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九十六、 白河藩邸へ
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それしか書かれていない。
「怪しいぞ。罠ではないか」
御先手組には怪しい罠に思えるだろうが、お照は何度もねずみに助けられている。鬼頭が来る前には必ずねずみが現れた。まるで露払いのように。
「おまえ、鬼頭……ううん、松平定信さまのねずみなの?」
ねずみは小さく鳴いてお照の腕を伝いあがり、肩に乗った。
「行ってきます。なにか用があるのかもしれない」
「ならば、おれも行くぞ」
「御先手組さんは、名はなんと……」
「ようやっと名を聞いてくれたな。藤堂雄助と申す」
藤堂は駕籠を一挺呼んでお照を乗せた。
「藤堂さんの駕籠は?」
「護衛なので伴走します。これも鍛練ゆえ気遣いはご無用」
だったら自分も走っていきたい、などと口に出す間もなく駕籠は動き出し、一路八丁堀の松平家上屋敷へと向かった。
「お役目とはいえご苦労さまです」
「大奥に住めばよいのに。ここよりずっと安全であろう」
道中、藤堂と意見を交わした。
「女将さんが嫌なのだそうです。息苦しいとかで」
「なるほど、それで松平さまが吉原に押し込めたのか」
「選りに選って吉原なんて、松平さまはお人が悪い。そう思いませんか」
「噂によると公方さまは大奥を強く勧められたそうだ。公方さまは気に入った者をそばに置きたがるらしくてな。老中にとっては苦肉の策なのであろう」
「あら、そうなのですか」
「とくに家斉さまは女癖が……おおっと口が滑った」
それが事実ならば、いまのように女将が気ままに過ごせるのは松平定信のおかげということになる。
「耕地屋のお照と言えばわかるだと。なにをわけのわからんことを。殿さまがおまえのような町娘に用などあるわけがなかろう」
門番の中間はすげなくお照を追い払おうとする。
「文をいただきました。ほら、これです」
中間は文を見やるも、溜息をついた。
「……こんな土臭い娘っこに熱をあげるとはとうてい思えぬ。帰れ帰れ」
「なんですってッ」
藤堂が一歩踏み出した。
「火盗改御先手組の藤堂と申します。松平定信さまの命でこの娘の護衛をしております」
「あ、ええ……?!」
中間は藤堂の腰の刀と豊かな房のついた十手を見て目を瞠った。
「この娘、松平定信さまご挨拶に伺っただけだ。取次いでもらえぬだろうか」
「松平さまのねずみをお返しに参りました。これならいいでしょ」
お照はねずみを両手に乗せて中間の鼻面に突き出す。
「小汚いねずみなど殿が飼うわけ……うひゃあ」
ねずみはぴょんと跳んで門番所の中に飛び込み、背後の戸の隙間から屋敷の方角に抜けていった。
「おい、なにをする」
「ねずみを他家に放すとは不調法だぞ。すまぬ、手数をかけるが脇戸を開けてくれぬか。おれが捕まえよう」
藤堂がお照を叱り、中間に詫びた。
中間はブツブツ言いながらも脇戸を開けた。
「だれかに見つかっては面倒だ。早くしてくれ」
中間は周囲をきょろきょろしている。上役に見つかってお咎めを受けないか心配なのだ。
藤堂が先にくぐり、お照に目配せをした。
お照は藤堂の背後をするりとくぐり抜けた。
「あ、女は入ってはいかん」
「懐いていますのでね、あの娘が呼べばすぐに見つかるでしょう」
「むう……」
玄関の式台を見れば屋敷がどれほど立派かわかるものだ。右を見れば番士の住居らしき平長屋が連なり、左を見れば大きな池が見えた。
お照は左に向かって駆けだした。
「おい、女!? 待て!」
中間の制止は届かない。庭園は広大で、吉原がすっぽりと収まってしまうのではと思うほどだ。はしに土蔵がずらりと並んでいる。中央には池。飛び跳ねる鯉を横目にともかく奥を目指す。偉い人は一番奥の深いところにいるものだ。千代田の城もそうだった。
築地塀が見えたので角を曲がる。庭を望見できる、このあたりが怪しい。それでも部屋数が多すぎた。まるで大きな壁のようだ。
お照は手近な広縁に上り障子を開け放った。豪奢な書院造りの広間だ。だが鬼頭はいなかった。
奥の襖を開く。長い廊下の両側に延々と部屋が続いている。
「どこにいるんだろう」
ともかく全部の襖を開ければいつか出会すはずだ。お照が一歩踏み出すと、足下でチュウと鳴くものがある。ねずみだ。
「知ってるの?」
ねずみは進んでは振り返り、進んでは振り返りを繰り返す。なんの根拠もないのに、鬼頭の居場所を教えてくれるのだとなぜか信じられた。ねずみの導きに従って辿り着いた襖を開くと、寝所のようだった。
「松平……いえ、鬼頭鮫衛門さま」
よく見知った男が背を向けて端座していた。膝元には刀架けがあり一振りが架けてある。脇差しは、鬼頭の右手のなかにあった。
「なにをしに来た。出て行け!」
鬼頭は振り返りもせずに、命じた。
「約束のものを取りに参りました」
「約束のもの?」
「そちらにある、腹切りの刀です」
くすりと笑う気配があった。
「怪しいぞ。罠ではないか」
御先手組には怪しい罠に思えるだろうが、お照は何度もねずみに助けられている。鬼頭が来る前には必ずねずみが現れた。まるで露払いのように。
「おまえ、鬼頭……ううん、松平定信さまのねずみなの?」
ねずみは小さく鳴いてお照の腕を伝いあがり、肩に乗った。
「行ってきます。なにか用があるのかもしれない」
「ならば、おれも行くぞ」
「御先手組さんは、名はなんと……」
「ようやっと名を聞いてくれたな。藤堂雄助と申す」
藤堂は駕籠を一挺呼んでお照を乗せた。
「藤堂さんの駕籠は?」
「護衛なので伴走します。これも鍛練ゆえ気遣いはご無用」
だったら自分も走っていきたい、などと口に出す間もなく駕籠は動き出し、一路八丁堀の松平家上屋敷へと向かった。
「お役目とはいえご苦労さまです」
「大奥に住めばよいのに。ここよりずっと安全であろう」
道中、藤堂と意見を交わした。
「女将さんが嫌なのだそうです。息苦しいとかで」
「なるほど、それで松平さまが吉原に押し込めたのか」
「選りに選って吉原なんて、松平さまはお人が悪い。そう思いませんか」
「噂によると公方さまは大奥を強く勧められたそうだ。公方さまは気に入った者をそばに置きたがるらしくてな。老中にとっては苦肉の策なのであろう」
「あら、そうなのですか」
「とくに家斉さまは女癖が……おおっと口が滑った」
それが事実ならば、いまのように女将が気ままに過ごせるのは松平定信のおかげということになる。
「耕地屋のお照と言えばわかるだと。なにをわけのわからんことを。殿さまがおまえのような町娘に用などあるわけがなかろう」
門番の中間はすげなくお照を追い払おうとする。
「文をいただきました。ほら、これです」
中間は文を見やるも、溜息をついた。
「……こんな土臭い娘っこに熱をあげるとはとうてい思えぬ。帰れ帰れ」
「なんですってッ」
藤堂が一歩踏み出した。
「火盗改御先手組の藤堂と申します。松平定信さまの命でこの娘の護衛をしております」
「あ、ええ……?!」
中間は藤堂の腰の刀と豊かな房のついた十手を見て目を瞠った。
「この娘、松平定信さまご挨拶に伺っただけだ。取次いでもらえぬだろうか」
「松平さまのねずみをお返しに参りました。これならいいでしょ」
お照はねずみを両手に乗せて中間の鼻面に突き出す。
「小汚いねずみなど殿が飼うわけ……うひゃあ」
ねずみはぴょんと跳んで門番所の中に飛び込み、背後の戸の隙間から屋敷の方角に抜けていった。
「おい、なにをする」
「ねずみを他家に放すとは不調法だぞ。すまぬ、手数をかけるが脇戸を開けてくれぬか。おれが捕まえよう」
藤堂がお照を叱り、中間に詫びた。
中間はブツブツ言いながらも脇戸を開けた。
「だれかに見つかっては面倒だ。早くしてくれ」
中間は周囲をきょろきょろしている。上役に見つかってお咎めを受けないか心配なのだ。
藤堂が先にくぐり、お照に目配せをした。
お照は藤堂の背後をするりとくぐり抜けた。
「あ、女は入ってはいかん」
「懐いていますのでね、あの娘が呼べばすぐに見つかるでしょう」
「むう……」
玄関の式台を見れば屋敷がどれほど立派かわかるものだ。右を見れば番士の住居らしき平長屋が連なり、左を見れば大きな池が見えた。
お照は左に向かって駆けだした。
「おい、女!? 待て!」
中間の制止は届かない。庭園は広大で、吉原がすっぽりと収まってしまうのではと思うほどだ。はしに土蔵がずらりと並んでいる。中央には池。飛び跳ねる鯉を横目にともかく奥を目指す。偉い人は一番奥の深いところにいるものだ。千代田の城もそうだった。
築地塀が見えたので角を曲がる。庭を望見できる、このあたりが怪しい。それでも部屋数が多すぎた。まるで大きな壁のようだ。
お照は手近な広縁に上り障子を開け放った。豪奢な書院造りの広間だ。だが鬼頭はいなかった。
奥の襖を開く。長い廊下の両側に延々と部屋が続いている。
「どこにいるんだろう」
ともかく全部の襖を開ければいつか出会すはずだ。お照が一歩踏み出すと、足下でチュウと鳴くものがある。ねずみだ。
「知ってるの?」
ねずみは進んでは振り返り、進んでは振り返りを繰り返す。なんの根拠もないのに、鬼頭の居場所を教えてくれるのだとなぜか信じられた。ねずみの導きに従って辿り着いた襖を開くと、寝所のようだった。
「松平……いえ、鬼頭鮫衛門さま」
よく見知った男が背を向けて端座していた。膝元には刀架けがあり一振りが架けてある。脇差しは、鬼頭の右手のなかにあった。
「なにをしに来た。出て行け!」
鬼頭は振り返りもせずに、命じた。
「約束のものを取りに参りました」
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くすりと笑う気配があった。
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