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七、 吉牛を探せ
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「たいへんだ。吉牛がいなくなった」
「吉牛?」
「うちで飼ってる牛だよ」
小屋から牛が脱走したらしい。言われればなるほど獣臭い。
「お照、探すの手伝って」
「うん」
シャルルは狭い路地をすり抜けながら「よしぎゅう~」と叫ぶ。道行く人に牛を見ていないかと声をかける。
「どんな牛なの?」
お照は左右に目を走らせつつ、問いかける。
「真っ白くて大きな雌牛なんだ。吉宗って人がインドから取り寄せたらしいよ。ぼくが生まれる前の話らしいけど。どっかの牧場で殖やした一頭をいまの将軍が貸してくれたんだ」
「吉……それって八代目公方様のことじゃ……。ねえ、あなたたち、いったい……」
大門の門番に聞いてみたが、門を通っていないことは確認できた。
念のため番屋に届け出る。半兵衛はいなかった。
「一番広いのは仲之町。まずは仲之町の一番奥まで行ってみよう。お照は右を見て。ぼくは左を見るから」
「う、うん」
仲之町の通りは広い。
真ん中には灯籠と桜並木がある。
シャルルはお照を右側に残し、ひとり桜の向こうに消えた。
桜は惜しげもなく花弁を広げている。客はまばらで、お天道様はまだ頭上にいる。シャルルを見失うことも牛を見落とすこともなさそうだ。
お照は右手側にずらりと並ぶ引手茶屋に目を走らせる。
「すみません。白い牛を見ませんでしたか」
のれんの皺を伸ばしていた手代らしき茶屋の青年に訊ねた。
「白い牛。ああ、見たよ。今ごろは火玉屋にいるだろう」
いきなり牛を見た人に行き当たった。これは幸先がいい。
「火玉屋……?」
「羅生門河岸にある見世だよ」
手代の男は斜め向こうの方角を指さした。
「ありがとうございます」
やり取りを見ていたらしいシャルルがすぐに飛んできた。お照の手を取って左の横丁に入っていく。
「お照、こっちだ」
羅生門河岸は大門から見て左端の壁際を指すらしい。茶屋はやがて籬の見世にかわる。
赤い格子の奥で遊女は気怠げに煙管を吹かせている。
「もっと先だよ、お照」
足を止めて見入っていたお照にシャルルが声を投げた。
「吉原ってずいぶんと広いのね。まだ先があるの?」
仲之町沿いだけでも相当の数の見世がある。仲之町と交差している通りにはそれぞれ木戸があり、その奥には建物が肩をぶつけるようにしてぎっしりと並んでいる。小間物商いや湯屋もある。
時間つぶしの客でもいるのか、居酒屋はすでに店を開き、店主が里芋の煮っころがしを店先に盛っている。
「吉原はひとつの大きな町なのね」
シャルルは少し悲し気な笑みを浮かべる。
「ここから出られない人がたくさん住んでいるからだよ。暮らしていくのに必要なものは外に行かなくても手に入るようになってる」
「なるほどねえ。ないのはお寺と芝居小屋くらいかしら」
「稲荷社はあるよ。あ、塀が見えたね。火玉屋はたしか河岸見世の、一番はしのほうだったかな」
地味で貧相な構えの見世が増えてきた。格子の朱も剥げている。
どこかから牛が飛び出してきやしないか、警戒しながら小道を歩いた。
「あら、ぐるりの板塀に見覚えが……。この外がお歯黒どぶね」
女郎が逃げ出せないようにぐるりを囲むお掘は、これまでに何人の女を苦しめてきたのだろう。
板塀をよじ登って飛び込んだ女はさきほどのホトケさんだけではあるまい。
「お堀ってのはお城を守るためのものだけど、ここは逆なんだ。女郎が逃げ出せないようにしてる。逃げ出せないのは女郎だけじゃないけど。で、ここらいったいが河岸見世といって、線香女郎が働くところ」
「線香女郎?」
「線香一本でいくらっていう、格別安い女郎をそう呼ぶらしいよ」
お照の鼻先に魚が腐ったような嫌なにおいがかすめていった。
お歯黒どぶが近いので夏場は蚊に悩まされるだろう。
足下がぬかるんでいて滑りそうになる。
「火玉屋ってこちらですか?」
シャルルは一軒の見世に声をかけた。
歯の抜けた痩せた老婆が「隣だよ」と教えてくれた。
土間が見えたが埃だらけでしばらく火を入れた様子がない。食べるものにもこと欠いているようだ。
不安がわきあがった。
「早く吉牛を見つけなきゃ」
お照の考えを読んだのか、シャルルがくすんと笑う。
「仏教徒って動物の肉は食べないんでしょう。ぼくはこの国に来てから魚くらいしか食べてないよ」
「仏教徒だって動物の肉を食べないわけじゃないのよ」
なんにでも例外というものはあるものだ。
「鶏肉は食べるみたいだね」
「山鯨って知ってる? けっこう人気があるんだよ」
「鯨って大きな魚でしょう?」
お照は顔をしかめて首を振る。シャルルは早く教えてとねだった。
「猪の肉よ。猪、わかる? 煮込むと牡丹の花のようにくしゃっとなるから『ぼたん』とも言うの。ほかにも、鹿の肉を『もみじ』、馬の肉を『さくら』って言い換えたり、うさぎを一羽って数えて鳥扱いしたり。あとは薬食いといってね、とくに牛は滋養強壮の薬と言い換えて食べることがあるのよ」
シャルルの顔はとたんに青ざめた。怪談話に怯えたような表情だ。
お照はしまったと思ったがもう遅い。
シャルルは火玉屋に飛び込んで叫ぶ。
「ぼくの牛を返してください!」
「吉牛?」
「うちで飼ってる牛だよ」
小屋から牛が脱走したらしい。言われればなるほど獣臭い。
「お照、探すの手伝って」
「うん」
シャルルは狭い路地をすり抜けながら「よしぎゅう~」と叫ぶ。道行く人に牛を見ていないかと声をかける。
「どんな牛なの?」
お照は左右に目を走らせつつ、問いかける。
「真っ白くて大きな雌牛なんだ。吉宗って人がインドから取り寄せたらしいよ。ぼくが生まれる前の話らしいけど。どっかの牧場で殖やした一頭をいまの将軍が貸してくれたんだ」
「吉……それって八代目公方様のことじゃ……。ねえ、あなたたち、いったい……」
大門の門番に聞いてみたが、門を通っていないことは確認できた。
念のため番屋に届け出る。半兵衛はいなかった。
「一番広いのは仲之町。まずは仲之町の一番奥まで行ってみよう。お照は右を見て。ぼくは左を見るから」
「う、うん」
仲之町の通りは広い。
真ん中には灯籠と桜並木がある。
シャルルはお照を右側に残し、ひとり桜の向こうに消えた。
桜は惜しげもなく花弁を広げている。客はまばらで、お天道様はまだ頭上にいる。シャルルを見失うことも牛を見落とすこともなさそうだ。
お照は右手側にずらりと並ぶ引手茶屋に目を走らせる。
「すみません。白い牛を見ませんでしたか」
のれんの皺を伸ばしていた手代らしき茶屋の青年に訊ねた。
「白い牛。ああ、見たよ。今ごろは火玉屋にいるだろう」
いきなり牛を見た人に行き当たった。これは幸先がいい。
「火玉屋……?」
「羅生門河岸にある見世だよ」
手代の男は斜め向こうの方角を指さした。
「ありがとうございます」
やり取りを見ていたらしいシャルルがすぐに飛んできた。お照の手を取って左の横丁に入っていく。
「お照、こっちだ」
羅生門河岸は大門から見て左端の壁際を指すらしい。茶屋はやがて籬の見世にかわる。
赤い格子の奥で遊女は気怠げに煙管を吹かせている。
「もっと先だよ、お照」
足を止めて見入っていたお照にシャルルが声を投げた。
「吉原ってずいぶんと広いのね。まだ先があるの?」
仲之町沿いだけでも相当の数の見世がある。仲之町と交差している通りにはそれぞれ木戸があり、その奥には建物が肩をぶつけるようにしてぎっしりと並んでいる。小間物商いや湯屋もある。
時間つぶしの客でもいるのか、居酒屋はすでに店を開き、店主が里芋の煮っころがしを店先に盛っている。
「吉原はひとつの大きな町なのね」
シャルルは少し悲し気な笑みを浮かべる。
「ここから出られない人がたくさん住んでいるからだよ。暮らしていくのに必要なものは外に行かなくても手に入るようになってる」
「なるほどねえ。ないのはお寺と芝居小屋くらいかしら」
「稲荷社はあるよ。あ、塀が見えたね。火玉屋はたしか河岸見世の、一番はしのほうだったかな」
地味で貧相な構えの見世が増えてきた。格子の朱も剥げている。
どこかから牛が飛び出してきやしないか、警戒しながら小道を歩いた。
「あら、ぐるりの板塀に見覚えが……。この外がお歯黒どぶね」
女郎が逃げ出せないようにぐるりを囲むお掘は、これまでに何人の女を苦しめてきたのだろう。
板塀をよじ登って飛び込んだ女はさきほどのホトケさんだけではあるまい。
「お堀ってのはお城を守るためのものだけど、ここは逆なんだ。女郎が逃げ出せないようにしてる。逃げ出せないのは女郎だけじゃないけど。で、ここらいったいが河岸見世といって、線香女郎が働くところ」
「線香女郎?」
「線香一本でいくらっていう、格別安い女郎をそう呼ぶらしいよ」
お照の鼻先に魚が腐ったような嫌なにおいがかすめていった。
お歯黒どぶが近いので夏場は蚊に悩まされるだろう。
足下がぬかるんでいて滑りそうになる。
「火玉屋ってこちらですか?」
シャルルは一軒の見世に声をかけた。
歯の抜けた痩せた老婆が「隣だよ」と教えてくれた。
土間が見えたが埃だらけでしばらく火を入れた様子がない。食べるものにもこと欠いているようだ。
不安がわきあがった。
「早く吉牛を見つけなきゃ」
お照の考えを読んだのか、シャルルがくすんと笑う。
「仏教徒って動物の肉は食べないんでしょう。ぼくはこの国に来てから魚くらいしか食べてないよ」
「仏教徒だって動物の肉を食べないわけじゃないのよ」
なんにでも例外というものはあるものだ。
「鶏肉は食べるみたいだね」
「山鯨って知ってる? けっこう人気があるんだよ」
「鯨って大きな魚でしょう?」
お照は顔をしかめて首を振る。シャルルは早く教えてとねだった。
「猪の肉よ。猪、わかる? 煮込むと牡丹の花のようにくしゃっとなるから『ぼたん』とも言うの。ほかにも、鹿の肉を『もみじ』、馬の肉を『さくら』って言い換えたり、うさぎを一羽って数えて鳥扱いしたり。あとは薬食いといってね、とくに牛は滋養強壮の薬と言い換えて食べることがあるのよ」
シャルルの顔はとたんに青ざめた。怪談話に怯えたような表情だ。
お照はしまったと思ったがもう遅い。
シャルルは火玉屋に飛び込んで叫ぶ。
「ぼくの牛を返してください!」
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