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百二十二、 出島から世界へ
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出島に着く直前、通詞がお照に耳打ちした。
「早く船をおりたほうがいい。できれば半兵衛さんと一緒におりて、そのまま姿を消してはいかがか」
「どうして」
通詞は口ごもった。
「これは勘でしかないのですが……」
「おい、通詞、おりろ」
船長と水夫が通詞の背を乱暴に押した。
半兵衛は先におりたようだ。半兵衛には重要な仕入れの仕事がある。
「あの、わたしも半兵衛さんを手伝います」
下船しようとしたお照に船長は舌打ちした。
「おまえは船室に入っていろ」
ウーリ船長はお照が下船することを許さなかった。
しばらくして、半兵衛が戻ってきた。出島で仕入れてきたのは青菜と人参とさつま芋などの野菜、米や穀類、酒樽、そして布類だった。
「これはお照に。古着だけどな」
「わたしに?」
小袖としごき帯が幾枚か。鳶職が穿く股引も入っているがこちらは新品のようだ。これを着たらシュラウドだって軽々と登れるだろう。
「……あれ、これも古着?」
ほかにも大量の布が目についた。広げると、花魁がまとうような派手な打掛ばかりだ。宝尽くしや御所車、鶴亀の文様が織り込まれている。まるで祝言のための衣装のようだった。
「ど、どうするんですか……これ」
「お照が使うんだよ」
「え」
どきりとした。半兵衛はお照の目を見つめて、お照の手を取った。
「これを身に纏ったら眩しく輝くと思うんだよ」
「そんな……」
「早くやっちまったほうがいいな。おれも手伝うよ」
「やっち……え?」
「カルネアデス号を飾り立ててやろうぜ」
お照と修繕担当の水夫が夜なべで仕立てた帆を、半兵衛は手際よく帆桁に結びつけた。
打掛は帆になった。朝の陽射しを浴びて、絹の縫い取りがきらきらと輝く。
お照が感心したのは半兵衛の器用さだった。水夫たちと身振り手振りで伝え合い、協力し合うようすは、まるで何年も一緒に働いてきた仲間のようだ。索具の扱いもいつのまにか覚えたようだった。
フェルセンと女将、シャルルが甲板にあがってきた。船長もあとに続く。
「うわあ」
シャルルは歓声をあげた。フェルセンも目を細める。
「煌びやかですね。遠くからでもよく目立つでしょう。さあ、準備万端整ったところで船出とまいりましょう」
だが船長だけは渋い顔だ。派手な仕様はお好みではないらしい。
「ウーリ船長、頼まれていた帆布の修繕、終わりました」
言葉が通じないとわかっているが、お照は告げた。
すると船長の背後から通詞がひょこっと顔を出して通訳をしてくれた。
下船したはずの通詞がなぜいるのだろう。
「おれが雇った」半兵衛がにやりと笑う。「手振り身振りだけでは限界があるからな。あいつの名は玉川八十助、もとい、レオンだ」
「半兵衛さん、その名はまずいです」
レオンはひどく焦ったようすだった。
「それって……」
洗礼名というやつではないのか。
「航海に出ちまったら日の本の決まりごとなんか関係ないさ」
レオンが隠れキリシタンであろうと関係ない。日の本で御法度であろうと海に出てしまえば自由だ。逆に言えば、日の本による守護は、もうない。
レオンは大きく息を吸い込んだ。
「旅に同道させていただきます。浅学菲才ですがどうかよろしくお願いいたします」
そう言ってお照に頭を下げた。若そうだとは思っていたが、よくよく見てみれば、月代の剃りあとが青々としている。元服をしたばかりの若者だとしたら、お照と大差ない歳なのだろう。
「こちらこそよろしくお願いします。でも、どうして戻ってきたの。船をおりたがっていたように見えたのに」
「はい、半兵衛さんが破格で雇ってくれたので……。お照さんに忠告したのは、船旅は危険だからです。嵐で難破したり沈没したり飢えたり、あと海賊も出ます。この船の船乗りは粗野な連中の寄せ集めです。船乗りは喧嘩ばかりします。食べ物は最悪だし退屈だし船倉は臭いし」
船旅の過酷さを並べていくうちにレオンはうんざりしたのだろうか、
「ああ、やっぱり報酬に釣られなきゃよかった!」
と喚きだした。
「帰る。やっぱり長崎に帰る!」
「ねえ、もっと楽しいことを考えましょうよ。そうだ、わたしに教えてください。船上で過ごすのに不自由しない程度の外国語を」
若いのに通詞をこなすなんてすごいと褒めるとレオンはようやく微笑んだ。
「いやあ、ぼくなんて……ポルトガル語とスペイン語とフランス語とオランダ語と英語くらいしかわかりません」
レオンが照れくさそうに謙遜した。
「充分なんじゃ……」
「いえ、ぼくなんかまだまだです。いまは中国語を勉強中です」
「わ、わたしも頑張ります!」
隠れキリシタンと御庭番と王さまとその母と母の愛人と侍女と白蓮教徒を乗せた帆船は世界に向かって出帆した。
「これで日本は見納めですわね」
遠くなっていく出島を見ていたら、いつのまにかお照の隣に女将が立っていた。
わたしは見納めにはしない。お照は口には出さずに、ただ小さくなる長崎を見つめた。
「お照さん、わたくし、あなたには心から感謝しております。あなたがいなかったら心が折れていたかもしれません」
「女将さん……」
「それと、謝らなければなりませんね。あなたをオニにしてしまったことを」
「はい……?」
女将の真剣な表情を見て、背筋がぴんとなる。
「オニと人はとても近い生き物なの。うっかりすると、人はオニになったまま、人に戻れなくなる。そんな危険をあなたに負わせてしまったことを謝りたいのよ」
今更なにを言うのだろう。
「女将さんに謝ってもらうことではありません。わたしは鬼になりかけたかもしれませんが……人です」
「ええ、もちろんですとも」
女将は微笑んだ。鬼を慰撫する菩薩を思わせる慈悲深い笑みで。
「日本でやり残したことはある、お照さん?」
お照は答えなかった。答えられなかった。
やり残したことはたくさんあるような気はするが、例えばなにを、と問われたら答えられない。だから必ず日本に戻らなければならない。
「お腹が空きましたわね」
「あ、では船室でお待ちください。なにか見繕ってお持ちします」
「そうしてちょうだい。ちゃんと食べられるものをお願いね」
「早く船をおりたほうがいい。できれば半兵衛さんと一緒におりて、そのまま姿を消してはいかがか」
「どうして」
通詞は口ごもった。
「これは勘でしかないのですが……」
「おい、通詞、おりろ」
船長と水夫が通詞の背を乱暴に押した。
半兵衛は先におりたようだ。半兵衛には重要な仕入れの仕事がある。
「あの、わたしも半兵衛さんを手伝います」
下船しようとしたお照に船長は舌打ちした。
「おまえは船室に入っていろ」
ウーリ船長はお照が下船することを許さなかった。
しばらくして、半兵衛が戻ってきた。出島で仕入れてきたのは青菜と人参とさつま芋などの野菜、米や穀類、酒樽、そして布類だった。
「これはお照に。古着だけどな」
「わたしに?」
小袖としごき帯が幾枚か。鳶職が穿く股引も入っているがこちらは新品のようだ。これを着たらシュラウドだって軽々と登れるだろう。
「……あれ、これも古着?」
ほかにも大量の布が目についた。広げると、花魁がまとうような派手な打掛ばかりだ。宝尽くしや御所車、鶴亀の文様が織り込まれている。まるで祝言のための衣装のようだった。
「ど、どうするんですか……これ」
「お照が使うんだよ」
「え」
どきりとした。半兵衛はお照の目を見つめて、お照の手を取った。
「これを身に纏ったら眩しく輝くと思うんだよ」
「そんな……」
「早くやっちまったほうがいいな。おれも手伝うよ」
「やっち……え?」
「カルネアデス号を飾り立ててやろうぜ」
お照と修繕担当の水夫が夜なべで仕立てた帆を、半兵衛は手際よく帆桁に結びつけた。
打掛は帆になった。朝の陽射しを浴びて、絹の縫い取りがきらきらと輝く。
お照が感心したのは半兵衛の器用さだった。水夫たちと身振り手振りで伝え合い、協力し合うようすは、まるで何年も一緒に働いてきた仲間のようだ。索具の扱いもいつのまにか覚えたようだった。
フェルセンと女将、シャルルが甲板にあがってきた。船長もあとに続く。
「うわあ」
シャルルは歓声をあげた。フェルセンも目を細める。
「煌びやかですね。遠くからでもよく目立つでしょう。さあ、準備万端整ったところで船出とまいりましょう」
だが船長だけは渋い顔だ。派手な仕様はお好みではないらしい。
「ウーリ船長、頼まれていた帆布の修繕、終わりました」
言葉が通じないとわかっているが、お照は告げた。
すると船長の背後から通詞がひょこっと顔を出して通訳をしてくれた。
下船したはずの通詞がなぜいるのだろう。
「おれが雇った」半兵衛がにやりと笑う。「手振り身振りだけでは限界があるからな。あいつの名は玉川八十助、もとい、レオンだ」
「半兵衛さん、その名はまずいです」
レオンはひどく焦ったようすだった。
「それって……」
洗礼名というやつではないのか。
「航海に出ちまったら日の本の決まりごとなんか関係ないさ」
レオンが隠れキリシタンであろうと関係ない。日の本で御法度であろうと海に出てしまえば自由だ。逆に言えば、日の本による守護は、もうない。
レオンは大きく息を吸い込んだ。
「旅に同道させていただきます。浅学菲才ですがどうかよろしくお願いいたします」
そう言ってお照に頭を下げた。若そうだとは思っていたが、よくよく見てみれば、月代の剃りあとが青々としている。元服をしたばかりの若者だとしたら、お照と大差ない歳なのだろう。
「こちらこそよろしくお願いします。でも、どうして戻ってきたの。船をおりたがっていたように見えたのに」
「はい、半兵衛さんが破格で雇ってくれたので……。お照さんに忠告したのは、船旅は危険だからです。嵐で難破したり沈没したり飢えたり、あと海賊も出ます。この船の船乗りは粗野な連中の寄せ集めです。船乗りは喧嘩ばかりします。食べ物は最悪だし退屈だし船倉は臭いし」
船旅の過酷さを並べていくうちにレオンはうんざりしたのだろうか、
「ああ、やっぱり報酬に釣られなきゃよかった!」
と喚きだした。
「帰る。やっぱり長崎に帰る!」
「ねえ、もっと楽しいことを考えましょうよ。そうだ、わたしに教えてください。船上で過ごすのに不自由しない程度の外国語を」
若いのに通詞をこなすなんてすごいと褒めるとレオンはようやく微笑んだ。
「いやあ、ぼくなんて……ポルトガル語とスペイン語とフランス語とオランダ語と英語くらいしかわかりません」
レオンが照れくさそうに謙遜した。
「充分なんじゃ……」
「いえ、ぼくなんかまだまだです。いまは中国語を勉強中です」
「わ、わたしも頑張ります!」
隠れキリシタンと御庭番と王さまとその母と母の愛人と侍女と白蓮教徒を乗せた帆船は世界に向かって出帆した。
「これで日本は見納めですわね」
遠くなっていく出島を見ていたら、いつのまにかお照の隣に女将が立っていた。
わたしは見納めにはしない。お照は口には出さずに、ただ小さくなる長崎を見つめた。
「お照さん、わたくし、あなたには心から感謝しております。あなたがいなかったら心が折れていたかもしれません」
「女将さん……」
「それと、謝らなければなりませんね。あなたをオニにしてしまったことを」
「はい……?」
女将の真剣な表情を見て、背筋がぴんとなる。
「オニと人はとても近い生き物なの。うっかりすると、人はオニになったまま、人に戻れなくなる。そんな危険をあなたに負わせてしまったことを謝りたいのよ」
今更なにを言うのだろう。
「女将さんに謝ってもらうことではありません。わたしは鬼になりかけたかもしれませんが……人です」
「ええ、もちろんですとも」
女将は微笑んだ。鬼を慰撫する菩薩を思わせる慈悲深い笑みで。
「日本でやり残したことはある、お照さん?」
お照は答えなかった。答えられなかった。
やり残したことはたくさんあるような気はするが、例えばなにを、と問われたら答えられない。だから必ず日本に戻らなければならない。
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