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百十八、 出たな、鈍器
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「というわけで、アントワネットさまとルイ十七世陛下を連れて行きますのでご了承ください。つきましては心ばかりの御礼の品をお持ちいたしました」
通詞が一抱えもある箱を開くと、強烈な香りがした。
「シナモン、ナツメグ、クローブ、バニラなどの香辛料と、飲料になるコーヒー豆とカカオです。どうぞお納めください」
バダヴィアでは入手しやすいのかもしれないが、海禁(鎖国)をしている日本では珍しいものばかりだ。少なくとも庶民の手には届かない。バニラの香りをまとったクレームキャラメルが絶品だったことをお照は思い出した。
「あら、いいわね。カカオはおすすめよ。ショコラにして飲むといいわ」
女将が家斉に飲み方を指南しようとしたが、
「いらぬ。余は茶で満足しておる。万が一、ショコラとやらを気に入ってしまったらどうする。バダヴィアから取り寄せたら高直であろう。松平定信ではないがな、奢侈は控えねばならん。味を知らねば欲しがることはない」
御礼の品とやらは小姓の手でさっさと運ばれてしまった。
死蔵されるくらいなら、菓子作りに使ってみたいと思ったが、さすがに言い出せる空気ではない。
家斉はまだ言い足りないようだった。
「それに気がきかぬ。口に入れるものを持ってくるとは」
「ああ、気がつきませんでした。美味しいものをご紹介したいという素直な気持ちの表れでしたが、たしかにそのとおりですね。とくにショコラは媚薬と言われておりますし」
「媚薬……」
「体を火照らせたり開放的な気分にする効果があるとかで」
「……毒物ではないのか。ないなら試してみても──」
「うおっほん」
老中か目付のだれかが咳払いをした。
フェルセンはとろけるような笑みを浮かべた。
「正直な話をしましょう。実はあの船の船長から頼まれていたのです。日本の王に交渉をしてくれと」
通商交渉だと悟った家斉は顔を引き締めた。
「寄港地がほしいのであろう。あと金と銀。それと私有の労働力、つまり奴隷」
家斉のこめかみが赤く染まった。
「それからバテレンを送り込んで幕府転覆を謀るのだな。魂胆はわかっているぞ」
「あら、使いようではありませんこと?」女将が微笑む。「寄港地をバクフ直轄にして貿易品をバクフの専売にすれば大儲けできますのに」
「ううむ……」家斉は老中を横目に見て、唸った。「しかし手綱を握る優秀な手がないと馬が暴走してしまう。武家が商売に手を出すのもあさましい……」
家斉の脳裏には松平定信の姿が浮かんだに違いない。
「売買は商人に任せて税を取ってはいかが。株制度にしてもいいわ。でも、どこかのだれかが抜け駆けでもして、阿芙蓉や西洋の武器が入ってきても困りますわね。慎重になさったほうがいいわ」
「……よくよく考えることにしよう」
「では、お別れですわね」
女将が腰をあげた。シャルルとお照も急いで立ち上がる。
「ずいぶんとそっけないではないか。もう去ろうというのか」
慌てる家斉を女将はフェルセンの腕に手をかけて立つ。
「長いことお世話になりました。感謝しております。フランス奪還のアカツキにはショーグンをベルサイユにご招待いたします。遊びにいらしてくださいね」
踵を返した女将に家斉は鋭い声を放った。
「帰れると思うのか」
女将とフェルセンの前にずらりと居並ぶ家臣団。
「なぜですの」
「フェルセンとやらに江戸を案内してはいかがかと思ってな。バダヴィアには半年滞在したのだから江戸もしばらく滞在して楽しまれてはどうかと」
「……イギリスと密約でも交わしたのね」
「はて」
家斉がにたりと笑う。
女将はくるりと振り返り、ぴたりと家斉を見据える。
「フランスはいま船を出せる状態ではないはず。あとはスペインも考えられるわね。わたくしたちの身柄を他国に売るおつもりだったのでしょう。その船が来るまでわたくしたちを閉じ込めておくつもり……と。たしかに貿易品より実入りがいいかもしれないけれど」
家斉がすっくと立ちあがった。
「だとしたらどうする。どうもできんだろうに」
家臣団が周囲を取り巻いた。
お照は素手で女将の前に立つ。
「アントワネットどの、あまり怒らないでほしい。特別のはからいとしてフェルセンどのと一緒の牢にしてさしあげるので……」
「うるさいわね」
「はい、お母さま」
シャルルが上着の中から鉄砲を取りだした。隠し持っていたようだ。
なぜ自分は大刀を手離してしまったのかと今更ながらほぞをかんだ。
「出たな、鈍器」
家斉はせせら笑った。
女将は無言で鉄砲の巣口を天井に向けるや、引き金を引いた。
家斉の頭上の格天井が撃ち抜かれ、家斉の頭に破片が降った。
「なぜ撃てるのだ。弾を込めなおしたようすはなかったはず」
家斉も家臣団も顔を青ざめさせた。
お照も驚いた。シャルルが鉄砲をいじっていなかったことは、だれより身近にいたお照はよくわかっていたからだ。それどころか、隠し持っていたことさえ気づいていなかった。
「あら、火はまだ消えてなかったのね」
「お母さま、改良した火蓋のおかげですよ」
「あらそうだったの」
暢気な会話のあと、女将は家斉にふたたび巣口を向ける。
「二連発だと思う? 三連発だと思う?」
通詞が一抱えもある箱を開くと、強烈な香りがした。
「シナモン、ナツメグ、クローブ、バニラなどの香辛料と、飲料になるコーヒー豆とカカオです。どうぞお納めください」
バダヴィアでは入手しやすいのかもしれないが、海禁(鎖国)をしている日本では珍しいものばかりだ。少なくとも庶民の手には届かない。バニラの香りをまとったクレームキャラメルが絶品だったことをお照は思い出した。
「あら、いいわね。カカオはおすすめよ。ショコラにして飲むといいわ」
女将が家斉に飲み方を指南しようとしたが、
「いらぬ。余は茶で満足しておる。万が一、ショコラとやらを気に入ってしまったらどうする。バダヴィアから取り寄せたら高直であろう。松平定信ではないがな、奢侈は控えねばならん。味を知らねば欲しがることはない」
御礼の品とやらは小姓の手でさっさと運ばれてしまった。
死蔵されるくらいなら、菓子作りに使ってみたいと思ったが、さすがに言い出せる空気ではない。
家斉はまだ言い足りないようだった。
「それに気がきかぬ。口に入れるものを持ってくるとは」
「ああ、気がつきませんでした。美味しいものをご紹介したいという素直な気持ちの表れでしたが、たしかにそのとおりですね。とくにショコラは媚薬と言われておりますし」
「媚薬……」
「体を火照らせたり開放的な気分にする効果があるとかで」
「……毒物ではないのか。ないなら試してみても──」
「うおっほん」
老中か目付のだれかが咳払いをした。
フェルセンはとろけるような笑みを浮かべた。
「正直な話をしましょう。実はあの船の船長から頼まれていたのです。日本の王に交渉をしてくれと」
通商交渉だと悟った家斉は顔を引き締めた。
「寄港地がほしいのであろう。あと金と銀。それと私有の労働力、つまり奴隷」
家斉のこめかみが赤く染まった。
「それからバテレンを送り込んで幕府転覆を謀るのだな。魂胆はわかっているぞ」
「あら、使いようではありませんこと?」女将が微笑む。「寄港地をバクフ直轄にして貿易品をバクフの専売にすれば大儲けできますのに」
「ううむ……」家斉は老中を横目に見て、唸った。「しかし手綱を握る優秀な手がないと馬が暴走してしまう。武家が商売に手を出すのもあさましい……」
家斉の脳裏には松平定信の姿が浮かんだに違いない。
「売買は商人に任せて税を取ってはいかが。株制度にしてもいいわ。でも、どこかのだれかが抜け駆けでもして、阿芙蓉や西洋の武器が入ってきても困りますわね。慎重になさったほうがいいわ」
「……よくよく考えることにしよう」
「では、お別れですわね」
女将が腰をあげた。シャルルとお照も急いで立ち上がる。
「ずいぶんとそっけないではないか。もう去ろうというのか」
慌てる家斉を女将はフェルセンの腕に手をかけて立つ。
「長いことお世話になりました。感謝しております。フランス奪還のアカツキにはショーグンをベルサイユにご招待いたします。遊びにいらしてくださいね」
踵を返した女将に家斉は鋭い声を放った。
「帰れると思うのか」
女将とフェルセンの前にずらりと居並ぶ家臣団。
「なぜですの」
「フェルセンとやらに江戸を案内してはいかがかと思ってな。バダヴィアには半年滞在したのだから江戸もしばらく滞在して楽しまれてはどうかと」
「……イギリスと密約でも交わしたのね」
「はて」
家斉がにたりと笑う。
女将はくるりと振り返り、ぴたりと家斉を見据える。
「フランスはいま船を出せる状態ではないはず。あとはスペインも考えられるわね。わたくしたちの身柄を他国に売るおつもりだったのでしょう。その船が来るまでわたくしたちを閉じ込めておくつもり……と。たしかに貿易品より実入りがいいかもしれないけれど」
家斉がすっくと立ちあがった。
「だとしたらどうする。どうもできんだろうに」
家臣団が周囲を取り巻いた。
お照は素手で女将の前に立つ。
「アントワネットどの、あまり怒らないでほしい。特別のはからいとしてフェルセンどのと一緒の牢にしてさしあげるので……」
「うるさいわね」
「はい、お母さま」
シャルルが上着の中から鉄砲を取りだした。隠し持っていたようだ。
なぜ自分は大刀を手離してしまったのかと今更ながらほぞをかんだ。
「出たな、鈍器」
家斉はせせら笑った。
女将は無言で鉄砲の巣口を天井に向けるや、引き金を引いた。
家斉の頭上の格天井が撃ち抜かれ、家斉の頭に破片が降った。
「なぜ撃てるのだ。弾を込めなおしたようすはなかったはず」
家斉も家臣団も顔を青ざめさせた。
お照も驚いた。シャルルが鉄砲をいじっていなかったことは、だれより身近にいたお照はよくわかっていたからだ。それどころか、隠し持っていたことさえ気づいていなかった。
「あら、火はまだ消えてなかったのね」
「お母さま、改良した火蓋のおかげですよ」
「あらそうだったの」
暢気な会話のあと、女将は家斉にふたたび巣口を向ける。
「二連発だと思う? 三連発だと思う?」
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