首を握ってたんじゃないんですか?」
「……ぐッ」
仙助は拳を強く握った。うつむいているので表情は見えない。
身勝手だ。こめかみがかっかしていく。
半兵衛はそんなお照に耳打ちした。
「辻強盗の届けと仙助の話はぴたりと合っている。奉行所で調べを進めることもできるが、解き放ち、主家に引き渡そうと考えている」
お照は眉をしかめ目で訴えた。なぜです。
「奉行所で裁けば遠島になろう。だが解き放てば、主家で腹を切ることになる」
武家の面子を考えて、仙助の藩の江戸留守居役には内々に伝えてあるのだという。
そう聞いたとたん、冷や水をかけられたような気がした。面子は命と引き替えにできると武士は信じている。
お照にはもう仙助に言うことはなかった。ただ半兵衛と鬼頭には、ある。
「あの人を騙した男と女を逃さないでください」
「言われるまでもない」
鬼頭はむっつりと答えた。
「吉原を捜索する」
「あんたには怖い思いをさせちまったな。迷惑をかけた」
お照の顔を見るや、仙助は土下座した。
「本物の高月にも謝りてえが、代わりにあんたが伝えてくれ」
「はあ」
「……どういうことだ。おまえを騙した女が本物ではなかったと気がついたのか」
半兵衛は困惑を表し、鬼頭は深い溜息をついた。
せっかくお照を連れてきたのに意味がなかったとでも言いたそうだ。
「なぜ考えが変わったのですか」
お照が問うと、仙助は深い井戸からわずかな水を掬い上げるように話し出した。
「あのときは、高月を見たら頭に血が上っちまってまともに考えることができなかったが、入牢して頭を冷やしていたら、おかしなことに気づいちまった。まず声が違った。逢瀬で聞いたのはもっと高い声で絡みつくような舌足らずだった」
仙助は花魁道中で見かけた高月しか知らない。呼び出しの花魁はやすやすと口を開かない。大金を支払った客にだって初回は無言を通すのだ。
仙助が高月の声を知らないのは当然のことだった。
「それに匂いも違った。逢い引きした高月はいつもおんなし甘い香りをまとわりつかせていた。髪と吐く息は殊更だった。だけど……おれが匕首をつきつけた高月は違ってた。抱き寄せたときに気づくべきだった。だけどあとから思い出したら怖くなったんだ……おれをノしたでかい女からもうっすらと甘い香りがしたから、安女郎の白粉の匂いだったのかなと……」
甘い香り。
お照は鬼頭を見た。鬼頭は目でうなずき返し、一度その場を去ると火をつけた煙管を持って戻ってきた。
「この香りではなかったか」
「そうだ、この甘ったるい匂い」
鬼頭が煙を吹きかけると、仙助は目をつむって鼻をひくひくとさせた。
阿芙蓉。
不穏な空気を感じ取ったのか、仙助は眉を歪ませた。
「お、おれが会っていたのはいったいだれだったんです。おれの金はどこに行っちまったんです」
返事がないと知ると仙助は上目遣いだった目を伏せてふたたび頭を深く下げた。
「ほんの出来心でした。武士の端くれでありながら護身用の匕首しか持っていなかったことで計画性がなかったってことは、賢明なお役人がたにはわかっていただけるでしょう。さいわい、刃先がちょっと掠っただけで花魁は無事だったんですから。なんといっても五百両もの大金を奪ったのが高月だと信じ込んでましたから、気が昂ぶって抑えがきかなくって……」
今度は同情を買おうと目論んだのだろう。反省し後悔もしているし、ちょっと魔が差しただけだったので武士の情けで許してほしい、と半兵衛と鬼頭に交互に頭を下げる。
お照の胸はすうっと冷えた。
「護身用の匕首しか持っていなかったとおっしゃいましたが、武士の魂である刀は竹光に代わっていたからじゃないんですか。お金が入り用なとき、まず刀を質に入れるのが武士でしょう。計画していたに決まってます。五百両のために辻強盗をしたときも、その匕首を握ってたんじゃないんですか?」
「……ぐッ」
仙助は拳を強く握った。うつむいているので表情は見えない。
身勝手だ。こめかみがかっかしていく。
半兵衛はそんなお照に耳打ちした。
「辻強盗の届けと仙助の話はぴたりと合っている。奉行所で調べを進めることもできるが、解き放ち、主家に引き渡そうと考えている」
お照は眉をしかめ目で訴えた。なぜです。
「奉行所で裁けば遠島になろう。だが解き放てば、主家で腹を切ることになる」
武家の面子を考えて、仙助の藩の江戸留守居役には内々に伝えてあるのだという。
そう聞いたとたん、冷や水をかけられたような気がした。面子は命と引き替えにできると武士は信じている。
お照にはもう仙助に言うことはなかった。ただ半兵衛と鬼頭には、ある。
「あの人を騙した男と女を逃さないでください」
「言われるまでもない」
鬼頭はむっつりと答えた。
「吉原を捜索する」
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