江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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九十、 死の顔料

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「いない……」

 遅かったか。
 稲荷社にはだれもいなかった。すれ違いになったのかもしれない。

「ううん、もしかしたら」

 温操舵手は耕地屋に向かったのではないだろうか。
 トラは、鬼頭鮫衛門を名乗る者が耕地屋にいると必ず伝えたはずだ。
 お照は急いだ。

「いた!」

 耕地屋まで目と鼻の先で、ふたりを見つけた。
 彼らは同時に振り返り、お照に気づくや、顔を強張らせた。
 温操舵手はお照を手招く。

「いいところに来た。鬼頭という奴を呼んでこい。何者か、確かめたい」

「吉原で刃傷沙汰とか、絶対にやめてください」

 温操舵手はさも可笑しそうに笑う。

「なにを心配しているのだ。知りたいのは我らが家族と仲間の安否だ」

「鬼頭さまは抜け荷を追っているのです。あまり近づくと余計な勘ぐりをされるかもしれません。白蓮教のことも……」

 鬼頭は白蓮教のことも口にしていなかったか。はっと口を噤んだお照を、温操舵手は怪訝な顔で見ていた。
 そのとき、声がかかった。

「外がずいぶんと騒がしいと思ったら、お照さん、そんなところでなにをしているの」

 女将だった。

「あら、トラさん。まだ寝ていなくてはダメなんじゃないかしら」

「おまえが亭主か。女房の体を気遣ってやらなくてはいかんではないか」

 女将の背後から鬼頭がやってきた。温操舵手をトラの亭主だと勘違いしたようだ。

 温操舵手は苦笑して「梅蔵と言います。女房が世話になっております」とおおぼらを吹いた。

「トラさん、またこちらに用なの?」

 女将がすぐそばの家に目線を流す。そこは例の堕胎医の診療所だった。

「あ、いえ」

 そのときになって気づいたのだろう、トラは慌てて手を振った。

「では耕地屋にいらっしゃい。顔色がまだよくないんですから」




 耕地屋に戻ると見知った顔があった。作業台で舶来の茶を飲んでいたのは蔦屋重三郎だったのだ。

「蔦屋さん、嫌疑は晴れたんですか」

「女将さんのおかげできれいさっぱり」

「それはよかったです。でも女将のおかげって……あ」

 その隣で吉原名物の団子を頬張っているのは斉藤十郎兵衛。蜂須賀家お抱えの能役者だ。

「ああ、斉藤どのはたいそう心配してくれて、ちょうど放免されたときにばったりと」

「耕書堂に戻る前にどうしてもこちらに礼をせねばと言うもんでね。ほんとに我が儘だよ。ひとりで行かせるのも心配だったので同道させていただきました。図々しくてすみませんね」

「はあ……」

 土間と作業台に鬼頭と女将、そしてトラと温操舵手まで入り込むと狭くてしょうがない。
 続きの間には千代とシャルルがいる。千代は珍しい洋書に見入っていて、シャルルは自慢の蔵書を次々とめくってみせている。そのたびに千代はいちいち大袈裟に驚いてあげていた。
 温操舵手は具合の悪い妻を気遣うような素振りで続きの間にトラを座らせた。
 お照はシャルルと温操舵手の間に腰をねじ込んだ。

「邪魔だな」

「もそっと向こうに寄ってください。狭いんですから」

「あの男だな」温操舵手が目線で鬼頭を指す。「なぜ名を偽っていたのか、訊け」

「わたしも訊きたいことが山のようにあるんです。焦らずに、水でも飲んでゆっくりしていてください」

「水? あの赤い色をした茶はないのか」

「へっついのほうにありますから、飲みたかったら勝手にどうぞ」

 それを聞いたトラがのそりと体を起こそうとしたのでお照は叱りつけた。

「梅蔵さんが飲みたいなら梅蔵さんが動けばいいんですよ!」

 温操舵手はむすっとした顔になり、トラはおろおろしている。
 かえってトラを困らせてしまったかもしれない。
 お照は仕方なく茶を入れてやり、温操舵手に手渡した。

「どうぞ」

「初めから素直に出せばいいものを」

 茶をぶっかけてやりたいという衝動をお照はこらえた。そんなやり取りをしている間にも、鬼頭は女将とともに作業台を囲んでいた。古馴染みの茶飲み仲間といった風情だ。

「お照が帰ってきたので話を続けよう。さっきの問いに答えるとしようか」

「さっきの問いとは蔦屋さんの嫌疑のことですか」

 お照の問いに鬼頭はうなずいた。

「死んだ調合師の件だ。女将の読みどおり、黴が悪さをしていたことがわかった。顔料に含まれていた砒素は黴と相性が最悪だった」

 女将に吹き込まれたでまかせを、鬼頭は半信半疑のまま、人間で試したらしい。顔料を撒いた黴だらけのじめじめした部屋に囚人を閉じ込めたのだそうだ。

「ど、どうなったのですか!?」

「死んだ。わずか五日でな」

 すべての顔がくもる。

「餓死……では」

「食事は与えていた」

 女将はうつむいた。

「わたくしが余計なことを言ったばかりに、人が死んだのですね。タナカラボタモチでしたっけ」

「瓢箪からこま、だよね」

 シャルルが首を傾げてお照を見上げた。
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