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百十五、 クーデター
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とてつもない恐ろしいことを命じられた。それなのにお照の手は家斉に向いてしまう。
「な、なぜ……?」
家斉と目が合った。あちらも驚愕している。おのれもそっくりな表情をしているであろうことは自覚があった。
女将だけはにこやかに笑った。
「クーデター」
「はい?」
「これ、クーデターになるのかしら?」
クーデターとはなんだろう。
家斉が眉をひそめた。
「そのような真似をせずとも迎え入れることはやぶさかではないと言うておるであろう」
「お母さま」さきほどまで上手に気配を消していたシャルルが立ちあがった。「アントワネットの変になるかアントワネットの乱になるかの瀬戸際だと思います。こうなったら、政権を奪いましょうよ」
あどけない笑顔で耳を疑うことをさらりと宣う。
「ショーグン、わたくしたち不安ですのよ。あなたに飼い殺しにされるのではないかと。だからここではっきりおっしゃってくださいな。いますぐ船を用意すると。ただちに帰国させると」
「女将さん……」
女将の焦りはわかる。わかるがこんな脅しが上手くいくわけがない。女将は引き返せないところまで行ってしまった。これでは国家転覆を謀る悪の首魁である。そしてお照はその手先である。
巣口を家斉から外せばいいとわかっているのに、それもできない。なぜなら女将を守ることができなくなる。女将を守るために家斉を人質にしてよいのか、国家転覆に加担してよいのか。他に方法はないのか。女将が撃てと命じたら引き金を引くのか。
「余は偽りを口にした覚えはない。必ずアントワネットとルイ十七世を故国にお送りする」
大奥入りのおねだりではないとわかって、家斉は口辺に不満を滲ませた。
「お照さんもよ」
「……承服しかねる」
「わたくしの大切な侍女なんですのよ」
「お照、お主、それでよいのか。その女の侍女となって南蛮に渡るか、大奥で余の側室となって豊かに暮らすか、どちらが幸せか、考えるまでもないだろう」
まるで芝居の一幕のような、現実感のない会話である。上覧台がまさに能舞台とそっくりなため余計に惑う。家斉と女将とお照の芝居を、観客となった番士が見守っているみたいだ。なぜか緊迫したようすがないのだ。
「もういいだろう、アントワネットどの。忠義に厚いお照が困っている」
「もういいとは、どういうことですの」
「さっきのはどんな手妻を使ったのだ。その鉄砲、余が授けたものであろう。火薬は与えなかったはずだが」
家斉の考えていることがわかった。火薬がなければ鉄砲はただの鈍器なのだ。
「あら、そんなこと」
女将はころころと楽しげに笑った。
「ぼくが作ったんだよ!」シャルルが自慢げに手を上げた。「顔料から硫黄をとって、しょんべん塩の塩硝と木炭をいい塩梅で混ぜたの。途中で失敗して遊女屋をひとつ丸焦げにしちゃったけど、とうとう成功したよ!」
それを聞いて、お照の唇は震えだした。気づくべきだった。
シャルルが夢中になっていた実験とは火薬生成のことだったのだ。
「ほう、そうか」家斉の顔色が変わる。「しかし、さっき撃ったあと、弾を込めているようすはなかったぞ。その鉄砲は一発毎に弾を込めないと撃てぬ」
だから家斉は余裕ぶっていたのだ。お照は納得した。手の中の金属の塊はそれ以上のものではない。
「うちのシャルルは器用なんですのよ。連射式に変えるくらいお手の物ですわ」
「いくらなんでも……」
家斉の苦笑いは、満面の笑みのシャルルを見て引いていく。
「シャルルだったらありうる……かも」
お照が脂汗を滴らせながら呟くと、家斉はさらに青ざめた。
「十に満たないこどもが鍛冶屋の真似事などできるわけがない」
「父親の才を受け継いだのよ。では試してご覧になる? お照さん、ショーグンの心臓を狙って、引き金を引いてちょうだい」
「無、無理です。そんなこと」
こどもらしからぬシャルルの器用さはよく知っている。だがさすがに鉄砲の改造までは無理だと思う。思うが、賭けに挑む勇気はない。火口の蓋の下からジジジと燻る音がする。火はまだ消えていない。
「お照、わかっているだろう。余の体に掠り傷ひとつつけただけで死罪になるのだぞ。アントワネットの侍女である前に、お主は日の本の民であろう」
「そうよ、忠誠心の厚い日の本の民にしてわたくしの侍女ですわ、お照さん。ぐっと指に力を込めればいいのよ。オモワセブリはいらないわ、マゴコロをくださいな」
「ま、待て、アントワネットどの。余を殺したらそなたも終わるぞ」
家斉の額に汗の粒が吹き出した。
「ではどうすればいいか、おわかりよね。船は本当にあるのかしら」
「……ある。松平定信が抜け荷に使っていた船がある。陸から離れた海上で荷物の受け渡しができるよう、他国に引けを取らぬ大きな船だ」
「まあ、素晴らしいわ。それが本当なら」
「本当だ」
「では案内していただけるかしら。それまでショーグンはわたくしたちの人質よ」
交渉が進行していく。誰かとめて。
「半兵衛さん!」
思わず半兵衛の名を呼んだ。半兵衛は上覧台の下にいるはずだ。八方塞がりからお照を救い出してほしいと願った。だが半兵衛もうかつに動けないのだろうことは容易に想像がつく。
お照の思いを察したかのように、なにかがお照の前を通り過ぎ、家斉の左腕に止まった。金剛だ。半兵衛が飛ばしたのだ。
縄が千切れた釣瓶のように、お照はその場に沈んだ。ローブの裾が丸く大きく広がる。腕から力が抜け、ローブの布の溜まりに鉄砲がボフンと落ちる。
「だ、だめです。金剛は撃てません」
「な、なぜ……?」
家斉と目が合った。あちらも驚愕している。おのれもそっくりな表情をしているであろうことは自覚があった。
女将だけはにこやかに笑った。
「クーデター」
「はい?」
「これ、クーデターになるのかしら?」
クーデターとはなんだろう。
家斉が眉をひそめた。
「そのような真似をせずとも迎え入れることはやぶさかではないと言うておるであろう」
「お母さま」さきほどまで上手に気配を消していたシャルルが立ちあがった。「アントワネットの変になるかアントワネットの乱になるかの瀬戸際だと思います。こうなったら、政権を奪いましょうよ」
あどけない笑顔で耳を疑うことをさらりと宣う。
「ショーグン、わたくしたち不安ですのよ。あなたに飼い殺しにされるのではないかと。だからここではっきりおっしゃってくださいな。いますぐ船を用意すると。ただちに帰国させると」
「女将さん……」
女将の焦りはわかる。わかるがこんな脅しが上手くいくわけがない。女将は引き返せないところまで行ってしまった。これでは国家転覆を謀る悪の首魁である。そしてお照はその手先である。
巣口を家斉から外せばいいとわかっているのに、それもできない。なぜなら女将を守ることができなくなる。女将を守るために家斉を人質にしてよいのか、国家転覆に加担してよいのか。他に方法はないのか。女将が撃てと命じたら引き金を引くのか。
「余は偽りを口にした覚えはない。必ずアントワネットとルイ十七世を故国にお送りする」
大奥入りのおねだりではないとわかって、家斉は口辺に不満を滲ませた。
「お照さんもよ」
「……承服しかねる」
「わたくしの大切な侍女なんですのよ」
「お照、お主、それでよいのか。その女の侍女となって南蛮に渡るか、大奥で余の側室となって豊かに暮らすか、どちらが幸せか、考えるまでもないだろう」
まるで芝居の一幕のような、現実感のない会話である。上覧台がまさに能舞台とそっくりなため余計に惑う。家斉と女将とお照の芝居を、観客となった番士が見守っているみたいだ。なぜか緊迫したようすがないのだ。
「もういいだろう、アントワネットどの。忠義に厚いお照が困っている」
「もういいとは、どういうことですの」
「さっきのはどんな手妻を使ったのだ。その鉄砲、余が授けたものであろう。火薬は与えなかったはずだが」
家斉の考えていることがわかった。火薬がなければ鉄砲はただの鈍器なのだ。
「あら、そんなこと」
女将はころころと楽しげに笑った。
「ぼくが作ったんだよ!」シャルルが自慢げに手を上げた。「顔料から硫黄をとって、しょんべん塩の塩硝と木炭をいい塩梅で混ぜたの。途中で失敗して遊女屋をひとつ丸焦げにしちゃったけど、とうとう成功したよ!」
それを聞いて、お照の唇は震えだした。気づくべきだった。
シャルルが夢中になっていた実験とは火薬生成のことだったのだ。
「ほう、そうか」家斉の顔色が変わる。「しかし、さっき撃ったあと、弾を込めているようすはなかったぞ。その鉄砲は一発毎に弾を込めないと撃てぬ」
だから家斉は余裕ぶっていたのだ。お照は納得した。手の中の金属の塊はそれ以上のものではない。
「うちのシャルルは器用なんですのよ。連射式に変えるくらいお手の物ですわ」
「いくらなんでも……」
家斉の苦笑いは、満面の笑みのシャルルを見て引いていく。
「シャルルだったらありうる……かも」
お照が脂汗を滴らせながら呟くと、家斉はさらに青ざめた。
「十に満たないこどもが鍛冶屋の真似事などできるわけがない」
「父親の才を受け継いだのよ。では試してご覧になる? お照さん、ショーグンの心臓を狙って、引き金を引いてちょうだい」
「無、無理です。そんなこと」
こどもらしからぬシャルルの器用さはよく知っている。だがさすがに鉄砲の改造までは無理だと思う。思うが、賭けに挑む勇気はない。火口の蓋の下からジジジと燻る音がする。火はまだ消えていない。
「お照、わかっているだろう。余の体に掠り傷ひとつつけただけで死罪になるのだぞ。アントワネットの侍女である前に、お主は日の本の民であろう」
「そうよ、忠誠心の厚い日の本の民にしてわたくしの侍女ですわ、お照さん。ぐっと指に力を込めればいいのよ。オモワセブリはいらないわ、マゴコロをくださいな」
「ま、待て、アントワネットどの。余を殺したらそなたも終わるぞ」
家斉の額に汗の粒が吹き出した。
「ではどうすればいいか、おわかりよね。船は本当にあるのかしら」
「……ある。松平定信が抜け荷に使っていた船がある。陸から離れた海上で荷物の受け渡しができるよう、他国に引けを取らぬ大きな船だ」
「まあ、素晴らしいわ。それが本当なら」
「本当だ」
「では案内していただけるかしら。それまでショーグンはわたくしたちの人質よ」
交渉が進行していく。誰かとめて。
「半兵衛さん!」
思わず半兵衛の名を呼んだ。半兵衛は上覧台の下にいるはずだ。八方塞がりからお照を救い出してほしいと願った。だが半兵衛もうかつに動けないのだろうことは容易に想像がつく。
お照の思いを察したかのように、なにかがお照の前を通り過ぎ、家斉の左腕に止まった。金剛だ。半兵衛が飛ばしたのだ。
縄が千切れた釣瓶のように、お照はその場に沈んだ。ローブの裾が丸く大きく広がる。腕から力が抜け、ローブの布の溜まりに鉄砲がボフンと落ちる。
「だ、だめです。金剛は撃てません」
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