江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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三、 生意気なシャルル

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 板塀の上には、腹ばいになってうんうんと唸っている小さな先客がいた。
 板塀の外側をお歯黒どぶというお堀がぐるりと囲んで外界を絶っている。つまりは吉原の境界である。

 張りついていたのは童女と同じ年頃の童子だった。
 ほうきを使って向こう側にあるどぶの底を必死にさらっている。

 どぶの中に落ちてしまわないかと、お照ははらはらする。

「シャルル、ありがとう。おとなを連れてきたから」

 おとなと言われてお照は面映ゆい気持ちになる。
 童女にとっては十五のお照は頼りがいのあるおとなに映るのだろう。
 しかし、しゃるる、とは面白い響きの名前だ。

 板塀はお照の頭より高い。だが台の上に乗ればお歯黒どぶがよく見えた。
 黒く濁った水は嫌な匂いがする。
 おとな二人分ほどの幅があるので飛び越えるのは無理だ。
 童女の櫛が汚泥の中に埋もれていたら、探し出すのは難しそうだとお照は心配になった。

「箒を貸してちょうだい」

 お照は腰に巻いていた紐を一本解いてたすき掛けをすると、頬被ほっかむりした童子に手を伸ばした。

「いいよ、ぼくがやるから」

 シャルルと呼ばれた童子が振り返った。
 その顔を見てお照は思わず声をあげた。

「天狗!」

 異形だった。目が大きく、瞳が青い。鼻がつんと尖っている。顔色は肺病みのように青白いうえに髪は黄ばんでくしゃくしゃだ。

 お照は慌てて手を引っ込めた。

「シャルルは天狗じゃない。おとななのに、南蛮人を見たことがないの?」

 童女はお照の態度を責めた。

「南蛮人……」

 お照は恥ずかしくなって手で口を押さえた。

 お照とて江戸っ子、南蛮人を見たことくらい、幾度もある。
 いつだったか、絵草子屋で摺り物を買いあさる南蛮人を見かけたことがあった。故郷への土産を求めていたのだろう。奇妙な風体で体が大きく、髭が濃かった。

 だが目の前の童子は珍奇な帽子の代わりに手ぬぐいを頬被りしている。分厚い天鵞絨ビロード生地の外套ではなく、肩揚げした単衣の木綿姿だ。身につけているものはそこらにいるこどもと変わらない。もじゃもじゃの髭もない。言葉も通じる。
 よくよく顔を覗きこめば天狗とは似ても似つかない、いとけない顔をしている。

「女には無理だ。ぼくがやるよ」

 お照の無遠慮な視線を不快に感じたのだろうか、シャルルはむっとした表情でどぶさらいを再開した。

「見つからない?」

 心配そうに眉を寄せる童女に、シャルルは存外優しげな声で応える。

「底をはいて沈んでるものをこっちに寄せてみた。でも大きな石があるみたいで邪魔してる。それをひっくり返せれば出てくると思う」

 童子がいくら腕を伸ばしても届く長さには限界がある。

「外に出て反対側からさらってみようか。箒を貸してくれる?」

「邪魔しないで」

 シャルルはお照の手を押しのけた。

「最初に真琴まことに頼まれたのはぼくだ。途中で投げ出しては男の沽券こけんにかかわる」

 おや、とお照は思った。
 まるで小さな武士だ。頑固で面子めんつにこだわる。
 真琴とはこの童女の名前なのだろう。もしかしたら、シャルルは真琴にかっこいいところを見せたいのかもしれない。

 むきになって箒でかき回しているようすは、いじらしく好ましいと思った。
 だが勢い余ってどぶの中に落ちそうになるのは見ていられない。

 こちらは「おとな」だ。背が高い分、腕も長い。それにいざというときに踏ん張る力もある。

「じゃあ、箒は取らないから、ちょっと休んでいて。わたしはどぶの向こう側に回るからそれまで待っててくれる。一緒にやろうね」

「……いいよ」

 シャルルは箒をいったん置いて台の上に座った。
 額にうっすらと汗を浮かべている。疲れていないわけはないのだ。
 気位が高いのも微笑ましい。
 日本で生まれ育ったに違いないとお照は確信した。
 きっと女郎の子なのだろう。南蛮人が女郎に生ませて捨てていったのだろうか。
 だとしたら、この子も苦労していることだろう、などと考えながら大門に向かった。
 途中でちょうどいい長さの棒を茶屋のそばで見つけた。

「すみません、ちょっと借ります」

 提灯を高い場所に吊るすための、先が二股になっている棒。
 お照の声は誰の耳にも届いていなさそうだったが、かまうまい。
 会所で木札をかざして大門を出ると、槍のように棒を抱えてひたすらお歯黒どぶ沿いを走る。真琴とシャルルが手をふっているのが見えた。

「ここら辺かな」

 お歯黒どぶの幅は二間ほどあるだろうか、長い棒を持ってきたのは正解だったとお照は思う。
 さっそく棒を刺し入れた。
 棒の先が泥に潜った感覚が手に伝わり、水面にぼこと泡が浮いた。

「くっさ」

 シャルルが鼻をつまむ真似をする。
 

「ねえ、ほんとにここら辺なの? どうしてここに落としちゃったの?」

 お照が問うと、真琴は声を張りあげた。

「うれしくてほかの子に自慢しちゃったの。そしたら見せろ見せろって。取られるのが怖くてつい投げてしまったの。お歯黒どぶに落とすつもりはなかったのよ」

 それはそうだろう。
 見せろと言ってきた子も焦ったに違いない。
 堀水は澱んでいるので櫛が遠くに流されることはないだろう。
 だがその分、澱みは深い。

 シャルルの箒とお照の棒が汚泥をかき回す。
 やがて棒の先にかつんと硬いものが触れた。

 棒の先に乗せるようにして持ち上げると、櫛のようなものが一瞬だけ浮かんだ。しかしするりと、人目を忍ぶかのように沈んだ。

「惜しい」

「もう一回やってみて。今度はぼくが箒で挟むから」

 お照の棒とシャルルの箒でうまく挟めば櫛も逃げ場がないだろう。
 お照はぐいと力をこめて櫛が沈んだあたりをさぐった。
 なにかが絡んだ手応えがあった。

「よいしょっと」

 お照のかけ声とともに浮きあがったものは櫛ではなかった。

「ひ」

「うわ」

 お照は息を飲んだ。
 現われたのは手首だった。棒に絡んでしなだれた、真っ白な手。
 棒を伝って、冷気が忍び寄る気配がして、お照は棒を放した。
 手首は水中に隠れたが、まもなく、ごぼと泡がたち、ぷかりと頭が浮かんだ。
 若い女の頭部。長い髪が顔にはりついている。
 すぐに首から下も水面にあらわれた。
 むくろは、まるで水遊びをしているようにゆらゆらとくつろいでいた。
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