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七十、 秋馬の朗報
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その夜、ねずみがまたも現れた。
箒を持って台所中を追いかけたお照だったが、ふと、ねずみの姿にどことなく愛嬌を感じた。千代田城でお照を家斉の御手討から助けてくれたねずみとよく似ている気がする。
いやいや、ねずみは裏長屋にもお城にもいるし、見た目はそうそう変わらない。あのときのねずみのはずがない。
だがしかし、あのねずみもこのねずみも全体が灰斑で耳の先だけが白い。そっくり同じだ。
「…………」
お照が戸惑っているあいだにねずみはうろちょろと動き回り、女将が大事に使っている石窯の中に枯れた百合の花を置いて逃げていった。
翌日、鬼頭が半兵衛を連れてやってきた。「此度は女将ひとりで城に来るように」と公方さまから命じられたという。
ねずみが顔を見せると翌日に鬼頭がやってくる。偶然だろうか。
ほんの寸の間顔を強張らせた女将だったが、凛と胸を張って鬼頭にうなずいた。
「お照さん、では行ってきますわ。シャルルのことをしっかりと守っていてくださいね」
「はい、もちろんです!」
お照の返答に、女将は満足げに微笑むとくるりと踵を返して耕地屋を出て行った。
心なしか、一緒にやってきた半兵衛は鬼頭に遠慮してか、口数が少なかった。
「女将さん、まっすぐ帰ってくるかしら」
「抜け駆けはずるい。そう思うでしょ、お照も」
牛小屋の掃除をしながらシャルルが芝居の見得をきった。
「鬼頭どのと半兵衛さんのふたりに挟まれていたら、抜け出して芝居町に行くことはできないと思うけど。でも女将さんはやるとなったらやるもんねえ」
「お母さま、わがままだもんねえ」
お照とシャルルは顔を見合わせて笑った。けして非難する意図などないのはお互いによくわかっていた。
女将は女将であって、女将以外にはなれない人なのだ。
女将のわがままに振り回されてばかりだが、嫌な気持ちにならないのが不思議だった。ときに腹が立っても、すぐに「仕方ないか、だって女将さんだもの」と飲み込めてしまうのだ。
持って生まれた徳なのかもしれない。羨ましいかぎりだ。
新しい吉牛はお照にも従順だった。仔を産んだばかりらしく乳がよく出る。お照が搾乳しているあいだに、シャルルはしょんべん塩を夢中になって集めて喜んでいた。
「まったく。女将さんの前ではそんなこどもっぽい顔しないくせに」
姉代わりのお照の前では素に戻るのだと気づくと、シャルルがいとおしくてしかたない。
万寿屋に頼まれていた分のクレームキャラメルを作り終えるとお照は一息ついた。
「お照さん、聞いてくれ。蔦屋がおれを使ってくれるってさ」
突如飛び込んできたのは秋馬だった。
なんのことかと首をひねっていると、
「忘れたのかい。俄の宣伝を耕書堂が引き受けると言ってただろう。その代わりに女将さんの錦絵を売り出したいって。その絵をおれに任せるって言ってくれたんだ」
「まあ、おめでとうございます、とうとう秋馬さんの実力が認められたんですねえ」
と言いつつ、お照は冷や汗をかいた。
女将の似顔絵の件、肝心の女将にまだ話していなかったからだ。
「まあねえ。で、女将さんはどこだい。ちょっと呼んできてもらえねえかな」
矢立と紙を取り出して、作業台で絵を描こうとする秋馬の性急さにお照は呆れた。
「秋馬さんは憶えがいいんだから目の前に女将さんがいなくったって書けるでしょう」
「なんだ、出かけてるのか。いや、憶えはよくてもよ、異人の服はよくわかんなくって」
「あれ、秋馬さんだ。いらっしゃい」
シャルルは張りぼての帆船を抱えて二階から降りてきたところだった。帆船は木でできた龍骨に紙を貼り付けて色を塗ってある。猫一匹くらいの大きさはあるだろうか。
「お、なんだい、そりゃ。異国の船を模したもんか」
「お父さまはたくさん船を持ってたんだよ」
「坊の父ちゃんは網元かあ。手先が器用だな、坊は。細かいとこなんかよくできてる。神田祭や山王祭の山車に実物大の帆船があったら見応えあるだろうなあ」
秋馬のなにげない一言がお照をどきりとさせた。
あれ以来、白蓮教からはなにも言ってこない。そのまま忘れてくれたらいいのだけれど、百両の大金に見合う仕事はいつかきっと指示されるはずだ。
女将は俄芝居が終わったら知らんぷりしそうだが、それでは仙助を騙して五百両を奪った詐欺男とやってることはさほど変わらないではないか。
あの男はだれかに始末されたのだ、とお照は信じている。
ああ、素振りがしたい!
体を動かしていないと不安に押しつぶされそうになる。
「いい出来だけどさ、帆船のおもちゃなんか作ってどうするんだい」
「お母さまの頭の上に飾るの」
「はあ?」
シャルルの奇妙な答えに秋馬は首を傾げた。
「次に登城するときには将軍が度肝を抜かす格好をしたいって言ってたんだけど……間に合わなかったんだ」
「そんときは是非見せてくれ。絵に残したい」
想像が追いつかなかったのだろう、秋馬がシャルルに頼んでいた。
もちろんお照もそんなへんてこな髪型は思い描くことさえ出来ない。
「舞台には、できるだけ珍妙な格好で出てほしいな。そしたら錦絵も評判になるだろうし」
「あの耕書堂が秋馬さんを認めてくれたのは凄いことですね。絵師として名が世間に響き渡りますね」
耕書堂は江戸で一番の版元である。良くも悪くも世間の注目を浴びている。その蔦屋が秋馬を選んだのだ。絵を教えてもらっているお照の鼻が高い。
だが一緒に耕書堂を訪ねたときの蔦屋の態度を思い返すと、蔦屋の急な心変わりは不自然な気がした。
「もしかして秋馬さん、なにか奥の手でも使ったんじゃないですか」
お照が笑いながらたずねると、秋馬は困ったように笑った。
「いやあ、実はね、ここだけの話……交渉されたんだよ。蔦重に」
「交渉?」
とたんに胸中で不安が頭をもたげた。
箒を持って台所中を追いかけたお照だったが、ふと、ねずみの姿にどことなく愛嬌を感じた。千代田城でお照を家斉の御手討から助けてくれたねずみとよく似ている気がする。
いやいや、ねずみは裏長屋にもお城にもいるし、見た目はそうそう変わらない。あのときのねずみのはずがない。
だがしかし、あのねずみもこのねずみも全体が灰斑で耳の先だけが白い。そっくり同じだ。
「…………」
お照が戸惑っているあいだにねずみはうろちょろと動き回り、女将が大事に使っている石窯の中に枯れた百合の花を置いて逃げていった。
翌日、鬼頭が半兵衛を連れてやってきた。「此度は女将ひとりで城に来るように」と公方さまから命じられたという。
ねずみが顔を見せると翌日に鬼頭がやってくる。偶然だろうか。
ほんの寸の間顔を強張らせた女将だったが、凛と胸を張って鬼頭にうなずいた。
「お照さん、では行ってきますわ。シャルルのことをしっかりと守っていてくださいね」
「はい、もちろんです!」
お照の返答に、女将は満足げに微笑むとくるりと踵を返して耕地屋を出て行った。
心なしか、一緒にやってきた半兵衛は鬼頭に遠慮してか、口数が少なかった。
「女将さん、まっすぐ帰ってくるかしら」
「抜け駆けはずるい。そう思うでしょ、お照も」
牛小屋の掃除をしながらシャルルが芝居の見得をきった。
「鬼頭どのと半兵衛さんのふたりに挟まれていたら、抜け出して芝居町に行くことはできないと思うけど。でも女将さんはやるとなったらやるもんねえ」
「お母さま、わがままだもんねえ」
お照とシャルルは顔を見合わせて笑った。けして非難する意図などないのはお互いによくわかっていた。
女将は女将であって、女将以外にはなれない人なのだ。
女将のわがままに振り回されてばかりだが、嫌な気持ちにならないのが不思議だった。ときに腹が立っても、すぐに「仕方ないか、だって女将さんだもの」と飲み込めてしまうのだ。
持って生まれた徳なのかもしれない。羨ましいかぎりだ。
新しい吉牛はお照にも従順だった。仔を産んだばかりらしく乳がよく出る。お照が搾乳しているあいだに、シャルルはしょんべん塩を夢中になって集めて喜んでいた。
「まったく。女将さんの前ではそんなこどもっぽい顔しないくせに」
姉代わりのお照の前では素に戻るのだと気づくと、シャルルがいとおしくてしかたない。
万寿屋に頼まれていた分のクレームキャラメルを作り終えるとお照は一息ついた。
「お照さん、聞いてくれ。蔦屋がおれを使ってくれるってさ」
突如飛び込んできたのは秋馬だった。
なんのことかと首をひねっていると、
「忘れたのかい。俄の宣伝を耕書堂が引き受けると言ってただろう。その代わりに女将さんの錦絵を売り出したいって。その絵をおれに任せるって言ってくれたんだ」
「まあ、おめでとうございます、とうとう秋馬さんの実力が認められたんですねえ」
と言いつつ、お照は冷や汗をかいた。
女将の似顔絵の件、肝心の女将にまだ話していなかったからだ。
「まあねえ。で、女将さんはどこだい。ちょっと呼んできてもらえねえかな」
矢立と紙を取り出して、作業台で絵を描こうとする秋馬の性急さにお照は呆れた。
「秋馬さんは憶えがいいんだから目の前に女将さんがいなくったって書けるでしょう」
「なんだ、出かけてるのか。いや、憶えはよくてもよ、異人の服はよくわかんなくって」
「あれ、秋馬さんだ。いらっしゃい」
シャルルは張りぼての帆船を抱えて二階から降りてきたところだった。帆船は木でできた龍骨に紙を貼り付けて色を塗ってある。猫一匹くらいの大きさはあるだろうか。
「お、なんだい、そりゃ。異国の船を模したもんか」
「お父さまはたくさん船を持ってたんだよ」
「坊の父ちゃんは網元かあ。手先が器用だな、坊は。細かいとこなんかよくできてる。神田祭や山王祭の山車に実物大の帆船があったら見応えあるだろうなあ」
秋馬のなにげない一言がお照をどきりとさせた。
あれ以来、白蓮教からはなにも言ってこない。そのまま忘れてくれたらいいのだけれど、百両の大金に見合う仕事はいつかきっと指示されるはずだ。
女将は俄芝居が終わったら知らんぷりしそうだが、それでは仙助を騙して五百両を奪った詐欺男とやってることはさほど変わらないではないか。
あの男はだれかに始末されたのだ、とお照は信じている。
ああ、素振りがしたい!
体を動かしていないと不安に押しつぶされそうになる。
「いい出来だけどさ、帆船のおもちゃなんか作ってどうするんだい」
「お母さまの頭の上に飾るの」
「はあ?」
シャルルの奇妙な答えに秋馬は首を傾げた。
「次に登城するときには将軍が度肝を抜かす格好をしたいって言ってたんだけど……間に合わなかったんだ」
「そんときは是非見せてくれ。絵に残したい」
想像が追いつかなかったのだろう、秋馬がシャルルに頼んでいた。
もちろんお照もそんなへんてこな髪型は思い描くことさえ出来ない。
「舞台には、できるだけ珍妙な格好で出てほしいな。そしたら錦絵も評判になるだろうし」
「あの耕書堂が秋馬さんを認めてくれたのは凄いことですね。絵師として名が世間に響き渡りますね」
耕書堂は江戸で一番の版元である。良くも悪くも世間の注目を浴びている。その蔦屋が秋馬を選んだのだ。絵を教えてもらっているお照の鼻が高い。
だが一緒に耕書堂を訪ねたときの蔦屋の態度を思い返すと、蔦屋の急な心変わりは不自然な気がした。
「もしかして秋馬さん、なにか奥の手でも使ったんじゃないですか」
お照が笑いながらたずねると、秋馬は困ったように笑った。
「いやあ、実はね、ここだけの話……交渉されたんだよ。蔦重に」
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