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八、 白牛
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ぽかんとした顔の女が出迎える。耳が遠いのか反応が鈍い。
「うしぃ?」
「はい、白い牛です!」
ひときわ大きな声を出すと、女はうっとうしげに手を払った。
「ああ、白牛に用かい。二階にいるよ。勝手にあがればいいよ」
「え、いいんですか」
「こっちは宿酔いがひどいんだ、大声をあげないでおくれよ」
二階にあがるには段梯子しかない。
段梯子を牛が上るわけがない、となると、もう薬になっているのでは、と覚悟して上った先には、布団に寝そべったまま煙管の煙をくゆらす女郎がひとり。
「わっちのこと、呼んだ?」
その両目はとろんとして焦点を結んでいない。
潰れた豆腐のような身体をぷるぷると揺らす。
そこでようやく勘違いをしていたことに気づいた。
「白牛……さん」
「そうだよ」
白牛という名の女郎のことだったのだ。
煙管の煙がねっとりとまといつくように甘く香る。
シャルルはぺたんと畳に座り込んだ。
無駄と知りつつ、お照はたずねた。
「白い本物の牛は見てませんか」
「はっ、牛がいるわけないだろ、吉原に。ここは男の夢の国さ。夢を壊すようなもんはあっちゃならねえのさ」
鼻のふたつの穴と歯の抜けた口からだらしなく煙を吐き出して白牛は笑う。
「おや、あんた。たしか、異国から来た子だよねえ」
シャルルの頬に手を伸ばす。
「すべすべじゃないか。若いっていいねえ」
思わずお照は白牛の手を叩いた。
「いて、なにすんだい」
「もう用は済みました。シャルル、失礼しましょう。ほかを探さなくちゃ」
「うん」
シャルルはほっとした表情でお照を見あげた。
「ちょっと待ちなよ。勝手に勘違いして部屋まであがっておいてさ、花代とは言わないけどさ、代わりに土産話の一つや二つくらいしていくもんさ」
「土産話なんて」
「昨日、異国のこどもが女郎のホトケを見つけたんだってね。あんたのことだろ」
白牛は煙管を灰落としに叩きつけた。カンと小気味いい音が響く。
シャルルはびくんと身体を震わせた。
お照は思わず身を乗り出した。
「わたしもその場にいたんですよ。代わりにわたしが話してあげましょう」
「ふうん、いいけどさ。……その女、どうなったんだい。そも、なんで死んだんだい」
白牛はふいに天井を見上げた。つかみどころのない煙を追いかけるように視線をさまよわせ、諦めたように目を伏せる。
「同心の半兵衛さんの話では女はみずからお歯黒どぶに飛び込んだってことなんですけど、どうにも疑わしいんです。……半兵衛さんはあまり、その、やる気がなさそうでした。せめて身元くらいは真剣に探してあげないと、引き取り手が現れなかったらホトケさんはお寺に……あ、もしかして白牛さん、心当たりでも?」
白牛はぷっと吹きだした。
「あるわけないだろ、吉原には三千を越える女郎がいるんだよ。呼び出しの花魁と線香女郎を並べちゃおこがましいけどね。その死んだ妓もさ、ある意味苦界から逃げ出せたんだ、よかったじゃないか。わっちは身体が重いんで、逃げ出そうなんて思わないけどね」
「その女郎というのは、恐ろしいことに、折檻で足を折られていて……」
白牛は煙管をまたもカンと鳴らした。
「半兵衛がずさんなのは仕方ないさ。客が殺されでもしたのなら別だろうけど。折檻のあげく死なれちまうなんて、どこの女郎屋か知らないが阿呆だね。あんたはもう忘れちまいな。女郎の死をいちいち数えていたら頭がおかしくなるよ」
白牛は大きなあくびをした。
「話は今度聞くことにするよ。今日のところは貸しにしてやる。どうにも眠いからもう帰っていいよ」
「はあ」
自分から引き止めて話をねだったくせに、眠くなったから帰っていいと突き放すのは実に……自由な人だ。
ひそかに息を吐いた。今日からおのれも同じ吉原の住人である。吉原の考え方や掟を、否が応でも受け入れるしかないだろう。
お照とシャルルは外に出た。
道行く人に牛を『モウと鳴く白い牛』を見なかったか訊ねたが答えは全部否だった。
「どうしよう。ぼくがちゃんと閂をかけておかなかったせいだ。お母さまに怒られる」
シャルルはすっかりしょげかえっていた。
「女将さんは怒ると怖いの」
「うん……すごく……」
今にも泣き出しそうな表情になる。親に叱られるのが怖いと涙ぐむなんて、なんともこどもらしい。
お照は心の底から安堵した。
七つ八つほどの童子の振る舞いとしては、どこか不自然なものを感じていたからだ。
さきほど薬食いの話をしたときも、こどもらしい怯えた顔が見たかったという気持ちも、ほんのちょっぴりあったことは我ながら否定できない。
しかし、あの弥勒菩薩のような女将が怒ると怖いとは想像しにくい。
「お父さんも怖い人なの? きっと違うでしょう。優しいかたなんじゃない」
「うん、そうだよ。どうしてわかるの?」
母親が厳しいと父親は甘やかすものだ。逆の場合も同じで、世の中には実によくあること。異人の家族も同じなのではと思っただけだったのだが、尊敬のまなざしをしたシャルルに見上げられて、すこぶる気持ちが良かった。
「ならお父さんに先に謝りましょう。女将さんに伝える前に」
「無理だよ、だってお父さまはフランスにいるし」
「フランスって?」
「うしぃ?」
「はい、白い牛です!」
ひときわ大きな声を出すと、女はうっとうしげに手を払った。
「ああ、白牛に用かい。二階にいるよ。勝手にあがればいいよ」
「え、いいんですか」
「こっちは宿酔いがひどいんだ、大声をあげないでおくれよ」
二階にあがるには段梯子しかない。
段梯子を牛が上るわけがない、となると、もう薬になっているのでは、と覚悟して上った先には、布団に寝そべったまま煙管の煙をくゆらす女郎がひとり。
「わっちのこと、呼んだ?」
その両目はとろんとして焦点を結んでいない。
潰れた豆腐のような身体をぷるぷると揺らす。
そこでようやく勘違いをしていたことに気づいた。
「白牛……さん」
「そうだよ」
白牛という名の女郎のことだったのだ。
煙管の煙がねっとりとまといつくように甘く香る。
シャルルはぺたんと畳に座り込んだ。
無駄と知りつつ、お照はたずねた。
「白い本物の牛は見てませんか」
「はっ、牛がいるわけないだろ、吉原に。ここは男の夢の国さ。夢を壊すようなもんはあっちゃならねえのさ」
鼻のふたつの穴と歯の抜けた口からだらしなく煙を吐き出して白牛は笑う。
「おや、あんた。たしか、異国から来た子だよねえ」
シャルルの頬に手を伸ばす。
「すべすべじゃないか。若いっていいねえ」
思わずお照は白牛の手を叩いた。
「いて、なにすんだい」
「もう用は済みました。シャルル、失礼しましょう。ほかを探さなくちゃ」
「うん」
シャルルはほっとした表情でお照を見あげた。
「ちょっと待ちなよ。勝手に勘違いして部屋まであがっておいてさ、花代とは言わないけどさ、代わりに土産話の一つや二つくらいしていくもんさ」
「土産話なんて」
「昨日、異国のこどもが女郎のホトケを見つけたんだってね。あんたのことだろ」
白牛は煙管を灰落としに叩きつけた。カンと小気味いい音が響く。
シャルルはびくんと身体を震わせた。
お照は思わず身を乗り出した。
「わたしもその場にいたんですよ。代わりにわたしが話してあげましょう」
「ふうん、いいけどさ。……その女、どうなったんだい。そも、なんで死んだんだい」
白牛はふいに天井を見上げた。つかみどころのない煙を追いかけるように視線をさまよわせ、諦めたように目を伏せる。
「同心の半兵衛さんの話では女はみずからお歯黒どぶに飛び込んだってことなんですけど、どうにも疑わしいんです。……半兵衛さんはあまり、その、やる気がなさそうでした。せめて身元くらいは真剣に探してあげないと、引き取り手が現れなかったらホトケさんはお寺に……あ、もしかして白牛さん、心当たりでも?」
白牛はぷっと吹きだした。
「あるわけないだろ、吉原には三千を越える女郎がいるんだよ。呼び出しの花魁と線香女郎を並べちゃおこがましいけどね。その死んだ妓もさ、ある意味苦界から逃げ出せたんだ、よかったじゃないか。わっちは身体が重いんで、逃げ出そうなんて思わないけどね」
「その女郎というのは、恐ろしいことに、折檻で足を折られていて……」
白牛は煙管をまたもカンと鳴らした。
「半兵衛がずさんなのは仕方ないさ。客が殺されでもしたのなら別だろうけど。折檻のあげく死なれちまうなんて、どこの女郎屋か知らないが阿呆だね。あんたはもう忘れちまいな。女郎の死をいちいち数えていたら頭がおかしくなるよ」
白牛は大きなあくびをした。
「話は今度聞くことにするよ。今日のところは貸しにしてやる。どうにも眠いからもう帰っていいよ」
「はあ」
自分から引き止めて話をねだったくせに、眠くなったから帰っていいと突き放すのは実に……自由な人だ。
ひそかに息を吐いた。今日からおのれも同じ吉原の住人である。吉原の考え方や掟を、否が応でも受け入れるしかないだろう。
お照とシャルルは外に出た。
道行く人に牛を『モウと鳴く白い牛』を見なかったか訊ねたが答えは全部否だった。
「どうしよう。ぼくがちゃんと閂をかけておかなかったせいだ。お母さまに怒られる」
シャルルはすっかりしょげかえっていた。
「女将さんは怒ると怖いの」
「うん……すごく……」
今にも泣き出しそうな表情になる。親に叱られるのが怖いと涙ぐむなんて、なんともこどもらしい。
お照は心の底から安堵した。
七つ八つほどの童子の振る舞いとしては、どこか不自然なものを感じていたからだ。
さきほど薬食いの話をしたときも、こどもらしい怯えた顔が見たかったという気持ちも、ほんのちょっぴりあったことは我ながら否定できない。
しかし、あの弥勒菩薩のような女将が怒ると怖いとは想像しにくい。
「お父さんも怖い人なの? きっと違うでしょう。優しいかたなんじゃない」
「うん、そうだよ。どうしてわかるの?」
母親が厳しいと父親は甘やかすものだ。逆の場合も同じで、世の中には実によくあること。異人の家族も同じなのではと思っただけだったのだが、尊敬のまなざしをしたシャルルに見上げられて、すこぶる気持ちが良かった。
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「無理だよ、だってお父さまはフランスにいるし」
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