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九十二、 鬼頭の真名
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温操舵手は鬼頭に躍りかかった。手には小刀が光る。
鬼頭は驚き、温操舵手に向き直った。鬼頭の手から脇差しが落ちる。
その胸もとに刃が深々と突き刺さったかに見えた。
金縛りがふいに解けた。
次に呻き声をあげたのは温操舵手だった。
脇差しを拾ったお照が、その背を斬りつけたからだ。
「う……!」
鬼頭が動いた。鬼頭と温操舵手の間合いは互いの息がかかるほど近い。にもかかわらず鬼頭は長い打刀で相対した。
てっきり刺されたと思っていた鬼頭はまったくの無傷だった。抜き打ちざまに柄頭で凶刃を弾いたようだ。弾かれた小刀は温操舵手の腿に突き立っていた。
だが白蓮教の指導者だけあって、身のこなしは軽快だ。次の瞬間、猿のように鬼頭の頭上を飛び越える。
「ひいい」
蔦屋は腰を抜かした。トラが玄関まで走って戸を開け放つ。
「逃げましょう!」
トラに促された温操舵手はお照を横目で威圧したあと風のように去って行った。一瞬の出来事だった。
シャルルと千代はぽかんと口を開けている。
「なんだったんですか、いまのは」
斉藤は武家に仕えているだけあって取り乱したようすはない。が、蔦屋は膝頭を震わせている。
女将にいたっては困惑顔だ。
「ここで人殺しは困りますわ」
「殺してはおらぬ」
鬼頭は不機嫌そうに刃を懐紙で拭い、鞘に収めた。懐紙には梅の花のような血がついている。不機嫌の原因は致命傷を与えられず逃してしまったせいだろう。
お照の攻撃は空振りといってよかった。木綿を一寸ほど切っただけだ。
「すごかったね、お照。鍛練の成果だ」
それでもシャルルは労りの言葉を口にした。
「とんでもないです」
木刀と真剣は違う。刀身の短い脇差しとはいえ、あの近さで刃が届かないはずはない。腕が伸びなかったのは、怖かったせいだ。怯えたのだ。
それなのに体は勝手に反応した。
温操舵手を敵と認識したわけではなかった。人を害そうとする者を止めたい一心だった。だが温操舵手に刃を振るったのは事実だった。
裏切り者になったのだ。
立っていられなくなって、上がり框に座り込んだ。
「あの梅蔵ってのは、なんで鬼頭さまに襲いかかったんです」
斉藤がどこかおっとりとした口調でたずねた。
「さてな、よくわからぬ。だがあの殺気は只者ではない」
鬼頭はお照の握りしめた手から脇差しを抜き取ると鞘に戻した。そして大小を揃えてお照の膝元に置いた。
「受け取れ。約束のものだ」
「い、いりません!」
いままさに凶器になりかけた刀を前にして、お照は後退った。吐き気さえ覚えた。
「なぜだ。賭けをしようと言ったのはおぬしであろう。特別に大小とも、やろう。お照の勇気に打たれたからな」
斉藤は場違いににこにこしている。
「その刀、とても良いものだと思う。くれるというのだからもらっておけばいい」
「でしたら買い取っていただいてもよろしくてよ、斉藤どの、蔦屋さんも。まだほかにもありますのよ」
すかさず女将が売り込もうとしたのにはお照も鬼頭もぎょっとなった。
「ああ、そういえば、公方さまの御下賜品もお持ちでしたね。こりゃすごい。公方さまの大小とまつだ……こほん、鬼頭さまの──」
「……いま、なんて言いかけました?」
お照は斉藤の顔を食い入るように覗き込んだ。
「いえ、その」
斉藤の目線は左右に泳ぎ、鬼頭にぶつかった。鬼頭は溜息をついた。
「もうかまわんぞ」
「すみません。ついうっかり。裃を着けていないときは世を忍ぶ仮の名と伺っていたのに」
お照は鬼頭を上から下までじっくりと眺めた。
「老中首座の松平、定信……?」
「だからなんだ」
鬼頭はじろりとお照を睨んだ。
老中は幕府の最高職。その老中の首座にして八代将軍吉宗の孫。将軍になってもおかしくない誉れ高い出自。いま幕政で一番の実権を握っている男である。お照などが楯突いてはいけない相手である。
だがどうしても堪えらえれなかった。
「わたしが松平定信を悪く言ったら怒ってましたよね。それどころか褒めちぎってた。教養、人徳ともに素晴らしい人だと言ってましたよね」
「自画自賛だよね、ぼく知ってる。往来物で覚えた」
シャルルの嬉しそうな声に、鬼頭はわずかに耳を赤らめた。乱暴な口調で続ける。
「どうせあと十日余りで御役御免になる」
「あら、やっぱりね」女将は柔らかく微笑んだ。「いつかショーグンのご機嫌を損ねると思っていましたわ。イシアタマのあなたとは馬が合わないわよ、あの坊やは」
「天下万民のためなら、わし自身は馬でも牛でもなってやるさ。だがひとりでどうこうできるもんでもない。馬でも牛でもない、負け犬だ」
蔦屋は斉藤と神妙な顔を見交わし合い、おそるおそる口を開いた。
「聞いちゃいけねえ話じゃないんですかい。松平さまが職をおりるとなると……江戸はお祭り騒ぎになるかもしんねえ」
「むろん他言無用だ。それが無理なら、わしが職を辞するまでのあいだ牢で寝泊まりしてもらうだけだ」
「近頃は物忘れがひどくて。おや、あなたはどなたでしたっけ」
「いい心がけだ」
鬼頭は女将に向き直った。
「さっきのやつらは白蓮教徒だな。女将、なにか知っておるな」
「なんのことでしょう。ビャクレン……とは?」
ねえ、と言いたげな顔で女将はお照に流し目を送る。
さきほどまで女将は、鬼頭につくか、それとも温操舵手につくか、風の勢いをはかっていた。そのさなかでお照が裏切者になってしまった。時を戻すことはできない。
「女将さん、ここは鬼頭さまに頼ったほうがよくはないでしょうか」
「梅蔵とトラの居所はどこだ。どうやら知っていそうだな」
鬼頭は驚き、温操舵手に向き直った。鬼頭の手から脇差しが落ちる。
その胸もとに刃が深々と突き刺さったかに見えた。
金縛りがふいに解けた。
次に呻き声をあげたのは温操舵手だった。
脇差しを拾ったお照が、その背を斬りつけたからだ。
「う……!」
鬼頭が動いた。鬼頭と温操舵手の間合いは互いの息がかかるほど近い。にもかかわらず鬼頭は長い打刀で相対した。
てっきり刺されたと思っていた鬼頭はまったくの無傷だった。抜き打ちざまに柄頭で凶刃を弾いたようだ。弾かれた小刀は温操舵手の腿に突き立っていた。
だが白蓮教の指導者だけあって、身のこなしは軽快だ。次の瞬間、猿のように鬼頭の頭上を飛び越える。
「ひいい」
蔦屋は腰を抜かした。トラが玄関まで走って戸を開け放つ。
「逃げましょう!」
トラに促された温操舵手はお照を横目で威圧したあと風のように去って行った。一瞬の出来事だった。
シャルルと千代はぽかんと口を開けている。
「なんだったんですか、いまのは」
斉藤は武家に仕えているだけあって取り乱したようすはない。が、蔦屋は膝頭を震わせている。
女将にいたっては困惑顔だ。
「ここで人殺しは困りますわ」
「殺してはおらぬ」
鬼頭は不機嫌そうに刃を懐紙で拭い、鞘に収めた。懐紙には梅の花のような血がついている。不機嫌の原因は致命傷を与えられず逃してしまったせいだろう。
お照の攻撃は空振りといってよかった。木綿を一寸ほど切っただけだ。
「すごかったね、お照。鍛練の成果だ」
それでもシャルルは労りの言葉を口にした。
「とんでもないです」
木刀と真剣は違う。刀身の短い脇差しとはいえ、あの近さで刃が届かないはずはない。腕が伸びなかったのは、怖かったせいだ。怯えたのだ。
それなのに体は勝手に反応した。
温操舵手を敵と認識したわけではなかった。人を害そうとする者を止めたい一心だった。だが温操舵手に刃を振るったのは事実だった。
裏切り者になったのだ。
立っていられなくなって、上がり框に座り込んだ。
「あの梅蔵ってのは、なんで鬼頭さまに襲いかかったんです」
斉藤がどこかおっとりとした口調でたずねた。
「さてな、よくわからぬ。だがあの殺気は只者ではない」
鬼頭はお照の握りしめた手から脇差しを抜き取ると鞘に戻した。そして大小を揃えてお照の膝元に置いた。
「受け取れ。約束のものだ」
「い、いりません!」
いままさに凶器になりかけた刀を前にして、お照は後退った。吐き気さえ覚えた。
「なぜだ。賭けをしようと言ったのはおぬしであろう。特別に大小とも、やろう。お照の勇気に打たれたからな」
斉藤は場違いににこにこしている。
「その刀、とても良いものだと思う。くれるというのだからもらっておけばいい」
「でしたら買い取っていただいてもよろしくてよ、斉藤どの、蔦屋さんも。まだほかにもありますのよ」
すかさず女将が売り込もうとしたのにはお照も鬼頭もぎょっとなった。
「ああ、そういえば、公方さまの御下賜品もお持ちでしたね。こりゃすごい。公方さまの大小とまつだ……こほん、鬼頭さまの──」
「……いま、なんて言いかけました?」
お照は斉藤の顔を食い入るように覗き込んだ。
「いえ、その」
斉藤の目線は左右に泳ぎ、鬼頭にぶつかった。鬼頭は溜息をついた。
「もうかまわんぞ」
「すみません。ついうっかり。裃を着けていないときは世を忍ぶ仮の名と伺っていたのに」
お照は鬼頭を上から下までじっくりと眺めた。
「老中首座の松平、定信……?」
「だからなんだ」
鬼頭はじろりとお照を睨んだ。
老中は幕府の最高職。その老中の首座にして八代将軍吉宗の孫。将軍になってもおかしくない誉れ高い出自。いま幕政で一番の実権を握っている男である。お照などが楯突いてはいけない相手である。
だがどうしても堪えらえれなかった。
「わたしが松平定信を悪く言ったら怒ってましたよね。それどころか褒めちぎってた。教養、人徳ともに素晴らしい人だと言ってましたよね」
「自画自賛だよね、ぼく知ってる。往来物で覚えた」
シャルルの嬉しそうな声に、鬼頭はわずかに耳を赤らめた。乱暴な口調で続ける。
「どうせあと十日余りで御役御免になる」
「あら、やっぱりね」女将は柔らかく微笑んだ。「いつかショーグンのご機嫌を損ねると思っていましたわ。イシアタマのあなたとは馬が合わないわよ、あの坊やは」
「天下万民のためなら、わし自身は馬でも牛でもなってやるさ。だがひとりでどうこうできるもんでもない。馬でも牛でもない、負け犬だ」
蔦屋は斉藤と神妙な顔を見交わし合い、おそるおそる口を開いた。
「聞いちゃいけねえ話じゃないんですかい。松平さまが職をおりるとなると……江戸はお祭り騒ぎになるかもしんねえ」
「むろん他言無用だ。それが無理なら、わしが職を辞するまでのあいだ牢で寝泊まりしてもらうだけだ」
「近頃は物忘れがひどくて。おや、あなたはどなたでしたっけ」
「いい心がけだ」
鬼頭は女将に向き直った。
「さっきのやつらは白蓮教徒だな。女将、なにか知っておるな」
「なんのことでしょう。ビャクレン……とは?」
ねえ、と言いたげな顔で女将はお照に流し目を送る。
さきほどまで女将は、鬼頭につくか、それとも温操舵手につくか、風の勢いをはかっていた。そのさなかでお照が裏切者になってしまった。時を戻すことはできない。
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「梅蔵とトラの居所はどこだ。どうやら知っていそうだな」
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